観察内容と概念の出会いは、
思考する存在の
「意識という場」で起きる
↓
「意識の場」に、
いかにして
世界の観察内容が
入り込むのか
hasutama
「意識の場に、いかにして世界の観察内容が入り込むのか」
という問いを持つこと自体に、戸惑ってしまう
目で見たり、耳で聞いたり、鼻で匂いをかいだり
目の前の世界の様子は意識するしないに関わらず、一瞬のうちに認識してしまっているのに、あらためて、「その内容がどのように入り込むか?」と
問題にするのは、バカバカしい気がしたのである
幾人かの友人にこの問いについて話してみたところ、一人の友人が、
最近新聞から切り抜いたエッセイで、「思う」と「考える」は違うという内容のものがあったから、コピーしてポストに入れておいてくれるとのこと
有難いことだ
感じる、思う、考える
その違いは?
「意識という場」において、観察内容と概念が出会う
意識という場は、いわばお見合い会場なのだろうか
意識という場は、もしかしたら二階建てやマンション構造など、複雑な作りになっているのかもしれない
だとすると、その中で、お見合い会場はどこなのだろう
感じる、思う、は、概念とのお見合いを斡旋していないのか
考える、がそれを一手に引き受けているというわけか
「考える」のお見合い斡旋おばちゃんに、概念と出会わせてもらいに意識の場へ入場する、そのときの「世界の観察内容」は、どのような出で立ちなのだろう
ただだらしなく受け取られた内容なんかとは、ちょっと違うのだろうか?
たとえば、町を歩いている時、私は、
飲食店や本屋さん、文具屋さんなどは意識してますが、
それ以外の各種事務所とか特徴のない個人宅とかには気づきません。
毎日前を通っているから見ているはずなのに、
ある日突然、空き地になった時「ここに何があったけ?」って。
景色が連続しているんだから、一応全部見えてるはずなんだけど、
意識している部分としていない部分がある。それが観察と概念?
んで、感じる、思う、の役割ですよね。
あ、それは、概念にとっては何の影響もなくて、
自分にとってどうか、という問題に関わってくるのでしょうか。
ちゃんと意識しているものに向けてしか、
感じたり思ったりできない、という。
山盛りのアイドルさんの中で、
何人かだけは個体識別ができる、という状態を考えてみると、
「AさんがAさんである」という概念は、
観察している私が好きとかキライとか言っても変わらない。
でも、好きとかキライとかは、自分の中にある。
個体識別できない「その他大勢」の一人ひとりに対しては、
そもそも好きとかキライとか言えない。という感じでしょうか??
うん、そうだそうだ! でもホント?
「意識を向ければ見える」っていう経験は誰にでもありますよね。
苦手な人のいいところを聞いて自分もそれが見えるようになる、とか、
「花曇り」という言葉を知れば、それに気づく、みたいな。
普段は、目立つものしか見てないんでしょうかね。
目立つものの中から意識に上る前に取捨選択している?
自分に都合のいいものだけを瞬時により分けている?
普段ぼーっとしている時と意識的な時とは、
見えるものが違っているのは確かなんですが…。
長くなった上、最後にまたわからなくなりました(^^;)。
お願いだから一緒に考えて下さいと言いたいくらいです
こういうブレーンストーミングみたいなことはすごく必要ですよね
面白いです
んで、連想したのは言葉の発動と考えることって、どういう関係なのかな?ということ
概念て、あれは何々であるという単純なものから抽象的で複雑な構造をもったものまでありますよね
「あれはリンゴだ」なんていうのは、考えた結果、得た概念と言うのもおおげさな気がしてしまいます
漠然と見ていても、あれは駅だ、あれは電車だとすでにわかっているものの中に生活しているのが日常だよなーと思ってしまう
名付けるという行為が思考なら、すでに名付け終わったものについては、いちいちまた思考するというのは違う気がして
観察内容が自分にとってまだ概念との出会いをはたしていないと思われるものについて、それを概念と出会わせたい、概念を形成したい、と思ってそれを意識の場に連れ出すのかな…とイメージしてみます