「しかし、私たちの本国は天にあります。」(フィリピの信徒への手紙3:20 聖書・新共同訳より)
羽生結弦と銀次さんが対談した「東北VOICE」に未公開部分を追加した、「東北ココから」が放送されました。NHKプラスで2週間見られます。(ここをクリック)「東北ココから」羽生結弦×銀次 - 東北ココから - NHK
4月14日と16日、震度7を記録した熊本地震(2016年)から9年目です。
「どうか、どうかもう大きな地震が起きませんように。 自然の摂理で、そのシステムが地球に存在しているから、 日本があって、世界の大陸があって、島々があって、 そこにさまざまな生物が生まれて、過ごして。 そのおかげなのはわかっているけれど、どうか、 大きな地震が起きませんように。 全ての生物が、これからも生きたいって心から笑えますように。 この世界に、いまに生まれてよかったと、感じられますように。
羽生結弦」
( 仙台市泉区の)七北田公園(ななきたこうえん)公式インスタグラムで、羽生結弦の五輪二連覇記念桜である、「陽光桜」(通称:ゆづ桜)が、満開になったことを動画つきでご紹介してくださいました! こちらをクリックInstagram
「僕のこと」をバックミュージックにつけてくださって(※羽生結弦が公式YouTubeで4回転アクセル成功動画に使用した楽曲・脅迫被害のために3回転半に修正させられています)、本当にありがとうございます♪
【泉区】七北田公園の『ゆづ桜』が、見頃に。 | 仙台つーしん
ご注意: 長年の本当のファンの方々なら、必ず明白にわかると思いますが、羽生結弦は、プロ転向前の現役時代から、「魔王呼び」されることを、意図的な羽生結弦への侮辱・屈辱として徹底拒否し続けてきました。 今までも、そして今も、魔王呼びしてきた者たちや、そのようなイメージを強要してきた者たちは、以前からファンや関係者を装って、羽生結弦への脅迫者とその関係者、もしくは、陰で(虚偽告訴などまでして)貶めてきた者たちとそのお仲間ですので、どうぞ、本当のファンの皆様や本当に羽生結弦を応援・支援してくださる関係者の皆様は、十分にご注意ください。
野村萬斎×羽生結弦「鎮魂と再生 踏みしめる舞い」|読むらじる。|NHKラジオ らじる★らじる
野村萬斎のラジオで福袋 - NHK
※ 皆様にお知らせとご注意 羽生結弦はキリスト教信仰のため、「式神」という存在の実在を信じてはいないのはもちろんですが、 現実に「五芒星で邪気や悪霊が払われる」とは全く信じてはおりません。 あくまでも、今回は、陰陽師モチーフの演劇の一部としての役割を果たしただけで、 羽生結弦本人の祈りは、平昌五輪の前の時からそうであったように自分の信仰対象である「天地創造主たる神」であるイエス=キリストに捧げられています。羽生結弦には、それ以外の信仰もなく、五芒星などを推奨する意志は全くありませんので、どうぞ改めてご了承の上、特に世界中のファンの皆様は、十分にご注意ください。 (文責・羽生結弦・羽生結弦公式声明)
4月1日:Notte Stellata2025の最終日のショー終了後の特別インタビューの全文を追加掲載しました!
羽生結弦×銀次 - 東北VOICE - NHK ← こちらの公式HPにて、番組宣伝動画が公開中!
