2012年8月29日、稚内から道道106号線を南に走り、右側に日本海を見ながら抜海を通過し、稚咲内の砂丘のえきに着く。ここはサロベツ原野の案内マップと止宿跡の説明板がある。私たちは此の地は2009年の9月に初めて訪れましたので、3年後再訪出来たところでもあります。
説明は『止宿跡 松浦武四郎 休憩地』
「道路のない明治以前、海岸沿いを道路として利用する旅人にとって 当時アイヌ語で
ワッカ・サク・ナイ(飲み水が・ない・川)と呼ばれていたこの地は、今の稚内と天塩の中継地でした。そこで強風と砂に足をとられながらの旅人の休憩と給水のために1840年代に止宿所(番屋とか継立所ともいう)が設けられました。
幕末の探検家として有名な松浦武四郎は3度この地を通過し、利尻山の雄大な眺めとともに、建物や井戸のあったことを彼の探検記にしるしています 豊富町 」と記載されてます。私たちにはその雄大な利尻山の姿は曇天のせいか、よくは見えなかった。
止宿所跡の写真![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/c0/4adfacbb7624c399d36ba5bb7d936cdc.jpg)
砂丘のえきの写真
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/c8/0b7630f26082fbac80bc9327d9507d73.jpg)
天塩へ向かい鏡沼海浜公園にある松浦武四郎の歌碑や立像を再訪
蝦夷地の全貌を明らかにするとともに、膨大な資料を後世に残した功績を称え天塩町が設立したものである。
松浦武四郎の立像写真(逆光ですが、利尻山の方を眺めているように見える・・・)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/ad/6fd559f902ed70bf0f4f539afd6b55bc.jpg)
歌碑が刻まれている。
☆ 蝦夷人のみそぎなしたる天塩川 今宵ぞ夏のとまりをばしる
☆ ながむれば渚ましろに成りにける てしほの浜の雪の夕暮
天塩川河口のカヌーポート付近にある北海道開発局設置された天塩川歴史紀行の案内板で
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/e3/a607cac57723303e4facd3212c885fde.jpg)
この河口は2009年に来た時には設置されていなかったが、新しく出来たことを知り、訪れた。
安政4年に流域を知り尽くしたアエテリンカ、トセツ、エコレ、トキコサンの案内で天塩川を踏査した 天塩日誌のことが記載されている。案内板には以下の内容が記載されている。
『天塩川歴史紀行』の説明案内版
北海道の名付け親の探検家 松浦武四郎 「天塩日誌」を訪ねて
『安政四年(一八五七年)六月、探検家、松浦武四郎(当時四十歳)は蝦夷地(現在の北海道)に渡り、アイヌの男性四名と二艘の丸木船で天塩川探査を行い、「天塩日誌」として記録しました。』
北海道第二位の大河でありながら、当時未踏の地であった天塩川流域の調査は往復二十四日間の道程で多くの困難と共に豊かな自然とアイヌ文化に触れる壮大な旅でした。
現在地は、踏査一日目に宿泊したと推定されている。「サコカイシ(天塩作返)」です。武四郎は此の地のアイヌの人々から暖かい心に触れました。
六月六日(調査準備)
堀奉行から革靴一足、薬品(解毒丸三十、風邪薬五十)木綿五反(五色)などを頂戴した。
奉行の一行が行かれる北方向けの船の準備が終わり、やがて碇を上げた。また、船の帆網も巻き終わらないうちに船首を北に向けるか向けないうちに、帆に風を一杯にはらんだ船がもう動き始め、私たちが低く下げた頭を上げると、船は既に河口を海に向かって出るところであった。
さて、こちらも天塩川へ向かう準備の食糧や舟について準備役のアエリテンカ。トセツ。エコレ、トキコサンに命じて急がせる。
ここの独木舟(まるきぶね)の大きさは、二人乗りほどで形はちょうどひょうたんのようである。
六月三十日(調査二十四日目)
夕方、天塩の役所に着いてみると、付近のアイヌ民族の男性たちがイナウを作ってヌサシャンに立て、その前でカムイミノをしていた。そのわけを聞くと、今日は月祓(チエフノミ)の日であるというので、「えぞ人のみそぎなしける天塩川 今宵ぞ夏のとまりをば知る」と詠んだ。
翌日、今回天塩川上流まで案内をしてくれたアイヌ民族の男性たちに手当の木綿布や酒、たばこ、針、糸などを渡して、労苦をねぎらった。と書かれております。
説明は『止宿跡 松浦武四郎 休憩地』
「道路のない明治以前、海岸沿いを道路として利用する旅人にとって 当時アイヌ語で
