気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

浜益・石狩・小樽史跡旅:厚田発祥の地碑など

2017-11-17 21:54:10 | 日記
2017年10月9日から11日の史跡旅から、自宅に戻って、松浦武四郎の著書などで、行ったところの関係ある所や地名などを確認した。
厚田漁港の近くに「厚田発祥の地碑」や「弁財船投錨の地」の石碑があった。
1 厚田発祥の地碑
  
 2 弁財船投錨の地
  
3「弁財船の説明版」

 「安政五年(一八五八)ここ古潭の地に和人が初めて越年するようになってから、漁場開拓が本格的に始まった。
 当時、陸上交通の手段がなかったため、春から秋にかけて大阪を出港し、瀬戸内海を経て、日本海を北上する弁財船が本州と北海道を結ぶ交易船として唯一の交通手段であり、幕末から明治にかめて物流・文化交流など北海道沿岸の開拓に大きく貢献している。
 古潭神社の下に見える押琴の入江は南北を岩礁に過去案れた天然の良港として、當時弁財船が停泊し運上屋も置かれたところ。鰊猟場として拓けた厚田村は明治二十四年に五万石の水揚げが記録されている。厚田神社境内に今もその当時の豊漁記念碑がある。
4 厚田神社「豊漁記念碑」(鳥居の左が記念碑)


松浦武四郎著「西蝦夷日誌」の「アツタ領」
『アツタ、譯して楡皮取(アツタ)といふ儀にて、此川楡皮多きが故に號し也。今其川の名をアル川に當て、彼をアツタベツとするは誤りなり。アルは彼川にして、其名儀次に記す如し。昔此運上屋やアツタに有りしが故、場所の惣名となせども、今の運上屋の地は本名ヲショロコツ(押琴)と云處なり。』と記録。
まや、「押琴」についても
『ヲショロクチ(現押琴)運上屋一棟、板ぐら十二棟、勤番所、辨天社、雇小屋)辨天社には稲荷を合殿に祭る』とある。
 さらに、望来についても
『同じ崖下(十七町四十間、橋あり。モウライ、名儀、風によって閉じ、また開き等する儀也』とある。
国道231号線を石狩から厚田方面に向かう途中、私たちは「望来の駐車場から、厚田の市街地方面を写真に収めた所でもある。
 5 望来の丘
 
 6 厚田公園「夕日の丘」

 7 厚田公園「夕日の丘」の「にしん街道木柱」
 
 説明版は劣化してはがれていた・・・。にしん漁で栄えた時代のパンフレットには「歴史と文化薫る」とあるので、見学に来る人も多いのでは・・・。因みにこの公園は「恋人の聖地」とも書かれているので、若いライダーも結構来ていた、
国道を挟んで、向の「厚田公園」には「道の駅」の大きな建物が建築中工事であった。


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