VIDEO
3月29日 BS日テレにて、Notte Stellata2025の初放送がありました。以下は番組宣伝
VIDEO
*****************************************
被災地支援のアイスショー Notte Stellata(ノッテ・ステラータ=満天の星空、の意味のイタリア語)2025で、
羽生結弦が語った毎日のトーク内容(ご挨拶)すべてと、ショー終了後のインタビューをご紹介いたします
羽生結弦と考える、人間の存在価値と日本の未来「あなたの花を咲かせよう!」自殺(自死)・不妊・虐待・災害多発国・日本の問題と、羽生結弦のプログラムたちに込められていたメッセージ
※ 最終日のショー終了後の特別インタビュー内容を 追加予定です
羽生結弦が会場外のアイリンショップ(アイスリンク仙台ショップ)のボードに書いた 直筆メッセージ
「折れそうな心で無理して続けた14年前の日々。
途轍もなく大きな地球で 途方もなく大きな困難に
苦しみに、哀しみに、人が一人で出来ることの小ささを知って。
それでも降りしきる雪の下、「頑張る」ことを繰り返して、
弱くとも集まった、広がった命の灯火が、今のこの時間を作っているのだと思います。
あの時、あの場所にいたことも、今、ここにいることも、全部忘れないで、共に。
笑って、笑って、大丈夫って、「共に、前へ」 2025. 3 羽生結弦 」
< 羽生結弦の、Notte Stellata2025公演中の 毎日のご挨拶内容 >
3月7日 (1日目)
< 最初の挨拶 >
羽生結弦、Notte Stellataにご来場いただき、ありがとうございます。そして全国の映画館、Huluでご覧のみなさんも、ありがとうございます。
このノッテ・ステラータという言葉には「満天の星」という意味があります。僕が、2011年3月11日、いろんなものを、皆さんが…いろんなものをなくして壊れてしまった日に、見上げた夜空がとてもキレイで…
別に…その星たちから希望をもらったとか…そんな簡単なことは言えないんですが、何となく、とてもキレイだったな、という記憶が、僕の中ではすごくすごく大切な思い出になっています。
そんなちっちゃくて、はかなくて、でも何か輝いて見える、そんな星たちに、僕たちここにいるスケーターが1人1人、輝きながら、皆さんにとっての星になれるよう、演技していきたいと思います。
時に寂しく、時につらく、いろんなことを思い出して悲しくなってしまうことも、あるかもしれません。
ただ僕たちは、ここにいて、なくなったものも、今、生きているものも、全てに対して、魂から祈りを込めて滑らせていただきます。どうか今日は最後までよろしくお願いいたします。
< 最後の挨拶 >
えー、1日目 Notte Stellata、いかがでしたでしょうか。
本当に、みんなで ほんと、3年目のスケーターもたくさんいて、本当にこのノッテ・ステラータというショーの意味を深く深く感じながら、本当に思いを込めて、リハーサルからずっと滑ってくれてました。そんな全スケーター、そして野村萬斎さんにも、改めて大きな拍手をお願いします。
やはり東北人、宮城県民、仙台人としては、やはり、3月11日という日が近づけば近づくほどに、何か思い出してしまうことや、悲しい思い出だとか、そういったものはやはりあります。
ただ、みなさんそれぞれの中で、3・11というものに対して、故郷から離れてつらい思いをしてたという人もいらっしゃったり、また、全然関係なくても、遠くから見ていて、痛い思いをされた方も、もちろんいらっしゃったと思います。
そんな、どんな方々の中の3・11でも、大切に大切にしていただけるとうれしいです。どうかこれからも、まだまだ苦しんでいる人もいらっしゃるので、どうか忘れないで… ちょっとでもこれがきっかけとなって、ご支援もして頂けたら、本当に本当に嬉しいです。
3月11日のみならず、能登半島、また大雪とかで、被害に遭ったところがたくさんあります。どんな災害でもいいので、ちょっとでも、皆さんのご支援をしていただけたら、本当に本当に嬉しいなと思います。
本日は本当にありがとうございました。
ありがとうございました。どうかお気をつけてお帰りください!ありがとうございました!
