「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

ここまでで、気になるところ

2013-01-26 18:48:15 | 雑感
その2・・

前の記事を書いたときに、その2の内容は決まっていたはずなのに、あっという間に忘れてしまった

そこで、今思いつくことを脈絡なくメモしてみたい
(何をメモするかというと、自由の哲学を3章まで読んで、それからしばらくたってしまって、内容の細かいことは忘れ、今印象に残っていること、気になることは何か?ということ シュタイナーが言うように、忘却に積極的な作用があるのかどうか?)

・「人間の本性」の「本性」とは、実際何のことだろう
「人間の本性の直覚」が世界認識を支え、人間の意志する自由の根拠となるらしい
「本性の直覚」という、行為を表わす言葉が主語となっている・・不思議な言い方ではないか?

・序章で、この著作により、『霊学の根拠となる「霊的な場」が存在することを示す』としている それは、本書のテーマ「人間の本性の直覚が、世界の認識を支えることを証明する」ことによって、「人間の自由」を根拠づけることと同じ意味なのだろうか?だとすれば、本性の直覚とは、人間の内面にある霊的な場を発見するということ?

・言い方の不思議さとしてもう一つ 思考に関する説明で、「思考に対する思考」のところ 『対象の観察から思考へとたどる通常の過程がある この思考の対象が、思考自身であるときには、その通常の過程はふさわしくない だがやむを得ずこの過程をたどる、そのことを意識しなくてはならない』 こういう言い方をする意味がわからない 通常の過程がふさわしくないないなら、どういう過程、手順がふさわしいのだろう この言い方の不自然さと、本性の直覚を主語にする不自然さには、共通性があるか?






意識を向けること

2013-01-21 04:59:02 | 雑感
随分長いことブログの更新を怠っている・・と思ったが、見ると3ヶ月ぐらいたっただけだった。

シュタイナーの著作は、すぐに意味が判明しない内容が多く、根をつめてみたところで、進むというより理解できないことが堆積し、クエスチョンマークに埋もれてしまう。人の思想、哲学を知るということは、面白いけど粘り強さが必要だ。

3ヶ月の間に、自由の哲学の本は開かず、ほとんどの内容を忘れるつつある中、いくつかのことをふいに思い出したりもした。

ふと思ったこと↓

その1.「行為の動機を自分が知っているか?」についての章で、「動機について自分が考えてみたことがあるか?」と私はこのブログに書いていた。しかし、あとで思ったのは、問題となっているのは「動機に意識を向けたかどうか?」なのであり、すぐに思考してしまおうとするのは先走っている。

「意識を向ける」「意識を持つ」→「考える」

これをひとまとめにせずに、意識する段階を丁寧に「意識」しなければ(笑)

人が意識を向けて、はじめて観察、思考へと進む可能性が生まれる。
では、意識を向けなければ、それは存在しないのか?そうではなく、私の知らない何かが、私を突き動かすことになる。

意識を持つという段階に至ることは、一般に考えられているよりも、重要なのかもしれない。あたりまえに行っていることに、あらためて意識を向けることほど難しいことは無い。
意識を向けることは勇気がいる。自分にとっての「あたりまえ」から少し距離をとる丁寧な態度が必要だ。

なにしろ、この章でシュタイナーが繰り返し言っているのは、あらゆる「人間の自由」に対する考察において、「行為の動機に意識を向けたかどうか?」について、意識を向けた者はいないということである。

まずそこに意識を向けることから、この本自体がはじまっている。
そもそも、「あることに意識を向ける」という作業は、人間にとっていったい何なのだろう?また、大げさな話だが、そういう作業を行う生物が存在し始めたことは、地球にとって、はたまた宇宙全体にとって、いったいどのようなことのか?と、問いを広げることも出来る。

その2へとつづく・・