「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

個別的自我と知覚→感情・・個体としての私

2021-02-03 18:52:34 | 第6章 人間の個体性
表象は知覚と概念との中間にあって
知覚を指示するような特定の概念なのである
・・・・・・
現実は知覚と概念として
この現実の主観的な反映は表象として
我々に提示される
我々の人格が、ただ認識するものとしてしか
表されないとしたら
客観的なものの総体が、知覚、概念、表象において
与えられているだろう


思考は主観的なものではないと3章かどこかで言っていたし
概念は感覚的世界に重なるものだから、
あくまで客観的世界の側ということなのね
でも、個別の表象は個人的なものだから主観の側

私は概念は内面?の側と思っていたのだけど
内面だから主観、ということではないのか・・
自分の意識のどこからどこまでが内なのか外なのか
主観なのか客観なのか
ややっこしいから混乱してきます

しかし我々は、思考の助けを借りて
知覚を概念に関係させるだけでは満足しない

我々の特有の主体性、
つまり我々の個別的自我にも、
知覚を関係させようとする

この個別的な関わりの表現が、
快や不快となって現れてくる感情なのである


内界の内でも個別的な自我と知覚が関わると
感情が生まれるとのこと
個別的な自我は主体性であるらしい
では、個別的でない自我もあるということだろう
それと知覚の関りで概念が生まれる
この過程は思考と呼ばれている
(・・ってこと?)

思考と感情とは、我々がすでに考えたような
我々の二面的本性に対応している

思考とは、我々がそれを通じて
宇宙の普遍的事象に参加しているような要因であり

感情とは、それを通じて我々が
自分自身の存在の隘路に引きこもることが出来るような要因である
(※隘路・・あいろ 狭く通りにくい道)
我々の思考は我々を世界と結びつけるが
我々の感情は我々を自分自身の中に連れ戻し
こうしてはじめて我々を個体とする


あのね、私はこれまで
思考は自分の中のはたらきとして捉えていたの
二面性は2章で内界、外界、観察と思考とされていたのだとばかり思っていて
でも確かに、本質世界は孤立してあるのではなく
私自身も含まれる自然として感覚的世界と一元のものであるわけだけど・・?
本質は宇宙的な普遍世界にあるから、私の袋小路側ではない
私の袋小路に向かうのは感情・・その感情としての私は、
思考と違って普遍的ではなく、個別的で主観的な存在
この感情を持ってはじめて私は個体である・・ってこと
今のところ、あんまりしっくりこない感じです




活動する概念界の励まし

2020-12-30 11:55:39 | 第6章 人間の個体性
イメージに(と言っても単純な)浸っているうちに
シュタイナーの言う認識方法が
骨格にも染みてきた

何かを対象として感覚器がとらえたときに
表象が出来るには
私の内側からの概念の流れとの結合があるということ

ただそれだけのイメージがとても面白い

以前、「意識のお見合い会場」と書いたことがあったが
人間の意識の舞台は「概念と感覚界との出会いの場」と言った時に
以前は、感覚界の印象の意識への入り方についてあれこれ考えていた
シュタイナーもそのことについて言ったたくさんの思想家たちについて
事細かに批判を繰り広げていたし・・

でも6章では概念が知覚像を獲得し、個別の概念となる
それがその知覚内容の表象だとのこと

自分の内面からの概念のそんなに積極的な活動について
全く「考えて」(笑)いなかった
というか、すべてがあまりに無意識的にやっていることなので
あらためて「見る」ことが難しい

そしてあらためてそういう観点を持ってみるなら
そう言われてみればそうかな?という
でもそう考えるととても嬉しいし心強いし・・
内面の力はすごいのだし、受け身なだけではない!と
励まされる

同時に、問いも生まれる
概念は私の中を通ってきたのかしら?
概念界から来たのね?

そこからまた色々、思うことがあって
きりがない 

とりあえず・・ここまで







表象とは個別化された概念である件

2020-12-16 09:05:22 | 第6章 人間の個体性
なんとかシュタイナーの意図をくみ取ろうと自由の哲学を開いてみる
よくわからないことがあった時
自分の思った疑問は、他の人はどう思ったのだろう?と
すぐにweb上に答えを見つけてしまおうとする
でも同じ疑問を抱く人がいないときはそれが見つからない

人の意識が外界に向かった時
それについて何かを考える場合には
人は内界にも空間を持つと言っていい
外界vs内界の構図がその時に生まれる
でも外界の何かについて考えるのであるから
外界の印象を内界で扱うことになる
隔たっている世界をまたいで、どのように外界は内界に入り込むのか?

