「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

第一編 人間編 近代人

2013-08-30 12:34:20 | 「唯一者とその所有 」シュティルナー
我々をして古代人によって残された遺産をとって、活動する労働者として、能う限りそれを使用せしめよ…それをすっかり費っちまえ!

世界が我々の脚下に、我々と我々の天の下に遥かに侮蔑されて横たわっている、世界の大きな腕は最早そこに突き込まれない。

そしてその昏迷させるような呼吸がやってこない。

それがよし挑発的の姿勢をとるとも、それは我々の感覚以外の何物をも混惑することは出来ない。

それは精神を惑わすことは出来ない…そして結局我々は実際精神ばかりである。

一度物の真相を捉えたところで、精神はまたそれらの上に達した、そして解放され、天的になり、自由になって、かれ等の束縛を脱した。

そう「精神的自由」が語る。


しかし、それは単にこの世の中から去ってそして世界から自由な一存在をそれ自身から作ったけれど、実際はこの世界を絶滅させることは出来ない。

だから、この世界はそれに対して取り去ることの出来ない躓きの種として、不信な存在として残る。

そして一方、それが精神及び精神的のこと以外に何物をも認識しないから、それは永久にそれとともに世界を霊化せんとする欲望、即ち、それをブラックリストから救済せんとする欲望を携帯しなければならない。

だから、青年のように、それは世界の救済若しくは改善に対する様々なる計画を抱いて歩きまわる。

唯一者とその所有 第一編 アトランダム

2013-08-30 07:48:42 | 「唯一者とその所有 」シュティルナー
人間がこの世の光を瞥見(べっけん)する瞬間から彼は彼自身を発見しようとする。
そして彼が自分以外のものと一緒に雑色混合の中に動揺している紛乱から彼自身を把握しようとする。/第一編 人間編 人生 冒頭

「古代人にとってこの世界は一個の真理であった」とフォイエルバッハが言っている。しかし彼は「真理の背後にある虚偽を探そうと努めた、そして遂に彼らは実際探しあてた」と重要な付け加えをすることをわすれている。/第一編 人間編 古代人

「古代人にとって世界が真理であった」と上に言われたように、我々は茲では「近代人にとって精神が真理であった」と言わなければならない。しかし此処でも、彼らの如く、我々は「彼らが真理の背後にある虚偽を探そうと努めた、そして遂に彼らは実際探しあてた」という追加を略してはならない。/第一編 人間編 近代人

唯一者とその所有 メモ 第一編/人間編 旧時代と新時代の人々 古代人

2013-08-29 21:17:28 | 「唯一者とその所有 」シュティルナー
かくして古代は物の世界、世界の秩序、全体としての世界とともに終結する。

しかし世界の秩序、或いはこの世の物には単に自然が付属するばかりではなく、人間が自然によって置かれて彼自身を見る、あらゆる関係、例えば、家族、社会…約言すれば、いわゆる「自然の羈絆(きはん)」が属する。

精神の世界と共に基督教がそれから始まる。

今なお武装して世界に面する人は古代人、…異教徒(その階級に猶太人も亦、非基督教人として、属する)

…である。

自分の「心の楽しみ」自分の興味、自分の同情、自分の…精神以外の何者によっても指導されない人間は近代人、基督教者である。


古代人が世界の征服に向かって働き、そして人間を他の物との関係の重い桎梏から解放することに努力した如く、遂に彼らは又国家の滅亡と全ての個人的の物に重きを置くようになって来た。

勿論社会、家族等は、自然関係として、自分の精神的自由を減少する厄介な障害である。

唯一者とその所有 メモ 第一編/人間編 人生

2013-08-29 19:53:55 | 「唯一者とその所有 」シュティルナー
自分が全ての物の裏面に自己を発見し、そしてそれを心として発見するように自分は後に至って思想の背後に自己を発見しなければならない。

即ち、思想の創造者若しくは所有者としてである。

精神時代に於いて、思想は自分の頭をそれ等が乗り越えるまで成長した。

しかし、その思想というのも元来その頭から生まれた子供なのである。

それ等が自分の周囲にさまようて熱病の幻影のように自分を痙攣さした。

……恐ろしい力である。


それ等の思想はかれ等自身のために具体的になり、神、皇帝、ローマ法皇、祖国などというような幽霊になった。
もし自分がかれ等の具体化を破壊するなら、その時自分はかれ等を自身のうちに取り返して、「自分のみが具体的だ」ということが出来るのである。

そして自分は世界をそのあるがままに自分に取る、自分のものとして、自身の所有として、自分は全てのものを自分に帰する。


もし自分が一個の精神として、最も深い侮蔑をもってこの世界を投げ捨てるなら、自分はまた所有者として種々なる精神や観念をかれ等の「空虚」に投げ捨てる。かれ等は最早自身の上に何等の力を持たない、「地上の力」が精神に対して何等の力を持たないように。

3章 「思考を思考」が宇宙を支えるてこの支点である

2013-08-23 20:08:04 | 第3章 世界認識に仕える思考
誰でも思考を観察できるようになるが、それができた人にとっては、
この自分自身の思考の観察が
あらゆる観察の中で一番重要なものとなる

その理由

自分自身が生み出したものを観察する

自分自身がやったことだから、よくわかる

観察対象となる思考の生成過程や、生成の状況、観察したもの同士の関係性、全て見通すことが出来る

「自分の思考の観察」の場

世界に存在する他の全ての現象をも、この地点において解明することが出来るに違いない
そう期待できるような、「確かな基盤となる地点」である




あるものが存在する

それがどのような意味合いで存在するか?は、規定出来ない

存在の意味を、存在そのものから汲み取れないなら、それが確かなものとは言えない

存在の意味を存在そのものから知ることが出来るようなものは、
自身の思考以外にはない

他の事物は、思考と同じあり方をしているのか?


結構強引に話を進めるシュタイナー氏である

自分が生み出したもので中身も知ってるし、同じ素材どうしだから、だからこれが世界を解明する支点だし、それをゲットしたのだと言う

「存在の意味を存在そのものから知る」

他のものも同じ在り方しているの?

わかる気もするし、なんか納得行かない気もする

これをもって彼は、序文で述べたZwei Wurzelfagenのうちの一つめの問いである、人間はその本質の中に、世界を解明しうる可能性を持っているのか?に、答えたことにするのだろうか?

世界を支えるてこの支点は、思考による思考の場であるということにするのか

それで大丈夫なの?ルディおじさま?
ちょっと心配になる


おまけFoto



母に教わりながら、娘の馬術大会用ブレザー作りにチャレンジ