観察内容と概念の出会いは、
思考する存在の
「意識という場」で起きる
↓
「意識の場」に、
いかにして
世界の観察内容が
入り込むのか
hasutama
「意識の場に、いかにして世界の観察内容が入り込むのか」
という問いを持つこと自体に、戸惑ってしまう
目で見たり、耳で聞いたり、鼻で匂いをかいだり
目の前の世界の様子は意識するしないに関わらず、一瞬のうちに認識してしまっているのに、あらためて、「その内容がどのように入り込むか?」と
問題にするのは、バカバカしい気がしたのである
幾人かの友人にこの問いについて話してみたところ、一人の友人が、
最近新聞から切り抜いたエッセイで、「思う」と「考える」は違うという内容のものがあったから、コピーしてポストに入れておいてくれるとのこと
有難いことだ
感じる、思う、考える
その違いは?
「意識という場」において、観察内容と概念が出会う
意識という場は、いわばお見合い会場なのだろうか
意識という場は、もしかしたら二階建てやマンション構造など、複雑な作りになっているのかもしれない
だとすると、その中で、お見合い会場はどこなのだろう
感じる、思う、は、概念とのお見合いを斡旋していないのか
考える、がそれを一手に引き受けているというわけか
「考える」のお見合い斡旋おばちゃんに、概念と出会わせてもらいに意識の場へ入場する、そのときの「世界の観察内容」は、どのような出で立ちなのだろう
ただだらしなく受け取られた内容なんかとは、ちょっと違うのだろうか?