3月8日 (2日目)
< 最初の挨拶 >
羽生結弦 Notte Stellata にご来場いただき、ありがとうございます。 また、全国の映画館や、Huluでご覧のみなさまも、ありがとうございます。
このノッテ・ステラータという言葉には「満天の星」という意味があります。僕が、3.11の時に、なんとなく・・・ その壊れた町や 電気がつかない いつもの見慣れた風景の中で 見上げた夜空にたくさんの星が輝いていて …そこから、簡単に「希望をもらった」とか「元気が出た」とか、そんなことは言えなかったのですが、キレイだなって心から思えて、その記憶が、僕の中で とてもとても大切な記憶となっております。
そんな満天の星たちのように 僕たちスケーターが一人一人、祈りを込めて、願いを込めて、皆さまの星になれるようにと想いながら、滑っていきたいと思っております。
やはり、3・11が近づけば近づくほど、たくさん、つらい思い出や悲しい記憶に出会います。
そしてまた、大船渡や能登地方や、本当にいつ起こるか分からない大きな災害に対して、今現在、つらい思いをされている方々に対して、僕たちはスケートでしかないけれど、何とか…ちょっとでも希望となれるように
その時のことをちょっとでも 忘れられるように、きれいだなと思ってもらえるように、祈り続けます。
どうか最後まで、ご覧下さい。
< 最後の挨拶 >
ということで…ノッテ・ステラータ2日目、いかがでしたでしょうか。ありがとうございました。
まだまだ、こうやって今、たくさんみんなで楽しいこと、幸せなこと、たくさんたくさん、みんなで分かち合えたと思いますが、まだまだ苦しい思いをされている方も、もちろんこの中にもいらっしゃいます。
どうか、あの…ちょっとでもいいので、思い出すきっかけだったり、こんな楽しい記憶、幸せな記憶を、
その、今、苦しんでいる方々にも共有できるくらい、たくさんたくさん幸せになって、 みんなの輪が、幸せの輪が、日本中、世界中に広まっていってくれたら嬉しいなと、綺麗ごとのようですが思っております。(笑)
えー、僕自身、3・11というものは正直、もう14年近くも前になってしまって、昨日のように思い出せるような気もするし、本当に14年も経ってしまったんだな、と記憶が薄れていってしまっているような、 何か、この震災の後の世界に適応してしまっているような、そんな気もします。
能登の地震の後、そして大雨の後、なかなか、なんだろう…元いた時間を懐かしんだり、元いた時間に戻りたいとか、なかなか今の環境に対して、苦しい思いをされている方、心が折れてしまいそうな方もいらっしゃると思います。
どうか、それでも何とか生きて、真っすぐ前を向いて、みんなの力に頼って、進んでいれば、きっときっとこうやってまた、幸せな日が、幸せを共有できるような日がやってくるんだと、 僕は、震災の後、こうやって今、幸せだからこそ、改めて思えています。
どうか皆さんのつらい記憶、皆さんのしんどい今、それを・・・楽しんでとは言わないですけど、
受け入れて、どうかその先にある、きっときっとその先にある幸せを楽しみに待っていてください。
これからも僕たちは、そんな皆さんにとっての希望の星になれるよう、きっかけになれるよう、頑張ります。
今日は本当にありがとうございました。
3月9日 (最終日・千秋楽)
< 最初の挨拶 >
羽生結弦 Notte Stellataにご来場くださり、ありがとうございます。そして、全国の映画館や、Huluでご覧の皆様も、本当にありがとうございます。 このNotte Stellataという言葉の意味は、「満天の星」という意味があります。
僕が2011年3月11日に壊れてしまった町の中、電気がつかない 見慣れた光景の中で見上げた夜空が…
簡単に、「希望をもらった」とはいえませんでしたが、本当に心からきれいだなということを感じ、その記憶や光景が、今でも僕の中では、すごく大切なものになっています。
そんな、あの時に見た満天の星のように、僕たちスケーターがそれぞれが皆さんにとってちょっとでも… この苦しいことがたくさんある、目を…世界に広げてみると、つらいことがたくさんある この世の中の中で、ちょっとでも希望となって見えるように 輝く星になれるように
祈りながら滑っていきたいと思います。
今日でNotte Stellataが最終公演です。どうか僕らもすごくすごく
より一層の祈りと願いと平和を願いながら滑るので
どうか皆さんも ちょっとでも かけらでも、幸せを感じてもらえたらいいなと思っております。
どうか皆さん、最後までよろしくお願いします。
< 最後の挨拶 >
萬斎さんのご挨拶「ありがとうございました。素晴らしいショーに私も参加させていただいて、本当に光栄でございました。これだけの人が。
心を一つにして… (ここから大声で叫ぶ)今、生きているっていう実感ありますか? 生きててよかったかー? (ノリよく叫び声で)
今、生きていることをかみしめていただく、そういう素晴らしいショーをね、本当に…(言いかけて中断、萬斎さんのノリに、涙浮かべながらおなか抱えて笑っている羽生結弦に気づいて、そちらに向かって)大丈夫?大丈夫?(笑)
企画していただいた本当にスタッフの方、企画制作の方にも感謝申し上げたいですし、なにより、本当に今日は、素晴らしいスケーターの方たちと一緒に演技できたことも嬉しかったですし、何よりお客様がこう集まってくれたのも本当に素晴らしいことだと思いました。本当にありがとうございました。」
(羽生結弦は萬斎さんの挨拶に、笑い泣きした後で 以下、羽生結弦のご挨拶)
羽生結弦
「ありがとうございました。本当に、こうやって何より、みんな「生きている」って思える幸せが なんかみんなで共有できたので、本当にもう何も言うことはございません。(笑)
僕から何かを言ってしまうと蛇足になりそうなので、早々で切りますか(笑)。
何より今回、ボレロを含め、本当に1人1人のプログラム、そして萬斎さんとのコラボレーション含めて全てが、祈りと再生であったり、創造であったり、何かここの地から、ここが1度壊れてしまったような、止まってしまったような土地だからこそ、より一層ここから、また改めて復活していくような、再生していくような、そんな祈りを込めて滑っていきました。
どうか皆さんにとって、ちょっとでも、今日という日が希望となりますように、そしてまた会える日を楽しみにしていただくことが、また皆さんにとっての希望となるように、願っております。
本当に今日はありがとうございました!」
「みんな健康でー! またー! ありがとうございました!」
(最終日のショー終了後の 特別インタビュー)
Q: 3年目のNotte Stellata どのような思いを込めて滑られましたか?