ワッカ・サク・ナイ(飲み水が・ない・川)と呼ばれていたこの地は、今の稚内と天塩の中継地でした。そこで強風と砂に足をとられながらの旅人の休憩と給水のために1840年代に止宿所(番屋とか継立所ともいう)が設けられました。
幕末の探検家として有名な松浦武四郎は3度この地を通過し、利尻山の雄大な眺めとともに、建物や井戸のあったことを彼の探検記にしるしています 豊富町 」と記載されてます。私たちにはその雄大な利尻山の姿は曇天のせいか、よくは見えなかった。
止宿所跡の写真
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/c0/4adfacbb7624c399d36ba5bb7d936cdc.jpg)
砂丘のえきの写真
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/c8/0b7630f26082fbac80bc9327d9507d73.jpg)
天塩へ向かい鏡沼海浜公園にある松浦武四郎の歌碑や立像を再訪
蝦夷地の全貌を明らかにするとともに、膨大な資料を後世に残した功績を称え天塩町が設立したものである。
松浦武四郎の立像写真(逆光ですが、利尻山の方を眺めているように見える・・・)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/ad/6fd559f902ed70bf0f4f539afd6b55bc.jpg)
歌碑が刻まれている。
☆ 蝦夷人のみそぎなしたる天塩川 今宵ぞ夏のとまりをばしる
☆ ながむれば渚ましろに成りにける てしほの浜の雪の夕暮
天塩川河口のカヌーポート付近にある北海道開発局設置された天塩川歴史紀行の案内板で
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/e3/a607cac57723303e4facd3212c885fde.jpg)
この河口は2009年に来た時には設置されていなかったが、新しく出来たことを知り、訪れた。
安政4年に流域を知り尽くしたアエテリンカ、トセツ、エコレ、トキコサンの案内で天塩川を踏査した 天塩日誌のことが記載されている。案内板には以下の内容が記載されている。
『天塩川歴史紀行』の説明案内版
北海道の名付け親の探検家 松浦武四郎 「天塩日誌」を訪ねて
『安政四年(一八五七年)六月、探検家、松浦武四郎(当時四十歳)は蝦夷地(現在の北海道)に渡り、アイヌの男性四名と二艘の丸木船で天塩川探査を行い、「天塩日誌」として記録しました。』
北海道第二位の大河でありながら、当時未踏の地であった天塩川流域の調査は往復二十四日間の道程で多くの困難と共に豊かな自然とアイヌ文化に触れる壮大な旅でした。
現在地は、踏査一日目に宿泊したと推定されている。「サコカイシ(天塩作返)」です。武四郎は此の地のアイヌの人々から暖かい心に触れました。
六月六日(調査準備)
堀奉行から革靴一足、薬品(解毒丸三十、風邪薬五十)木綿五反(五色)などを頂戴した。
奉行の一行が行かれる北方向けの船の準備が終わり、やがて碇を上げた。また、船の帆網も巻き終わらないうちに船首を北に向けるか向けないうちに、帆に風を一杯にはらんだ船がもう動き始め、私たちが低く下げた頭を上げると、船は既に河口を海に向かって出るところであった。
さて、こちらも天塩川へ向かう準備の食糧や舟について準備役のアエリテンカ。トセツ。エコレ、トキコサンに命じて急がせる。
ここの独木舟(まるきぶね)の大きさは、二人乗りほどで形はちょうどひょうたんのようである。
六月三十日(調査二十四日目)
夕方、天塩の役所に着いてみると、付近のアイヌ民族の男性たちがイナウを作ってヌサシャンに立て、その前でカムイミノをしていた。そのわけを聞くと、今日は月祓(チエフノミ)の日であるというので、「えぞ人のみそぎなしける天塩川 今宵ぞ夏のとまりをば知る」と詠んだ。
翌日、今回天塩川上流まで案内をしてくれたアイヌ民族の男性たちに手当の木綿布や酒、たばこ、針、糸などを渡して、労苦をねぎらった。と書かれております。
猿払に行かれたのですね。
ところで稚咲内の止宿場跡は駅逓跡を調べてわかったのですが実際は今の説明板があるところから約2キロほど
稚内よりにある小川の近くだった事がわかりました。
豊富町が稚咲内に有ったと云うことで今のところに
説明板を設置したようです。稚咲内止宿場が後の
稚咲内駅逓所となった様です。
松井梅太郎の碑もすぐ近くに有りました。
武四郎に関しては空知、道北、道東、十勝の碑関しては
実は公式サイトに一覧で地図とGPSデーターを載せてありました。
旭川では野外彫刻の総てを地図に写真付きで載せています。中に知里幸恵さんの文学碑もありました。
最近は駅逓の探索ですが運上屋つながりで
武四郎との接点が時々あるのがうれしいですね。