「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

問いの方向を定める

2013-11-29 20:31:49 | 第1章 人間の意識的行動
一章、自分なりなまとめ

一章は、自由への問いの答に向かうに当たり、どこを通って行けばいいのか、その方向を定めるために費やされている

一般に、おおざっぱに「意志→行為」とみなされ、そこでの自由が論じられるが、自由をそのポイントで見つけようとするのは、的外れかもしれない
(問いの方向性がズレたままの議論となってしまう)

まずは、行動への意志がなぜ芽生えたのかを自覚している場合としていない場合を、同じように論ずることは出来ない

無自覚な行為に対して、人間の自由を云々するのは論外である

残るは自覚的な行為である

そこで、必然的に、一章の表題である「人間の意識的な行動」のほうに向かうこととなる

意識的な行動とは、どのようなものか

それは、なぜそうするのか、その理由を自分ではっきり認識しているような行動である

行動の理由を自覚しているかどうかについて論じられることが少ないのは、人間を2パターンに分けてしまいがちだからである

行動的な人は行動するばかりで哲学などしない
哲学する人は哲学するばかりで行動しない

私たちは、「認識し、そしてその結果をもとにして行動する」に向かってみよう
(そちらに問いを向けてみよう)

では、行動の理由を認識するとはどういうことか

「行動の理由を認識する」ことが、いったいどのような意味を持っているのか

「何かについて知る」ことの意味を理解しようとするなら、思考活動の意味を問わねばならないだろう

思考活動の意味を知ること抜きには、行動を自覚することの意味をも理解することは出来ない

以下
ちくま学芸文庫
「自由の哲学」一章より 抜粋

思考が一般に何を意味するか
を認識するとき、
人間の行動にとって
思考がどんな役割を演じるか
も明らかになるであろう

(心情が動機だという人がいるが)
心情が行動の動機を直接作り出すのではない
思考内容こそが感情の父なのである

問題を我々の望む仕方で扱おうと思う

人間の行動の本質を思考の根源から問い直すことの必要性がますます明らかにされねばならない

だからまず、この問いに向かおうと思う


おまけの写真
ヒヤシンスの水耕栽培



か ん が え る イメージ

2013-11-29 07:32:12 | 雑感
かんがえ

かんがえる

かんがみる

かんかんでり

かんがるー

から

かみ

からし

かた

かさ

かに

かぶと

かかし

かたち

かり

かみなり

イメージ

真空状態がある

そこに出現する

はっきりととらえられないが存在する

その効力、作用

おまけの写真


竹の節の間には空間がある
空間の力により「管が得る」(^O^)
手前は、わたしの「か げ」

ぐるぐると…思い巡らす

2013-11-13 09:13:44 | 第3章 世界認識に仕える思考
色々とやることがあり、あまり読書にかける時間がない

しかし何度も三章を読み返してみている

なんだかぬかるみに足を取られるような、わけのわからなさにがんじがらめになる感じ

思考を思考する場合の特殊性も、相変わらずよく理解出来ない

思考は感情と違って自我そのものの中で行っており、感情の場合には自我が受動的なのだから、同じ精神活動でも違うとのこと

感情は、感情を抱いているさなかに観察できるものかな?
感情的になりすぎたときには無理かも

でもその時には、自我は受動的なのだから、思考と同じように扱うことは出来ないとのこと

感情では、事象と私は密着しているけれど
思考の場合には、事象と私は同じ場にいない
という違いがあるとのこと( ? _ ? )

まあ、そうだとしてみれば、
自我がその分フリーなわけですね
密着しすぎると自我はちゃんと働けないのかな

確かに、誰かと喧嘩している時にも、それを冷めた目で見ている自分は別にいるということはあり得るかもしれない
あるいは、我にかえってみれば、我ながら軽率だった…などと思う場合には、我はどこかに置き去りにされていたり

一方、自我が全面的に中心となって、意思的に主体性を持って行うのが思考ということを、どう考えればよいのか?

思考は自我による宇宙的生産活動なので、生んでいる最中にはそれを俯瞰する余裕はないとのこと

そうなると自我の、本来の仕事は思考ということなのでしょうね
思考中はフル回転てことなので

思考は自我の中心で、観察によって点となって現れた事象の関係性を導き出すことで、世界、宇宙を包み込む

宇宙のラッピング?
それなら…
リボンをつけてあげようかな^o^

思考がどんなラッピングをするかによって、宇宙の色彩は変化する気がする

それとも、それが宇宙の実質なのかな
肉付け的な

その結果を自我が再び見て、また考察するに、

その時には、実質と実質の関係もわかります

だったら楽しいな^o^

いやそんなものではなくて、もっと厳密なもの?

自我、思考という言葉が曖昧だと、何もかもわからなくなりそう

うーんと…
でもそれでも、思考の働き、それを行う場の感覚が、少しはっきりしてきたかも







植物のぐるぐる巻き