「まあとにかく、すごく気持ちを引き締めながら、 やっぱり野村萬斎さんとのコラボレーションということもあって、みんなで思いを一つに、希望であったりとか、再生であったりとか、何か復興につながるような想い、そういうものを祈りながら、ずっと滑っていました。」
Q: 羽生さんにとって Notte Stellataはどのような存在ですか?
「やっぱり あの、プロスケーターとして うーん、本当に一生懸命滑ってくれる仲間たちと、スケートに対して、本当に全力を尽くしてくれる仲間たちと一緒に滑ることができる大切なショーです。 またこうやってスペシャルゲストをお迎えして、いわゆるフィギュアスケートっていうものだけじゃなくて、 また、その、一味違った、スケートの見え方であったり、その方々の、ゲストの方々のジャンルのものの違った見え方だったりとか、そういったものを提供できる、すごいなんか、唯一無二の場所だなと思っています。」
Q: 仲間のスケーターの存在は?
「いや本当に心強いです。 やはり僕自身もやっぱり、 3.11に近くなってくると、どうしても、気持ちが悲しくなってきてしまったり、つらくなってしまうことはもちろんあるんですけど 仲間がいるからこそこうやって前を向いて頑張っていられますし 仲間が頑張っているからこそ、そして、その自分の演技も含めて、仲間たちの演技も、楽しみに待ってくださっている皆さんがいるからこそ、どんだけ辛くても どんだけ悲しくなりそうでも、心折れず、前を向いて演技できているな、という気がしています。」
Q: 今回のスペシャルゲストの野村萬斎さんはいかがでしたか
「本当に緊張しっぱなしでした。 たくさんの力をもらえましたし、何より、この会場でこの演目、ボレロとSEIMEIを やっぱり、一緒に造らせていただけたことが、本当に良かったと思いますし、 萬斎さん自身も やはりボレロというものをこの会場、この時期にできたことが 本当に良かったといってくださっていたので なんだろう… 一つのピースとして僕もご一緒できて、本当に幸せでした。」
Q:3.11から14年目ですけれども、この会場で3月に滑ることはいかがですか?
