「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

4章 考察の道筋

2015-01-31 12:32:40 | 第4章 知覚内容としての世界
4章 考察の道筋
……読んだところまで

思考は、観察内容を観察を越える道筋である概念と結びつける

観察内容と概念の出会いは、思考する存在の意識という場で起きる

思考する存在(意識の場)の主体性獲得は思考の一作用

思考作用により、意識は自己を含んだ世界を包括すると同時に、観察対象である世界に独立した存在として対峙する

意識の場に、いかにして世界の観察内容が入り込むのか

意識の場で、思考と出会う「知覚内容」

2015-01-30 22:08:42 | 第4章 知覚内容としての世界
4章11~

メモ


意識という場で、
思考と出会う要素
としての
観察対象は、
どのような仕方で
意識内に入り込むのか?」

観察領域から、
思考によって持ち込まれた全てのものを除外したものが、
純粋観察内容である

まだ思考が働く前の、
直接的に与えられている
純粋観察内容と、
意識する主観との関係

明らかにしようとするのが、
これからのテーマである

この考察にあたり、
直接的な知覚対象を、
知覚内容と名付ける

意識的な主観が、
観察を通して
対象についての知識を得る場合に、
その観察の対象を
知覚内容と呼ぶ
(観察の経過ではなく)

知覚内容と言い、
感覚内容と言わないのは、
生理学的に
感覚は知覚よりも狭い意味で用いられているからである

私自身の特定の感情を、
知覚内容と呼べても、
生理学的に
感覚内容と呼ぶことは出来ない

私の感情も、
それが私の知覚内容になるならば、
そこから知識を得ることができる

我々が
思考についての知識を
観察を通して得るのも、
はじめて意識の中に現れる思考を
知覚内容と呼べるときである


hasutama
ポイント

シュタイナーによる
考察にあたっての言葉の定義

知覚内容とは

意識的な主観が、
観察を通して
対象についての知識を得る場合に
用いられる言葉


「意識的な主観」と言い出すことで、人間の意識という場が、前提として用意されており、さらに、これから対象を吟味するぞ!という志向性やその能力(思考力)を持っている主体がちゃんと存在していることをはっきりさせている(クリアーな意識の場や思考力があるから「主体」が存在出来るわけだが)

「直接的に与えられている」観察内容
という言い方は、
はじめから誰かの考えで関連付けられたり組織化されていない、世界から直に個々の人間に与えられる世界情報ということか










思考、世界、私

2015-01-30 06:27:16 | 第4章 知覚内容としての世界
4章をざっと読んでみたら、はじめは思考の本質的な働きを明確にし、そこから思考する存在としての人間の本質を導き出す

それから、思考とは反対側、内界ではなく外界に向かい感覚によって観察された世界が、いかに人間に与えられた条件によって左右され、限定されているものかということについて述べているようだ

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《思考の本質的な働き、本性の抜粋》

思考から、概念と理念が生じる

思考は、思考自身を基礎に持ち、他の何物からも限定されない

観察は思考を求め、思考によってはじめて、ある体験を他の体験と結びつける途が見出せる

思考は観察を越えて先へ進もうとする

思考の最も固有の本性とは主観であり、思考が自分自身の活動に眼を向けるときには、主観を客観対象として持つことになる

だか思考が単なる主観的な活動とするのは誤りで、思考は主観と客観の彼方にあり、主観と客観の概念を全ての他の概念と同じように作り上げる

思考が、概念と観察対象とを関係づけるのであって、主観が行なうのではない

主観はそれが主観だから思考するのではなく、思考する能力を持つからこそ自分を主観として表わす

思考の恩寵の下に、人間の主観は生きている

思考は私を自我の彼方に導き、客観へと結びつける
また同時に、私を主観として客観に対比させ、客観からも引き離す



以上のhasutamaまとめ

人間の二重の本性(=世界から孤立しながら、同時に世界に含まれていると感じる)は、思考する存在である故に生じる

人間は思考することによって、自分と世界を包摂し、また自分を事実と向かい合う個体にする

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世界につつまれ、同時に相対する

これを図形的にはっきりさせてみる
すると、
じゃあ、世界はどうやって人間の中に入るのかしら?となる

すっぽりと取り込まれるにしても、対峙するにしても、私の中に世界が完全に受容されるとか、理解されるということとは違うからね

今日はここまで







有機的な思考/試論

2015-01-03 07:19:36 | 「自由の哲学」
自分が書いた前の投稿を読み返していて気がついた

いつの間にか、シュタイナー氏の思考の展開を、その種のクエスチョンのところからリフレインしている自分がいる

それで、その思考の展開から受け取る図像的なイメージはやはり植物だ
ある思考の展開が、言葉の種から始まる植物だとするなら、人間の意識が大地である

シュタイナーが提起した問題提起が種子、2つの対立する方向性(観察方向と思考方向)、等を双葉として太陽の光に向かう有機的思考植物?

そうそう…種の発芽の2つの方向性も加味しなければ
種からは、地中と地表、この2つの方向に発根、発芽がある

もし種からの発芽、発根にあてはめてみるなら、この世界は大地的物質世界としてあり、だから観察は発根方向だと言える
そして太陽へと向かう空間は、人間の意識の上空、思考方向にある