「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

死者との交流と存在論 /若松英輔氏の著書より

2015-07-06 19:13:16 | プラトン イデア論
シュタイナーが重視する「死者との交流」が、存在論と関連するというのは予測出来る話である

死者とは何か?

この世に存在として現れるものを支えるもの

と仮定すると

たとえば言葉は、その橋渡しをするもの

霊視、霊聴、霊的合一の意味もイメージ出来る気がする

存在論を深く考えている人が、死者との交流について話し始めるのはなぜなのだろう?

物語という場がある
そこで存在の想いに出会う
死者と出会う

以下
若松英輔氏著
「涙のしずくに洗われて咲きいづるもの」より

文学とは、不可視な実在に、肉体の言葉を与えることである。

……

池田(晶子)は、こうも書いている。

死者の思い為しを生者は生きている
死者に思われて生者は生きている
したがって、生存とはそのような物語なのである

「リマーク 1997-2007」

死者のために生者が生きるのではない。
むしろ、生者を支えているのが死者なのである。

死者は、生者の沈黙のうちに顕れる。

死者との対話は沈黙の「言語」によって行われる。

沈黙の言葉、この矛盾する表現が現実になるような空間を、私たちは誰もみな内に秘めている。

それは昔から、多くの文明を通じて魂と呼ばれ、不死であることが繰り返し論じられてきた。





池田晶子にとっての「存在論」

2015-07-06 18:54:39 | プラトン イデア論
「存在論」は知識ではない。

哀しみであり神秘である内なる「無限」を魂深く感受したとき、
それは誰の意識にも、懐かしく知られているあの生活感情として甦る。

たとえば私たちは言ってきたではないか。
「あの人は死んだけれども、私のこころのなかで、いつまでも生きている」と。

素直に、あるいは、最後に手に入れた結晶のような想いとして。

そして、既にない人に向けて、ことばをつむぎ続けるではないか。

「事象そのものへ!」より



自由の哲学を読んでいると、どうしても存在論が気になってくる

「事象そのもの」って、カントの「もの自体」のことかな

それは日本でいえば、懐かしい生活感情で表すことが出来るような、想いとして、経験したことがある…そのようなものなのだろうか!?

魂=イデア「真実在」界への扉

2015-07-01 19:49:50 | プラトン イデア論
「生きる哲学」若松英輔 氏 より

p12

新しく知るということはない、とプラトンはいう。

人間が知らなくてはならないことはすべてその魂に宿っている、

より正確に言えば、

魂を扉にした「真実在」(イデア)界と呼ぶべき世界にすでに存在していると考える。

プラトンはそうした働きを「想起」と呼んだ。

彼にとって哲学とは、不断に想起する営みだった。

内的な形のおうちのドアを叩く(??)

2013-12-20 08:05:43 | プラトン イデア論
この自由の哲学を読んでいても
いや、読むという言い方が適切と思えないのは、まだ全然シュタイナー氏の世界に入り込めないからか
とにかく、疑問ばかりがわいてくる

それは何なの?
どういう意味なの?

と、問いは浮かんでくる

この問いとは何なのか?
という問いまで浮かんでくる始末である

なぜ問いは浮かぶ?

なぜ問いに対し、湧くとか浮かぶとか言う?

ここまで書いて、それについて娘に問うてみると、
娘曰く、

それは、理性というものは因果律を追うものだからである

とのこと

理性、理性の性質、因果律

謎は深まるばかりである

客観的観念論

2013-12-14 08:37:25 | プラトン イデア論

存在(ある)」(einai)

その原理としての内的な「かたち」(eidos idea)


何かがあって、その原理としての内的な形がある

として、

それを「イデア=観念」と呼ぶ

目に見える世界は、このイデアの表現としてある

このイデアは、客観的に(誰か一人の思い込みではなく)存在する

とした

これは、客観的観念論
objektiver Idealismus