「毎回 特別な思いもあります。 それが重くもあるし、受け止めづらい・・・ 受け止めたくないような過去・現実もあります。 ただ、使命とは思っていないんですけど・・・ 背負うこともまた 前に進むということなのかなと思って、まあ、3回目でしたけれども、大変だなとは思いつつも、でもこうやって最終的にはみんなが…笑顔になって、また前を向こうと思うようなきっかけのできるショーになって、やっぱり僕も、いろんなものを背負いながらではありますけれども、滑っていて良かったなという気持ちになりました。」
Q:最後のグランドフィナーレでも、皆さん笑顔になっている姿が印象的でしたけれども
「あんなに萬斎さんが… 生きているかー?って言ってくださるとは思わなくて(笑)、でも本当になんか、ああやって あのー、多分、ご自身の舞台ではああいうことってないと思うんですけれど、僕たちの舞台上にわざわざ来てくださって、このNotte Stellataというアイスショーだからこそ、出せる声と出せる表現で、皆さんを元気づけてくれて、本当に僕たちも笑顔になれましたし、幸せでした。」
Q:最後に配信を見ている方へ一言お願いします
「たくさん見ていただきありがとうございました。僕自身も、本当に本当に皆さんの応援や、今回は本当に特にですけれど、今回は本当に 緊張しながら見ていらっしゃる方々もいらっしゃったと思います。力を送ってくださっている方々の力もたくさん、あの、感じました。最後の最後まで、なんとか こうやって振り絞って祈ることができたのは、皆さんのおかげだと思っています。
また、こうやって僕がきっかけで、 3.11 そして能登、大船渡もそうですけれども、僕がきっかけで、皆さんの力のおかげで、復興支援ということの一助になれていることを本当に幸せだと思っていますし、 皆さんのご協力が本当にありがたいなと思っております。 いつも感謝しております。ありがとうございます。
これからも、あの、一生懸命、僕もスケートを頑張っていきますし、3.11含め いろんな災害・不幸に対して、力をちょっとでも向けていけるように頑張っていきますので どうか皆さんのご協力もよろしくお願いします。ありがとうございました。 ありがとうございました!ありがとうございました!」
【羽生結弦さんインタビュー】震災から14年「風化させないためのキッカケであり続けたい」 絆、輪、縁… 能登の被災地訪問で気付いた「ずっと続く支援の形」 3・11経験し「命について深く考えるように」 - Deep Edge Plus
こちらの記事より
―震災から14年。今の率直な思いは。
「それほどの時がたったんだなという実感と、でも、いまだにあの頃の光景だとか、あの時感じた感情みたいなものと、怖さっていうのは、いまだに昨日のように思い出せる。両方とも共存している形ですね」 ―30歳となり、人生の半分を震災と向き合ってきた。
「できることはやってきたかなっていう気持ちではいます。それが僕にとっては、競技に対しての向き合い方っていうのももちろんですし、震災に対して、またはいろんなそれ以外の、3・11以外の災害に対しての向き合い方もそうですけど、僕ができることは全てこの14年間ずっとやり続けてきたなっていうことは思っています」 ―かつて、震災と向き合うことは『スケート人生の一つの使命』だというふうに話していた。3・11が羽生結弦さんにとってどんな原点であり、ここまでの原動力になったのか。
「一概にあれが起きたからっていうことを言うのは、ちょっとためらいがある。なかったに越したことは絶対なかったし、やっぱり起きなければ良かったなと思うことではあります。ただ、起きてしまったあの14年前からこうやって進んできた中で、あの経験があったからこそ、僕はより一層命について深く考えることになったし、より一層悲しみにたくさん触れたからこそ、より一層その悲しみに対して寄り添いたいって思えるようになれたのかな、というふうに思っている。簡単に原動力とは言えないんですけど、でも自分自身を変えた出来事ではありました」 ―競技者としてもプロとしても妥協のないものをつくり上げてきた。震災と向き合い続けてきたからこそ、手を抜くことはできないという自分に課しているテーマか。
「そこまで大げさなものではないんですけど、でもやっぱり期待してもらえるからにはその期待に応えたいし、その期待以上のものをやっぱり出したいっていうのは、プロとしてのプライドというか、自分がスケートを滑っていく中での矜持みたいなものというか、当たり前なものという感じはしています」 「ただ、大げさではなく、その公演一つ一つに対して、本当に大げさではなく、生きているうちにその公演が最後になったよっていう方々がきっといらっしゃるはずなので。病気的な問題もあるかもしれないし、突然起こる災害的なものもあるかもしれない、事故もあるかもしれない、金銭的な問題もあるかもしれない、機会の問題もあるかもしれない。本当にいろんな要素が詰まってはいるんですけど、この言葉には。でも生で見た羽生結弦が、生で見たこの演技が最後になるっていう方々がいるのだとしたら、やっぱりそこに自分の最大限のものを詰め込まないと、やっぱりそれは誠実とは言えないのかなって僕は思っています」
