平成太平記

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呉善花『反日韓国に未来はない』

2012年11月04日 08時51分12秒 | Weblog
呉善花『反日韓国に未来はない』
2012-10-13
反日ばかり取り上げているので、たまには貴重な親日韓国人を
呉 善花(現在は来日し日本国籍を取得)

拓殖大学教授。1956年韓国・済州島に生まれる。高校入学時に家族を離れ、ソウルで下宿生活をしながら高校へ通う。韓国軍隊経験をもつ。83年に来日し、大東文化大学(英語学専攻)の留学生となる。その後、東京外国語大学大学院修士課程(北米地域研究)を修了。拓殖大学日本文化研究所客員教授を経て、2004年より現職。著書に『蝦夷の韓国 開国の日本』(文藝春秋、 第五回山本七平賞受賞)のほかに、『スカートの風(正・続・新)』(三交社・角川文庫)、『私はいかにして「日本信徒」となったか』『海の彼方の国へ』『日本的精神の可能性』『女帝論』(以上、PHP研究所) などがある。

呉善花著『反日韓国に未来はない』 より ─────────────────────

いったいどこに「鬼畜のごとき」日本人がいたのか日本統治時代に生活していた韓国のお年 寄りには、日本人に悪感情を抱いている 人は圧倒的に少ないといえます。日本人と直接つき合いのあった人はだいたいが日本や日本人に親しい気持ちをもっています。

たとえば「学校での生活はどうでしたか」と聞いて、いやな思いをしたという話はほとんどありません。大部分の人が「日本人の先生にいい先生が多かった」といいます。

日本人からの聞き書き調査では、こんな 内容の発言もあります。

「韓国の青年たちが近所の川辺などで凧揚げをしているのを見て、とてもうらやましいと思っていたら、彼らはうまく凧を揚げる方法をいろいろ教えてくれた」「当時、日本人も朝鮮人も関係なかった。学校では、韓国人の先輩に、厳しく、服装などの問題で指導されたが、それがいつも怖かった」

こうした証言は、民衆レベルでは、実に当たり前の生活観が存在していたという証拠でしょう。だからこそ、直接日本人と接したことのある韓国人ほど親日派が多いのです。

それに敗戦後、日本人が日本に帰るときに、日本人に対する暴動も起きなければ、略奪行為もほとんど起こっていないのです。当時は、日本の軍事・警察機構は解体され、韓国の警察はほとんど機能していなかった時期です。もし、統治時代に日本人が韓国人に対してひどいことをしていたのならば、日本人の家に暴徒が殺到し、略奪行為が起きていても不思議ではなかったはずです。ところが、ほとんどの人が、そんなことはまったくなかった。噂すら聞いたことがないといっているのです。

それどころか、日本が負けて、これから彼らはどうなるのだろうと心配しながら、ソウルから釜山まで日本人一家の荷物を運んだ韓国人もいます。また朝鮮生活の長かった日本人からは、親しくつきあっていた韓国人一家と別れるのが辛くて、仁川の波止場でお互いに泣くだけ泣いて別れたという話をたびたび聞かされました。私は、そんな話を聞いてホッとすると同時に、反日教育で教えられたようなひどい統治があったと考えることにはどうしても無理があることに気付かされました。

実際の生活で日本人とつき合った体験のある人々に親日傾向が強く、実際の体験のない人々に反日傾向が強いということは、まさに私の実感ともピッタリ合うものです。

こんなおかしなことがなぜ起きるのでしょうか?
私が強く感じるのは、日本統治時代の朝鮮を語る際に、「政治史・制度史」だけが重視され、生活の十井については、それに役立つ限りで「資料」として採用されるにすぎない、ということです。逆にいえば、日本統治時代の朝鮮理解は、社会史・生活史などは不要であるという考えに強く支配されているということです。

そのように政治的観点が重視されるあまり、日本統治時代のことは、すべて政治的に語ればよしとされ、社会的な現実など取るに足りないこととされてしまっているのです。もちろん、一つの時代を語るのに、政治史・制度史は重要なものです。しかし私は、実際にその時代を生きた人々の社会史・生活史もまた、政治史・制度史に匹敵するほど、あるいは場合によっては、それ以上に自由様なものだと思うのです。

