やっと、少し読み進めることが出来てきた^ - ^
…と思ったのだが、
またまたぼんやりと立ち止まって、
いくつかのことを、調べたり考えたりする時間をとりたくなった
まず、この「考える」にひっかかる
考える、考えたことについて考える、
考える対象と、私の関係
考えたことについて考える時、
その私の立ち位置
そこは、シュタイナー的に重要なはずだ
彼が言うには、その位置が宇宙を支えるテコの支点なのだから
考えるとは、シュタイナーが三章で述べている意味での考えるとは、正確に言うとどんなことなのか?
単に、思考像を受け取ることではなく、もっと積極的なことらしいが?
普段私は、どんな状況を「考える」と呼んでいるだろう?
私が思っている「考える」は相当受動的な行為で、それはシュタイナー的には考えるではないのかもしれないし
私は普段どんなふうに考えているのか?
どんなふうに思考像を受け取り、
それをどう扱っているのか?
その辺、一回丁寧に「観察」してみたい
それからマックス・シュティルナーについて
時代背景、当時の思想の流れ含め、大変興味深く、ゆっくり吟味してみたい
「自由の哲学」は独立して存在しているとばかり思っていたが、シュタイナーも時代の流れの中で生き、その時代の人たちとともに同じテーマに取り組む中で、この本を生み出したのだと思うようになった
このノートを始める前に、はじめて自由という言葉をドイツ語で言ってみたときは、愕然とした
こんな複雑な発声をしている人たちが考えることを、理解なんて出来るのだろうか?
あまりに、日本とドイツでは感覚が違うのではないか?
字面を追っても、到底わからない何かがあるに違いないと感じてしまう
シュティルナー研究の「哄笑するエゴイスト…」を読み始めてみると、やはり同じ印象である
日本ではそもそも、こんなふうに人間について悩んでみた歴史はあるのだろうか?
日本人の私は「私」というものを、どこまではっきりさせられるのだろう?そしてその上での自由を、自分自身のその領域を、ちゃんと見つけられるのだろうか?
少し色々な角度から俯瞰し、ある程度満足したら、先に進むことにしたい
…と思ったのだが、
またまたぼんやりと立ち止まって、
いくつかのことを、調べたり考えたりする時間をとりたくなった
まず、この「考える」にひっかかる
考える、考えたことについて考える、
考える対象と、私の関係
考えたことについて考える時、
その私の立ち位置
そこは、シュタイナー的に重要なはずだ
彼が言うには、その位置が宇宙を支えるテコの支点なのだから
考えるとは、シュタイナーが三章で述べている意味での考えるとは、正確に言うとどんなことなのか?
単に、思考像を受け取ることではなく、もっと積極的なことらしいが?
普段私は、どんな状況を「考える」と呼んでいるだろう?
私が思っている「考える」は相当受動的な行為で、それはシュタイナー的には考えるではないのかもしれないし
私は普段どんなふうに考えているのか?
どんなふうに思考像を受け取り、
それをどう扱っているのか?
その辺、一回丁寧に「観察」してみたい
それからマックス・シュティルナーについて
時代背景、当時の思想の流れ含め、大変興味深く、ゆっくり吟味してみたい
「自由の哲学」は独立して存在しているとばかり思っていたが、シュタイナーも時代の流れの中で生き、その時代の人たちとともに同じテーマに取り組む中で、この本を生み出したのだと思うようになった
このノートを始める前に、はじめて自由という言葉をドイツ語で言ってみたときは、愕然とした
こんな複雑な発声をしている人たちが考えることを、理解なんて出来るのだろうか?
あまりに、日本とドイツでは感覚が違うのではないか?
字面を追っても、到底わからない何かがあるに違いないと感じてしまう
シュティルナー研究の「哄笑するエゴイスト…」を読み始めてみると、やはり同じ印象である
日本ではそもそも、こんなふうに人間について悩んでみた歴史はあるのだろうか?
日本人の私は「私」というものを、どこまではっきりさせられるのだろう?そしてその上での自由を、自分自身のその領域を、ちゃんと見つけられるのだろうか?
少し色々な角度から俯瞰し、ある程度満足したら、先に進むことにしたい