復興支援のあり方を模索し続ける 「僕を応援してくださる方々の協力が一番」
―単独ツアーや9日までのアイスショー「notte stellata」では、生きていく尊さという言葉を観客に投げかけた。これはスケート人生としての使命っていう部分で、こだわり続けたいテーマでしょうか。
「まあ、というよりも何かこだわっているというか、何か根源的にそういう人間だから、そういうテーマの表現になってしまうっていう方が強いんですかね。じゃあ、14年前以前はどうでしたかって言われたら、もちろん命についてすごく考えてはいましたけど、ここまで、何て言えばいいかな、誕生と死について、そこまで深く考えてないというか、そんなに考える必要がなかった感じはしていて」 「やっぱり震災っていう出来事があったからこそ、そこからどんどん表現面に関しても、自分がスケートを滑る意義みたいなことに関しても、やっぱり支援だとか、そういったことにどんどん結びついていったので、何て言えばいいかな、こだわりを持っているという言葉ではなく、何が適切かちょっとぱっと思い浮かばなかったんですけど、根源的にやっぱり。うん、そうね。やっぱ根源的に自分がそういう思考を持っている人間なので、命に対して考え続けたいなって思い続けるし、やっぱり震災があったからこそ、こういう考えになって、こういう人間になったんだなということは思っています」 ―以前から支援のあり方を模索し続けたいと語っている。いま羽生さんが思う支援との向き合い方についての考えを教えてほしい。
「(7~9日に宮城県で開催した)今回の『notte stellata』は、演技でもちろん何かを伝えたいということとともに、輪島の朝市で商売をやってこられた方が、実際に会場で朝市みたいな形で出店してくださったりだとか、そういったものを、自分のことを見に来てくれた方々、アイスショーを見に来てくれた方々が購入してくださったりとかっていう輪が一つあったんですね。それがきっと僕ができる最大限の支援なんじゃないかな、っていうことを何となく思いました」 「やっぱり僕1人で何か基金をつくったりとか、寄付を募ったりとか、何かのイベントを立ち上げて、そのお金で寄付をするとかって、やっぱり一時的なものにしかならないし、一時的なニュースになったとしても、どうしても、何だろう、人間って、その額が大きければ大きいほど、私にはできないって思う確率もやっぱり高くて、『やってくれてるからいっか』っていう感じにもならざるを得ないんだな、っていうことを何となく思っていた。僕はこれからも寄付の活動ももちろんしていくし、そういう支援っていうものはもちろんしてはいくんですけど、それプラス、僕を応援してくださっている方々が協力してくれるということが一番、これからずっと続いて、支援していける形なのかなっていうことに気がつけました」 「それはやっぱり、僕がずっと常日頃から言ってきた、きっかけになりたいって言っていたこととつながってはいるんですけど、僕自身がこうやって震災に向き合ったり、震災に対して思いをはせる、またはその支援活動の一環としてのイベントをするっていうことがきっかけとなって仙台に来られたりとか。それこそ、今回、輪島の方々の商品を買ってくださったりとか、それで応援できるという形が一番、支援の輪が広がっていくっていう形になるんだなっていうふうには思いました」 ―それは今年新たに感じたことか。
「輪島の朝市の方にお話を聞いた時に『買っていただけたのがうれしかった』っていうのと、これだけの方々が商品に期待をかけてくださっていたし『応援の力をもらえた』みたいなことをおっしゃってくださって、僕は正直きっかけでしかなかったんですけど、それはやっぱり皆さんが集まるきっかけにしかなってはないとは思うんですけど、でもそれができたことは、こういうことが一番ずっと続く形での支援なんだなって思ったのと同時に、どれだけの方々に私は感謝を尽くせばいいんだろうっていうことにも、何か改めて気付いた出来事でした」
輪島に行ったのは昨年6月 「人と人との交流って力になる」