この本を書き終え、私は韓国でも日本でも多くの場合「悪辣な日本統治」を描き出すのに少しでも役立つ材料だけが切り取られてきて、それ以外の材料はすべて捨てられてしまい、それが歴史となっていたことを、疑う余地なくはっきりと確信することができたように思います。

■両親に教えられた日本人

私の両親には戦前の日本で生活していた時期がありました。

母は14~15歳のころ、韓国の済州島から日本の大阪に渡っています。昭和10年代の始めのことでした。

そして、大阪のプラスチック製造工場を営む2人の兄を手伝ったのです。2、3年、日本で生活した母は、16歳のとき故郷に戻りますが、父と結婚するとすぐ、今度は鹿児島へ渡り、父の兄弟が経営する箸の製造工場の仕事をすることになりました。長女はそこで生まれたのですが、終戦までの数年間を日本で過ごしたのです。

叔父一家(5人)と父一家(3人)は、3人家族の日本人の家に間借りしていました。父母や叔父たちがいうには、「その家族も近所の人たちもたいへん親切にしてくれた。何かといっては果物やミカンをくれたりしたし、畑をただで貸してくれて野菜を自給することもできた」といっていました。

やがて戦争になり空襲が始まると、日本人は防空壕を掘ったのですが、その家の主人は叔父や父母たち韓国人家族も入れる大きな防空壕を掘り、防空頭巾を作ってくれ、アメリカの飛行機が来ると、いつも子供たちを先頭にしてみんなを先に防空壕へ入れ、自分はいちばん最後に入ったそうです。

戦争が終わって、叔父と父母の一家は、済州島へ帰ることになりましたが、その日本人家族は涙を流して別れを惜しんでくれ、自分たちも、お世話になったことを感謝し、泣くだけ泣いて別れてきたのだそうです。

その後、済州島で生まれた私は、両親から「日本人はとても親切な人たちだった」と聞かされて育つこととなりました。

母は「日本のミカンはとても甘くておいしい」と話していました。そのころ、韓国でとれるミカンは酸っぱい味しかしませんでしたから、幼いころの私は、日本に行って、甘いミカンをいっぱい食べたいと思ったものです。

また、当時、韓国ではお風呂に入る習慣がありませんでした。だから、母から、日本のお風呂や銭湯、温泉の話を聞いてとてもうらやましく思ったものです。日本に行って、甘いミカンを食べ、温泉に入る……それが私の夢でした。

また、私は母から口移しで教えられた日本語をいくらかしゃべれました。村のお祭りのときには、巫女さんが私を呼んで「日本語をいわせる」のが恒例になっていて、みんなの前でいくつかの日本語の単語を発しては拍手喝采を受けたものです。幼いころの私にとって、日本はとても親しい気持ちをもてる国であり、いつかは行きたい憧れの国としてイメージされていたのです。

そのように、親の世代から教わる日本人像には鬼のように悪辣な、ひどい国民だといったイメージはまったくありませんでした。

しかし、学校で強烈な反日教育を受けているうちに、私のなかから、そうした日本への「いいイメージ」はいつしか消えていきました。

すでに述べましたように、韓国では「田舎者ほど反日意識が弱いのは無学だからだ」などといわれていました。

逆に「高い教育を受けた者ほど反日意識の強い愛国者である」と見られていたのです。

大人たちから「勉強ができるいい子だ。上の学校に進む優秀な子だ」といわれれば、「それにふさわしい反日意識を強くもたなければならない」と子供心に思ったものでした。

その結果、私は親に対して誤った気持ちを抱いてしまいました。

「日本人は親切だ、なんて私にいい聞かせていた親たちは、みんな無学な田舎者だったのだ。日本人がほんとうはどれほど残酷なことを韓国に対して行なってきたかを教わってこなかったから、何もわかっていないのだ」

私が特別だったわけではありません。
韓国で教育を受けたすべての子供たちが、日本に対して、そうした気持ちを抱くようになっていたのです。


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