その疑問を持つこと自体がなんだか変な気がしてしまう

だが論旨がそのように展開して
知覚内容はうんぬんうんぬんと様々な論客を相手取って
シュタイナーは反駁論を繰り広げた
そして最終的には世界の側から
何かの情報が人の中に入り込んでくるという
その考え方そのものが違うのだという

表象は、その方向からでは
知覚との関係をはっきりさせることは出来ないとのこと

だから別のやり方で、正しい道を行くのだそうだ

表象とは個別化された概念であるという
あんなに表象についての他の説に対して反駁していて
急に今それを言い出されるとびっくりしてしまう

表象とは一定の知覚に関わりを持つ私の直感だ
表象は知覚に従って形成されたもので
観察の瞬間に概念と知覚が提携することで生まれる
概念は、知覚を通じて個別的な形態をとり
この特定の知覚との関りを獲得したと言える

表象は知覚と概念の中間にあって
知覚を指示するような特定の概念だ

その表象を形成する事物の総和を、経験と呼ぶことが出来る


・・だそうだ
なんだ、それを先に言ってはだめだったの?
あまりに長くややこしい反駁に疲れてしまって
少し恨みがましくなってしまう

「指示する」は観察の瞬間にも、これはリンゴだ、ミカンだというように
概念(言葉の)側から指し示すという意味かな
「指示する」ことが含んでいる意味は人間の意識の場での出来事として
意識に対して二つの方向性の力が働いているということだと思う
「見えたものの像」と「それを指示する概念」が
意識に同時に知覚されるときに新たな個別的な表象となる?
こらは人の意識の舞台上での出来事とは言え
意識的に行っているというより、ほとんど無意識に行われていることだろう
何かを見たその瞬間にも、内側(概念の側)からの働きかけがあって初めて
そのものがそのものとして出現するということ?

外から中に入り込むことばかりに気を取られていたのは
シュタイナー自身がそこに注目すると言ったからなのにな

でもその経過を踏んだことで、意識に普段気付かないうちにも働いている
概念というもののあり方をはっきり認識することが出来たのかもしれない
それがシュタイナーの意図なら、それを理解できてよかった
(そうかどうか、確信が持てないけれど)

知覚内容は外界からのものだけではないから
知覚も二つの方向性があることになる
その知覚が瞬時に同時に可能だということ

ゲーテに近づいてきた気がする

おさらい ↓

表象は外から与えられた知覚像だとばかり考えてきたが
実は内界(概念)からの働きも加わって形成されたもので
私が出会った個々の事物に対応した個別的な概念である
それが蓄積すると自分の経験値となる

表象が概念だとすると・・

2020-12-14 11:07:39 | 第6章 人間の個体性
「自由の哲学」の序で
この本の中でまずは抽象的な概念の世界
エーテルの国に入って
概念の鋭角的な輪郭付けを行うと言い
また、どこで見たのか忘れたが
この本の中では思考が有機的に発展していると
シュタイナー自身が言っているのだが
それはいったいどんな輪郭なのか
どう有機的なのかということを
なんとか見つけながら読んでいきたいと思っているけれど
まだよくわからない
彼自身の考えの道筋を自分も辿ろうとする
でも途中で行方不明に(私自身が)
すぐにわからないことも面白がって
さらに呑気に読んでみようと思った

昨日少し記事を書いて
朝起きてみると、あ、そうか、昨日書いたことは少し違うと
頭の中で何かが起きて、私にその内容が流れてきた

人間の表象がいかに頼りないものか
知覚器官や環境の条件に左右され
それについて人間のイメージすることなど
信頼するに足らない
ましてやさらに抽象的な意味づけなど
まったく学問的に扱うべき分野ではない
そういう考えは今日でも主流だ

しかし人間の持つ表象は
単に外から与えられただけのものではなくて
人間の内部からの価値づけがすでに行われているからこそ
表象となりうる
ということは
それに対してどのような意味があるのだろう?

と、自分も問うてみる・・
こんがらがってくるのは知覚内容、表象・・
感覚器官、概念・・外界から、内界から
もう一度整理、確認してみよう
自分の言葉にしてみたことで
間違いも発見しやすくなるといいな