「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

本性

2014-12-27 17:58:49 | 「自由の哲学」
考えてみれば
この言葉も耳慣れないものだ
→「本性」

おまえの本性は…
本性がわかった

って、もし言うとしても悪いほうに使う気がする

根は優しい
根性は悪くない

などと、根っこがつくと、少し良いニュアンスになる

naturは
おそらく、
この世界に在る時の、そもそもの在り方
ということか
となると、「そもそも」って何だろう

日本語の「そもそも」は、そもそも…;^_^
土台、元来、はじめは…、
などを意味するようだ

人間の在り方が、出産によって産まれた肉体や脳の在り方の中でも、人間以外の動物には無い、人間ならではの本性というものがあると考えるとして

人間だけということなら、やはりシュタイナーが自由の哲学の始めで問いを向けていった「意識」「自意識」にそれがあることになるだろうな

自意識は自分と世界を分断するところから、つまり思考の作用が始まる時に生起する

だから「本性=自意識=思考の作用による」
ってことになり、
人間の本性のクリアーな出現は、思考の作用をどの程度受け入れたかによる


「ルドルフ・シュタイナーと人智学」

2014-12-22 20:47:28 | 読書ノート
水声社 フランス・カルグレン著
高橋明男氏訳

この本を久しぶりに開いてみた

すると、一番最初のページに前書きとして記されているシュタイナーの言葉は、やはり人間が出会う相反する二つの世界とその統一についてだった

自由の哲学のメインテーマ「二元→一元」は、シュタイナーの著作のあちこちに色々な言葉で表現されているようだ


運命は、2つの異なる事象から成っている。
それが人生の中で統一的なものへと融合していくのである。
その一つは、魂の欲求としてうちからほとばしりり出る。
もう一つは、外界から人間に近づいてくる。
ルドルフ・シュタイナー


p36『自由の哲学』

この本の初版の表紙には「自然科学的方法による観察結果」というモットーが掲げられている。シュタイナーは、近代自然科学における観察の鋭さを哲学に生かそうとした。

ただ、観察の方向をいわば反転し、内面へと受けたのである。

シュタイナーがそこで示したのは、およそ次のようなことである。

つまり、近代の認識論は、人間の認識には限界があることを確認している。

しかし、人間が思考を駆使して純粋理念を、つまり感覚に束縛されない理念を知覚するとき、人間は認識の限界を踏み越え、理念的精神的世界の自由市民としての自分を見出すことができる、というのである。

シュタイナーはこれに続いて「フリードリヒ・ニーチェ反時代的闘士」「ゲーテの世界観」を出版している。これらの本も先の著作と共通する問題を扱っているといえよう。


hasutamaノート

「人間が思考を駆使して純粋理念を、つまり感覚に束縛されない理念を知覚するとき、人間は認識の限界を踏み越え、理念的精神的世界の自由市民としての自分を見出すことができる」

純粋理念

感覚に束縛されない理念

これを知覚する

その時、認識の限界を踏み越え、

理念的精神的世界の自由市民である自分を見出す

とのこと

純粋理念
理念的精神的世界

der Geist der Reinheit
die Idee des Reinen

自由と言っても、理念界での自由ってことなのかな

理念界があるとしての話だけど

なんだか…
シュティルナーに皮肉でも言われそう

人間の二重の本性の成り立ち

2014-12-20 18:14:26 | 第4章 知覚内容としての世界
4-7

我々は思考の助けを借りてのみ自分を主観として措定し、そして自分と対象とを対置させることが出来る

……

思考は主観と客観の彼方にあって、この二つの概念を全ての他の概念と同じように作り上げる

思考する存在としての人間が行う活動は、主観と客観という両概念を超えた活動なのである

……

思考という要素は、私を私の自我の彼方へ導き、客観と結びつけてくれる
けれども思考はまた、私を主観として客観に対比させることによって、私を客観からも引き離す

4-8
It is just this which constitutes the double nature of man.

人間の二重の本性は、まさにこれにより
構築されている
(二重の本性とは、二章に出てきた存在の分裂、宇宙が自我と世界の両極として現れること、世界と意識の間に壁があると感じ、また同時に世界の内部にいると感じること 物質と精神 観察と思考 等々の二重構造

「これ」とは、4-7の思考の作用)


He thinks, and thereby embraces both himself and the rest of the world.

人間は考える、そして自分自身とそれ以外の世界、その両方を包み込む

But at the same time it is by means of thinking that he determines himself as an individual confronting the things.

しかし同時に、考えることによって、事物に向き合う個としての自分自身を確認するのである

以下hasutama感想

じゃあ、つまり、
人間の意識の分裂は、思考のせいだったの!?
思考によって生まれた分裂を、思考を深めきって行くことで解消しようということなの!?

これ、ちょっとびっくりだな~

どこの誰かは知らないけれど/思考さん

2014-12-20 16:46:49 | 第3章 世界認識に仕える思考
行為自体の持つ作用力を、汎神論的に人格がある存在のように扱うシュタイナーの話し方に敏感になってみると、三章の題名ですでに、思考を独立して意思を持ったもののように表現していることに気がつく

世界の把握に奉仕する思考
とは、
思考は、世界の把握に奉仕する
と同じことである

思考には、奉仕する意思がはじめからそなわっていて、人間が世界を把握したい時にササッとやって来てくれる

ということは、思考ははじめから人間の内部に存在しているというよりも、人間が呼び出しをかけた時に、どこか別のところから来てくれるイメージである

思考はどこにいたのかな?

思考は世界を把握することに奉仕する

把握とは観察内容の関連付けによりその全体像をイメージングするということ

関連付け、イメージング、マッピング、のプロフェッショナルな思考さん

身を惜しまず人間に奉仕してくれる

自分の一部分なら改めて感謝もしにくかったけど、どこかから来てくれるとなると、どうもご足労いただいて…てことでお礼も言いやすい

と同時に、

いったいあなたは、どこから来た誰なの?と問いたくもなる