行為者が、その行為を行った動機をわかっていないような場合には、その行為者が自由であるとは言えない
では、行為者が行為の理由を知っている場合には、自由だと言えるのだろうか?
何かを自覚しているとは、どういうことであり、また、行為の理由、動機はどのようにして出来上がったのだろう?
行為の動機の形成や、それを自覚しているとはどういうことかについて、そのコンセプトを形作るには、
人間の魂が行う、考えるという活動について知ることが不可欠である
というのも、行為が純粋に動物的な欲望の領域を越えるやいなや、私たちの動機には「考え」が染み通っているからである
自由について論じていて、それがいつの間にか「思考」にすり替わるのはなぜなのか、なかなかすっきりしない
シュタイナーの考えの道筋をはっきりさせたくなる
自由の哲学でありながら、自由て大事よねというより、思考て大事よねと大概言われている
自由には思考が大事ということなのだろうが
自由より思考のほうが、なんだか真面目でストイックな響きがある
そこに、なんとなく面白くないというか、ほんとに強く自由を望んでのことなのか、人間の自由を確信するつもりはあるのか、人間個人への信頼はどの程度なのか、などと思いめぐらす
だから、自由について語るときに、思考を持ち出してくることの理由は、何回も確認したくなってくるのである
これ、もしかして思考の哲学でもいいんじゃない?と思う
でもそれだと、思考の思考、哲学の哲学と、繰り返すようなものだろうか
この本自体が、謎解きの知恵の輪みたいになっている気がしてきた
では、行為者が行為の理由を知っている場合には、自由だと言えるのだろうか?
何かを自覚しているとは、どういうことであり、また、行為の理由、動機はどのようにして出来上がったのだろう?
行為の動機の形成や、それを自覚しているとはどういうことかについて、そのコンセプトを形作るには、
人間の魂が行う、考えるという活動について知ることが不可欠である
というのも、行為が純粋に動物的な欲望の領域を越えるやいなや、私たちの動機には「考え」が染み通っているからである
自由について論じていて、それがいつの間にか「思考」にすり替わるのはなぜなのか、なかなかすっきりしない
シュタイナーの考えの道筋をはっきりさせたくなる
自由の哲学でありながら、自由て大事よねというより、思考て大事よねと大概言われている
自由には思考が大事ということなのだろうが
自由より思考のほうが、なんだか真面目でストイックな響きがある
そこに、なんとなく面白くないというか、ほんとに強く自由を望んでのことなのか、人間の自由を確信するつもりはあるのか、人間個人への信頼はどの程度なのか、などと思いめぐらす
だから、自由について語るときに、思考を持ち出してくることの理由は、何回も確認したくなってくるのである
これ、もしかして思考の哲学でもいいんじゃない?と思う
でもそれだと、思考の思考、哲学の哲学と、繰り返すようなものだろうか
この本自体が、謎解きの知恵の輪みたいになっている気がしてきた