「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

わからないことを大切にしたい

2016-02-01 20:33:44 | 雑感
全く投稿しなくなってしまったのだけど、何もしていないわけでもない

では何をしているのであるか?

自由の哲学を読んでいくうちに、だんだん大きくなってくる問いに、多少なりともアプローチしてからでないと読み進められなくなったのである

その問いとは、どのようなものであるか?

そもそも、浮かび上がってくる問いの存在というものには、どんな性質、意味があるのだろうと思わずにはいられない

問いを一つの働きと捉えると、それはまるで種のようである
そこから話は展開していく

いったいなぜその問いを、シュタイナーは立てるのだろうか?という問い
私にとってその必然性というか、話の自然な流れと感じられない問いをシュタイナーが立てる時、なんで?と感じること、それ自体にも注目してみたい

言葉の使い方への問い
私にとって違和感を感じさせられる言葉の使い方があることにも注目したい

世界観への問い
自明のように語られるが、私にとっては自明ではない世界観、世界の構造に対する問い

問いへの答えを完全に見つけることは、すぐには難しいだろう

今は木田元さんという方の「私の哲学入門」という本を読んでみている

そもそも哲学への素養が乏しいので、本質とか主体とか存在とか、そういう根本的な言葉にいちいち引っかかってしまう

またそのひっかかりに注目してみることで、哲学の源流をたどることも楽しい

哲学とは、形而上学のこと
それは言葉の世界である

そこには一定の構造がある

その構造そのものへの疑いもあって当然だと思う

それは現代ではほとんど否定されている構造ではないだろうか

何をシュタイナーは肯定し、現代は否定しているのだろうか








骨を組み立てる

2014-12-06 17:34:45 | 雑感
このブログ、ほんとただのノート代わりなわりにはちゃんと項目ごとに分類してくれてるから助かる

記事を書いてから時間が経ちすぎて、自分で書いた内容がまるで他人が書いたかのように理解不能になっていて、読み返してみたりする

そうすると、意外に自分のイメージング力は悪くない気がして、さらに頑張ってみようかなと思う

一人で読んでいると立ち止まりたいところで立ち止まれるのがよいところ

でもそもそもが怠惰だから、それをきっかけにいつまでもボンヤリしてしまう

骨格で読む本だけあって、自分の骨と馴染みがないところではガチガチと当たる感じですぐには進んで行けない

なんかこう、ぶつかる感があって、しばらくは動けない感じ

目に見えないから、いったい何がどこにぶつかったのだろう?から始まる;^_^

もとい、となって…

自分のほうの関節をゆるめて、またはじめから、どこをどう組み立てるのかプランニングせねば

それには部品チェックも再度きちんとしないとね

単語、文脈

たいへんすぎるけど、なかなか楽しい作業……


いやほんと、けっこうはまっています^o^

感覚器のスイッチ

2013-12-31 15:07:12 | 雑感
ちょっと大胆な仮説

私自身に起きた主観的スポットライト現象について

それが確かに起きた事実としてみた場合

なぜ起きたのか?

そう考えると面白いことに気がつく

シュタイナーが言っている、魂の中に問いを持つこと

概念の領域に踏み込むこと

通常の状態からの移動

思考についての思考

自分の問いについて問うことが、計らずもその状態に合致してしまったのだとしたらどうだろう

しかし、たとえそうだったとしても、誰かとそれを共有することは出来ない

文字にスポットライトが当たるにせよ、目の中に星が飛び込むにせよ(以前、考え事に集中しすぎていたらそんなことがあった)、シュタイナーが「おいでやす」するにしても、結局それは私の感覚器だけがそう捉えたのであって、いくら近くに人がいても同じ経験をすることはない

私が問いを問いながらいた地点が、仮に概念の世界や霊界だったとしてみよう

だとしたら、それは同じこの場所で、私の感覚器が何らかの形でそれに対して開かれた状態になることによって、その存在を感知することになるものだと思われる



意識の肉体の増殖

2013-12-29 19:30:03 | 雑感
今日浮かんだイメージ

問いを持ちながら生きるとき、
人間は答に向かって開かれている

答がいくらあっても、人が開かれていないなら、何にも出会うことは出来ない

問いは私の限界点に存在し、そこに訪れる答は、新しく加わる私部分となる

問いの地点において私は増殖する

私の意識の肉体の増殖
成長








概念のコラージュ

2013-12-27 19:36:21 | 雑感
確か以前読んだコリン・ウィルソンのシュタイナー研究本に、シュタイナーの思想は借り物のつぎはぎという批判があると書かれていたように思う

他の人の哲学書をたくさん読んだわけではないから、一般的にも哲学はいくつかの既存の考え方の組み合わせによって出来上がるものなのかもしれないし、私には普通の状態がわからないのである

しかし、少し調べてみただけでも、その批判もやむを得ないと思われるほど彼の思想がプラトン、ゲーテ等の言ったままの、あるいはちょっとアレンジしたような内容の組み合わせから成り立っていると確認出来る

ただ、シュタイナーの味方をして考えれば、偉大、天才と世間でたたえられている人の、その偉大さを、真に理解出来る人は非常に少ないのではないだろうか

哲学は概念を素材にした芸術であるとシュタイナー自身が言っているが(確か…)、
偉大な思想、概念の完全な理解者である彼でなければ、それらを実際の人生に意味あるかたちで生かせるよう、有機的に結びつけることは出来なかったのではないだろうか

ある考えが生まれることが宇宙史的な創造なら、思想は宇宙の素材なのかも

シュタイナーのお料理で、宇宙的創造を味わうとは贅沢でしょう?