「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

動機には、考えが染み通っているから

2014-01-30 16:28:37 | 第1章 人間の意識的行動
行為者が、その行為を行った動機をわかっていないような場合には、その行為者が自由であるとは言えない

では、行為者が行為の理由を知っている場合には、自由だと言えるのだろうか?

何かを自覚しているとは、どういうことであり、また、行為の理由、動機はどのようにして出来上がったのだろう?

行為の動機の形成や、それを自覚しているとはどういうことかについて、そのコンセプトを形作るには、
人間の魂が行う、考えるという活動について知ることが不可欠である

というのも、行為が純粋に動物的な欲望の領域を越えるやいなや、私たちの動機には「考え」が染み通っているからである


自由について論じていて、それがいつの間にか「思考」にすり替わるのはなぜなのか、なかなかすっきりしない

シュタイナーの考えの道筋をはっきりさせたくなる

自由の哲学でありながら、自由て大事よねというより、思考て大事よねと大概言われている

自由には思考が大事ということなのだろうが

自由より思考のほうが、なんだか真面目でストイックな響きがある

そこに、なんとなく面白くないというか、ほんとに強く自由を望んでのことなのか、人間の自由を確信するつもりはあるのか、人間個人への信頼はどの程度なのか、などと思いめぐらす

だから、自由について語るときに、思考を持ち出してくることの理由は、何回も確認したくなってくるのである

これ、もしかして思考の哲学でもいいんじゃない?と思う
でもそれだと、思考の思考、哲学の哲学と、繰り返すようなものだろうか

この本自体が、謎解きの知恵の輪みたいになっている気がしてきた




思考を思考する時の移動先について

2014-01-24 07:02:01 | 第3章 世界認識に仕える思考
「知性的把握」(noein)をする我々自身は、生きている我々自身の外に出る

↑プラトン イデア論のまとめより

思考を思考するときは、通常の場所から移動する

というシュタイナー

この意味が不明だった

この二つに共通性はあるか?

生きている我々自身は、カントが物自体に至ることは出来ないと言った時空の中にいる

この時空は普段私が肉体を持って生きている場

外へ出る、移動するというのは、時空ではない場を想定して言っているのだろう

その、我々が生きている場ではない場は、どのようなものなのか

肉体的には生きていない場は、死者の場と言ってもいいのだろうか

そちらの場から考えれば、私たちがその中に「入る」と表現できる

外から眺める時と、中にいる時とでは、状況はまったく異なっているのではないだろうか

変な例えだが、お風呂を外から見ている時と、入っている時では、私自身が違っているのである

その中にいる時の私は、どんな状態なのだろう?


なんだか…哲学って、幾何学とか、数学に似ている

主観と客観 / 観察と思考 の対立を越える直覚

2014-01-18 20:58:39 | ゲーテ
ゲーテ的認識 メモ

理念世界 主観的思考
経験世界 客観的観察

の二つの対立を越える

一元的認識
「理念世界の浸透した経験世界」
だけに基く認識


感覚世界…肉眼
理念…精神的 な眼

そもそもゲーテにとっては
経験と理念という区別がない

理念は
「事物の中にじかにあり」
「事物に働きかけながら作りだしている」

シュタイナー の言う
直観的思考 = 主観&客観の統一

ゲーテは、この認識方法によって
事物を部分に分けてしまってから行う研究の仕方ではなく、
生き生きと働きかけているものを壊さずに
全体から部分へと向か う
自然研究の方法

を示唆した



第三章 で疑問に感じていた「観察と思考の対立」というのは、当時カントから提議された「人間の認識の限界」を受けての話なのだろうな

シュタイナーは、カントが言う認識の限界はゲーテの認識の仕方で創造的に乗り越えられると考えた

ということ

カントが言った人間の認識の限界とは?

また、ゲーテはなぜ統一的認識が出来たのか?
だいたい、「詩人」というのは統一的認識を行う者のことを言うのではないだろうか?

シュタイナーは、それを新たに科学的な方法論として提案、確立していくことが、これから今までの方法による
科学が向き合わなければならなくなる問題、これまでの認識方法によって築かれた社会に訪れる問題の解決にとって、必要不可欠になると考えたのだろう

今までの方法による
科学が向き合わなければならなくなる問題、これまでの認識方法によって築かれた社会に訪れる問題
って具体的には?