―羽生さん自身、書籍の印税など多額の寄付をしてこられた。 「でも、何かどうしても、印税もそうですけど、その寄付って形って、その時はトンって渡す行為ができるかもしれないけれども、何だろう、その思いがずっと続いていくという形にはなりにくいんだなと思っている。だからこそ、今回みたいに、自分がきっかけとなっていろんなことにその視野を広げていただいて、僕がきっかけで協力していただけるっていうことがすごくありがたいなと思ったのと同時に、頑張って呼びかけていけたらいいなっていうふうに思った出来事でしたね」 ―羽生さん個人だけの頑張りではなく、輪を広げるっていうところに支援の形が見つかった。 「一つの形なのかなっていうふうには思いましたね。でもそれはやっぱり来てくださった方々が実際に協力してくださらなければ意味がないし、本当にたくさんの方々が来てくださるからこそ、やっぱりこうやってキッカケになり切れているわけなので、まずはその方々に対しての感謝の気持ちが本当に強く強くあります。それプラス、そういう方々がより一層これからも、『羽生結弦のアイスショーを見に行こうか』ってなってもらえるような、ちゃんとキッカケとして機能するように、期待に応え続けたいなとは思います」 ―石川県輪島市に行かれたのはいつですか。「昨年の6月です」 ―出店されたのは、その時にお会いされた方々。 「そうですね、交流があった方々ですけど、他のニュースとかでも、やっぱりその朝市が機能しなくなって、実際に出張朝市みたいな形で他の店舗の中でやったりとかもしているんだけれども、お話を聞くと『やっぱりあそこでやりたいよね』っていう話があったりとかもして。でも、そこで交流の輪が増えることによって、やっぱり僕ら3・11の時もそうでしたけど、やっぱり人と人との交流って本当に力になるので、つらい時に。やっぱり、そういうのがちょっとでも力になってくれたらうれしいな、とも思います。ご足労いただくのは本当に大変なことだとは思うんですけど、ちょっとでもこういう活動が続いていくようなキッカケになっていったらうれしいな、とも思いますね」
知名度生かし「震災を風化させない」 「つらいこと残っているので、ずっと発信していきたい」
―印象的だったのが、能登復興のアイスショーをされた時に、いい意味でご自身の高い知名度を生かしていくとおっしゃっていた。震災や災害からの復興という点で、一つの広告塔として、いろんなものに向き合っていきたい。 「そうですね。僕って本当に特殊な人間だと思うんですよ。実際に被災地で活動している最中に、ある程度報道がなされていた選手であって。やっぱり見てくださっていた方、応援してくださっていた方々の中にも、やっぱり被災者、被災地から頑張っていった姿を見てくださっている方々がたくさんいて。本当、それってすごく特殊なことだなって思っています。それで現在進行形で、これだけの多くの方々が応援してくださるっていうことも、やっぱり、すごくすごく特殊なことだと思っていて。だから、せっかくこんなにもマンパワーが集まる人間だからこそ、より一層、その人間同士の力を、一人一人の力をすごく大切にして、数じゃなくて、一人一人の持つ力に対して、すごく尊敬をしながら、大切にしながら、支援活動ということのきっかけになり続けたいなっていうか、風化させないためのきっかけであり続けたいなっていうふうに思います」 ―以前、『頑張って』という言葉に誰よりも励まされた人間だと話していた。逆に自身がこれからも応援し続けたいと昨年言っていた。その思いは変わらず持ち続けていきたい。 「そうですね、やっぱり3・11から14年っていう時がたってはいますけど、やっぱりいまだに家に帰れてない方もいたり、当時からそのままになっている家があったり、土地があったりもするし、いまだに解決できてない問題も、原発だけじゃなくて、他の地域でさえもやっぱりたくさんあって。傷痕はまだまだ地域によってかもしれないですけど、土地にも傷痕はもちろんあるし、心の中にも傷痕は間違いなくあるので、そこにずっと寄り添いたいなっていう気持ちで、とりあえず今はいますね」 「難しいんですけど、正直それを思い出したくないっていう方もいらっしゃるし、もう全然大丈夫だよって言ってくださる方もいらっしゃる。3・11だけにやっぱりこだわってたら、他の地域の災害だっていまだにね、群発しているところも結構あるし、大船渡の山火事だってこの間鎮火されたばかりだったので、何か一言で表現しにくい状況ではあるんですけど、でも、3・11に関しては、まだまだつらいことが残ってはいるので、そこは僕がずっと発信していきたいことだし、ずっと心に留めていただきたい事柄だなっていうふうに思います」 ―「notte stellata」に3・11のご自身の思いは全てぶつけてるというふうに昨年話していた。来年、そしてその次というふうにまた続けていきたいか。
「ちょっと断言ができないんで、それはもう主催が僕じゃないので難しいんですけど、でも、ちょっと違う言い方をするけど、とにかくその3・11に対しての思いと、支援活動に対しては、ずっと芯を強く持って、ずっとずっと継続していきたいなっていう気持ちは強くあります」
ソチ五輪後、最初の被災地訪問 「寄り添い合うこと続くのが大事」
