「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

思考って何?

2013-09-25 19:50:01 | 雑感
やっと、少し読み進めることが出来てきた^ - ^
…と思ったのだが、
またまたぼんやりと立ち止まって、
いくつかのことを、調べたり考えたりする時間をとりたくなった

まず、この「考える」にひっかかる

考える、考えたことについて考える、
考える対象と、私の関係

考えたことについて考える時、
その私の立ち位置

そこは、シュタイナー的に重要なはずだ
彼が言うには、その位置が宇宙を支えるテコの支点なのだから

考えるとは、シュタイナーが三章で述べている意味での考えるとは、正確に言うとどんなことなのか?

単に、思考像を受け取ることではなく、もっと積極的なことらしいが?

普段私は、どんな状況を「考える」と呼んでいるだろう?
私が思っている「考える」は相当受動的な行為で、それはシュタイナー的には考えるではないのかもしれないし


私は普段どんなふうに考えているのか?
どんなふうに思考像を受け取り、
それをどう扱っているのか?
その辺、一回丁寧に「観察」してみたい

それからマックス・シュティルナーについて

時代背景、当時の思想の流れ含め、大変興味深く、ゆっくり吟味してみたい

「自由の哲学」は独立して存在しているとばかり思っていたが、シュタイナーも時代の流れの中で生き、その時代の人たちとともに同じテーマに取り組む中で、この本を生み出したのだと思うようになった

このノートを始める前に、はじめて自由という言葉をドイツ語で言ってみたときは、愕然とした
こんな複雑な発声をしている人たちが考えることを、理解なんて出来るのだろうか?
あまりに、日本とドイツでは感覚が違うのではないか?
字面を追っても、到底わからない何かがあるに違いないと感じてしまう

シュティルナー研究の「哄笑するエゴイスト…」を読み始めてみると、やはり同じ印象である
日本ではそもそも、こんなふうに人間について悩んでみた歴史はあるのだろうか?
日本人の私は「私」というものを、どこまではっきりさせられるのだろう?そしてその上での自由を、自分自身のその領域を、ちゃんと見つけられるのだろうか?


少し色々な角度から俯瞰し、ある程度満足したら、先に進むことにしたい













霊界を身近に?

2013-09-07 16:49:47 | 1918年の再販のための序文
以下、もう一度確認し直したくなった




魂の根本問題

その1

「人間の本性を考察する」にあたり、

充分に解明出来ない事柄に行き着いてしまう

そういう事柄のすべてにも「有効な考察方法」があるのか?

その2

意志する存在である人間は、自分を自由だとみなすことが出来るのか?

それとも自由とは、単なる幻想なのか?

(意志には自由があるのか?

意志には必然しかないのか?)




第2の問いを通してどのような経験をするかは、

第1の問いに、どう対処するかによって定まる

このことが本書によって示される予定だ




本書は、

(問い1の)「人間本性を考える」上で、

第2の問いにも答えてくれるような、

ひとつの「観点」が存在することを証明しようとする試みである




「この観点」に立って意志の自由を完全に是認するためには、

「意志が自由に生きられる」「魂の領域」を見つけ出さねばならない




「この観点」を一度手に入れることが出来たなら、

それは魂を活気づける力になる




「魂のある体験領域」を示唆することが重要である

いつも、その都度必要に応じて、
内なる魂の中から、
新しく解答を見付け出すことが出来るためである




「問い」の存在(二つの根本的な問い)を、

「自分の魂の領域」の中に見つけ出すことが出来た人は、

その領域を深く洞察することによって、

二つの謎を解くのに必要な「鍵」を、
手に入れるであろう




認識とは、本来そのような在り方をしている

「人間の魂のすべてのいとなみに深く関わる認識の在り方」こそが、

その認識の正当性と有効性を証明している





すべての認識の根底にある
「二つの根本問題」
に取り組むなら、

人間が本当に霊界の中に生きていると悟ることができるようになる




本書が試みているのは、

「霊的経験を持つ以前にも霊界の認識が可能である」

と証明することである




この序文では、短い文の中で、相当なことを言っている

1 ひとつの観点を手に入れる

2 魂の体験領域を発見

3 霊界に生きる

二つの問いに取り組むことで、こんなにいろいろなことが可能になるようだ

この本がゲームだとすれば、その「観点」をまずは手に入れ、鍵を見つけて根本問題を解きながら、魂の領域、霊界へと冒険は続く



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娘の学校で生まれた子馬

謎めいた事物たちvs思考する私自身

2013-09-07 12:19:35 | 第3章 世界認識に仕える思考
考察対象となる宇宙の出来事に

・気づかれることのないひとつの手続き

・いっさいの他の出来事とは異なる何か

・気づかれぬ要素

・対象の背後に揺れ動いているような何か

・性質の異なる何か

が混入している

それらは、

私の働きかけなしにも存在しており、

それが、

真実なのか目くらましや夢なのかを私は知ることが出来ない

自然はすでに存在してしまっており、それをもう一度創造するには、
その存在条件を読み取らねばならない

なぜ事物が私にとって謎めいた現れ方をするのか?

その理由は、

その事物の成立過程に私が立ち会わなかったからである



それに比べて、唯一思考だけは自分が生み出したのだから、宇宙の他の事物とは違う、特別なものだとシュタイナーは言う

では思考なら何でもいいのかというと、そうではなく、

あるものが存在する

いかなる意味で存在する?かは、存在そのものだけからでは、わからない

他のものとの関係を考察するときにのみ、存在の意味が見えてくる

しかし、それではまだ、「他のものとの関係を知ること」以上に出ることは出来ない

もし、存在の意味を存在そのものから汲み取れるような対象があれば、それを確かな基盤にし、そこから宇宙の事物の存在の根拠を探求することが出来るだろう

そのようなものとは、

思考する私自身 である

思考する私自身は、なぜ確かな基盤となれるか?