 「直覚」が乗り越える二元論

2014-01-13 13:56:45 | 1918年の再販のための序文
この本を読んでいると、すぐにわからないことに出会う

そして少し調べてみて思ったのだけど、シュタイナーの住んでいたところでは、その時代には
哲学は活発な学問だったのだろう

1918年の序に出てきた、二つの問いのうちの一つ目の問いに出てくる、「人間の本性の直覚」という聞きなれない言いまわしには違和感を抱いた

しかし、この当時少し哲学をかじった人にとってはそうではなかったのかもしれない

キリスト教が絶対だった世界で、フォイエルバッハが神とは「人間の本性」だと言ったのは、相当大胆な発言だっただろう
それを言う前にはきっと、宗教改革とか、手工業の発達とか、なんだか色々な社会の変化があって、それを受け入れるだけの状況があって、またそうした発想が社会的にも望まれていたのかもしれない

地域や時代を隔ててこの本を訳するにあたっては、基本的な言葉ほど逆に訳出は難しかったのではないだろうか

直覚という言葉も、どうしてこんな肝心な文章の中で、突然こんな聞きなれない表現に出会うのか?と思ったのだが、訳した人がこの言葉を使うのにはそれなりな、きちんとした理由があるのかもしれない

twitterで見つけたゲーテの言葉↓

われわれは、不断に創造する自然を直観することによって、その生産の営みに精神的に参加するのに相応しい者となるべきだ。

私は最初は無意識のうちに、内的衝動に駆られて、かの原像的なもの、元型的なものをひたすら追求し、自然に即した叙述を築き上げることに成功した。

ゲーテ「直観的判断力」

シュタイナーが重視するゲーテの直感的な認識方法を「直覚」と呼ぶなら、人間本性の直覚という言葉がこの本のキーワードとなることに納得できそうである

人間本性の直覚が、客観的観察と、主観的認識を統合する機能を持っているなら、あるいはそれに向けて進もうとするなら、私と世界の対立が解消される道が見えるということ?

またそれは、ゲーテが言う「不断に創造する自然を直観することによって、その生産の営みに精神的に参加する」ことなのかもしれない

不断に創造する自然
生産に精神的に参加

どちらにせよそれは、人間にとっては「本性の直覚」行動を通じて理解でき、また参加できる

多分これは、シュタイナーが言っていることと同じだ

なんだか東洋的な感じのする話
ゲーテは確か東の文化に興味を持っていたはず
極東に住む私にとって、親しみがわく発想な気がするのはそのせいか

なんだか楽しそうな企画だけど


(??)

まだ、言葉を並べてみただけで、よくわかっていない
考察の余地あり






イデ男さん

2014-01-12 14:19:57 | 初版 序文
Man muss sich der Idee erlebend gegenüberstellen können;
sonst
gerät man unter ihre Knechtschaft.



本当にあのイデ男さんでいいの?

erlebend

そうあわてないで、一定期間いっしょに過ごしてみたら?
そして、その途中のいろいろな出来事をよく観察し、その結果をまとめてね。

gegenüberstellen

そしてたら次に、その結果と冷静に向き合ってみましょう。
他の人と比較したり、良くないところを批判したり、批評したりしてみるの。
自由にそう出来る立場を、きちんと確保しましょう。
つまり、あなたは相手から独立した立場でそうするだけの能力を持たなくてはならないのよ。
それから冷静に、あの人にするかどうかあなたが選び取る。

その過程がすごく大事。
そういう立場に立つことで、
あなたにも責任が出てくるの。
わかるでしょ?

なんてね

erlebend は、観察
gegenüberstellen は、思考
に、それぞれ対応していると思われる

とすれば、シュタイナーが観察にerlebend的な、
また思考にはgegenüberstellen的な性質を想定していたと考えられる

観察は、ともに生き、知る、(共生、理解)
思考は、それに立ち向かい乗り越える、(対立、超越)

この正反対な態度で得たもの、観察結果と思考結果を最終的に統合するのは人間の意識という場である
それが、思考結果を思考するということ?

ちょっと結論しすぎているかも
ゆっくり読みすすめたい