・私の存在の根拠は思考活動

・思考活動は思考活動に基づく

存在の根拠、意味、成立過程がクリアーだから

とシュタイナーは言うが、なんかすっきりしない

何が、どうすっきりしないのか?を考える私

その思考内容は今から存在させる

観察対象は、この文章
それから自分のすっきりしない感じ

思考だからといって、そんなふうに純粋に存在させることが出来るのだろうか

そんな思考を行える人間はどのぐらいいるのだろう

稀有なものを話の根拠にしてるのではないだろうか

それで思い出したが、始めから気になりつづけているのは、「思考する人間」とか「人間の本性の考察」というふうに、活動する状態そのものが、重要なものとして「主語」として扱われていることだ

「私の思考」という、それは生き生きとしたある存在だが、動的なものを今固定して名付けなければならない…という事情があって、

それでそんな奇妙な感じがするのだろうか






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天然酵母パンづくり







私の思考内容と宇宙

2013-09-07 07:58:02 | 第3章 世界認識に仕える思考
今日の気になる箇所

3章 より

我々はまず思考をまったく中立の状態で、つまり思考を思考する主観にも思考対象にも関係させずに考察しなければならない

なぜなら主観の中にも対象の中にも、あらかじめ思考によって生み出された概念が含まれているからである

どんな存在の仕方が考えられるにしても、まず思考という形式をとらなければならない


1918年の新版のための補遺

思考活動の場合においてのみ、自我はどんな活動においても、自分と活動者とが同一存在であることを知っている

思考以外の魂の働きの場合、このことは完全にはあてはまらない

ある種の快感が感じられる場合、よく観察してみれば、自我がどこまで能動的な在り方をしているか、そしてどこに受動的な部分があり、そしてどこで快感が自我の対象として現れてくるかを、正確に区別することが出来る

「思考像を持つこと」と思考内容を思考によって作り上げることを混同してはならない

単なる思考像であれば、曖昧な思いつきとして魂の中で夢のような受動的な仕方で立ち現れてくる場合もある

思考とはこのようなことを言うのではない

勿論次のような疑問も生じるだろう

「思考をそのような意味で捉えるなら、思考の中に意志が潜んでいることになる

したがって思考だけではなく、思考への意志もまた問題になる」

けれどもそのような言い方をするのなら、むしろ「真の思考は常に欲せられたものでなければならない」と言うべきだろう

しかしそう言ったからといって、このことは本書で論じたような思考の性格づけとは何の関係もない

たとえ思考の本質が常に欲せられることを求めているとしてもである

我々にとって問題なのは、思考する自我が常に自分自身の完全に見通し得る活動を欲しているという点である

この思考の本質のゆえにこそ、思考が観察する人にとってまったく意志されたもののように見えるのである


この章は、思考の性質、本質について述べている

思考が宇宙史的にどんなものかを述べる一方で、思考と自我、観察対象などとの厳密な在り方について述べる彼

こう言っていいのだろうか?

1私の思考、私の思考内容

2宇宙史の先端

1=2

私の意識の中での出来事は

宇宙史上の何か

なのか?

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竹細工 先輩が製作中のお弁当箱







シュティルナー 唯一者とは

2013-09-06 07:20:24 | 「唯一者とその所有 」シュティルナー
「自由の哲学」を精読しようとしているが、すぐに気になるところ、ひっかかる表現に出会ってぼんやりとしてしまう

今は1章から3章の間で行ったり来たりしていて、最近少し4章にも放浪し始めた

ぼんやりした時間を積極的に過ごすため、シュタイナー本人が「自由の哲学」では同じ主張を違う形で表現したと述べているというシュティルナーの考えについて調べてみている

娘が、研究中のマックス・エルンストというシュールレアリズム画家の評伝の中に、シュティルナーのことが出ていると教えてくれたのでメモしておく

マックス・エルンストは成長するにしたがって、オカルトや魔術的秘教に強く惹かれるようになる。15歳のとき、彼は父親と教会への反抗心から、一冊の本を手にした「唯一者とその所有」であった。

1845年初版を見たこの哲学的な著作はフォイエルバッハからの引用ではじまる。

「人間であること、
これこそ人間至高の本質である。」

シュティルナーは、人間は動植物同様、何者によっても命じられることなく、なんの責務ももたず、規定されることもない、と主張する。

あまりにも長く、人の本能的な能力が教師や聖職者によって抑圧されてきた、とシュティルナーは考える。

もっとも重要なのは、自我が別の自我を思いやる「キリストの魔法の輪」から抜け出すことである、と彼は言う。

「『私』より下にあるあらゆる真実は『私』にとって好ましい。

しかし、『私』より上にあるただひとつの真実、『私』が『私』を裁かねばならぬ、というそのたったひとつの真実だけは私の関知するところではない…。

『私』は無数にある『私的なるもの』のなかの単にひとつの『私』ではなく、『私』は唯一の『私』である。

『私』はただひとつである。
したがって、『私の』欲望も、『私の』行為も、ようするに『私』に関わるあらゆるものはただひとつなのである。

そして、この唯一の『私』としてのみ、『私』はすべてのものを、『私』の所有とするのであり、同様に『私』はただこういう『私』としてのみ動き、発展するのである。

人間として、人類の一員として『私』は発展するのではない、『私』は『私』として発展していくのである。
これが『唯一者』の意味するところである。」


ローター・フィッシャー著 「Max Ernst」より

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