―羽生さんが被災地訪問という形で最初に行かれたのが、初めて金メダルを取られた2014年ソチ冬季五輪後。 「はい」 ―宮城県石巻市に行かれた。当時は行くことにためらいがあった。そこから変わったものはあるか。
「変わっていないものは、やっぱり部外者がそこに足を踏み入れて邪魔しちゃっていいのかなっていう気持ちは正直、いまだに変わってないところで、実際つらい現場に対して、つらくない人間が入ったところで、『おまえ、気持ち寄り添えてないだろ』って指さされたら、それ以上何も言えないなっていうことは、あの頃からずっと変わっていないです。それはもしかしたらソチオリンピックの会見の時からも全然変わっていない気持ちなのかもしれない。けれども、あの頃から変わったことは胸張って、自分が取ってきた結果、オリンピックの金メダルという二つのものと、これまでずっと演じてきたプログラムだったり、いろんな活動であったり、それらがその方々の笑顔になるキッカケにはなっているんだよっていうことは、胸を張って言えるようにはなったかなと思いますね」 ―被災地を訪れることで、出てくる思いとは。
「難しいんですよね、結局。それこそ、さっきの支援の輪が広がってほしいという話にちょっと近いかもしれないですけど、人一人がたとえ、がれきを動かすことをしたとしても、やっぱりそこには限度がすごくあるんですよね。でも、僕が3・11の時に本当に感じたのは、どれだけの人がいろんな絆を結んでくださって、その絆でどれだけ復興への道が早くなったかっていうことを、僕はすごく感じたんですよね、あの時。その絆が、元々は(1995年1月17日の)阪神淡路大震災の時に、宮城県からボランティアに行ってくれた人がいたから、その時の恩返しだよって言って、関西の方から来てくださった方々もいらっしゃったり、いろんな国から来てくださる方々もたくさんいらっしゃったし、そういう支援がなされたから、私が今度は恩返しする番だよっていうことを、どんどん、どんどんつながっていって、輪になっていって、絆になって継承されていくっていう姿を僕は見ていた」 「実際、今現在の能登の話も、やっぱり僕らがお世話になったから、やっぱりボランティアに行きたいって言って、行ってくださっているボランティアの方々もたくさんいらっしゃったし、そういう人一人じゃなくて、一人一人のつながりをすごく大切にして、全部回っていったら、きっといい世の中になるんだろうなって漠然と思ってはいますね。それは被災地だけの話じゃなくて、いろんなことも多分そうだと思ってて、会社もそうだし、人間関係も多分そうだし、世界情勢の話もきっとそうだと思うんですけど、一人一人の心と一人一人のつながりと、それは家族だけじゃなくて、いろんな縁をすごく大事にして、大切に寄り添い合えば、すごくいい世の中になるんだろうなっていうのは思いますけどね。だからこそ最終的に一番大事なのは、人と人がつながって、ちゃんと心を寄り添わせるようなことができることがやっぱり最終的には大事で、それが続くことがすごく大事なんだろうなっていう感じはしますね」
冬季五輪1年前は「戦略立てていた」 「プロになったら、当たり前の世界」
―話は変わりますが、プロ3年目を走り抜けてきての進化を感じられたことはありますか。
「毎公演、毎公演、いろんなことを学び、いろんなことに課題が出てきて、成長も実感し、みたいなことを毎日のように繰り返してきてたんで、何かこれがこうだよって簡単に言えることはもちろんないんですけど、ただ、今回は野村萬斎さんっていう大きな存在とやっぱりコラボレーションさせていただけたことによって、ちょっとはその表現の世界っていうか、いわゆる何て言うんだろう、プロとして何かを伝える立場に土俵にちょっとでも上がることができ始めたんだなっていう実感はちょっとできました」 ―既に土俵に立って横綱感はあるが、ご自身の中で土俵に立ったっていう、まだまだもっと極めていける部分があると。
「いや、やっぱり実際にその野村萬斎という存在の圧というか、格を、その自分がたぶん一番目の前で見てるので、その目の前で見た実感としては、うん、まだ若いなって思いました。まだまだ青いんだなっていうのは、すごく思いましたね。もちろん、『SEIMEI』に関しては、その青さがあったからこそ、何かこういう表現ができたよねっていうところもきっとあるとは思うんですけど、でも、もっともっと、学ばなきゃいけないことと、進化しなきゃいけないことと、知らなきゃいけないことがたくさんあるんだなっていうのは、何か思いました」 ―空気を支配するって言いますか。
「いや、だって、萬斎さんはもうそこに存在しているだけで、立っているだけで、何だろう、その世界っていうか、空間が広がっていく感じがやっぱりするんで。そこまで行けるかと言われたら、フィギュアスケーターはそういうものではないのかもしれないんですけど、でも、その表現っていう世界においてそういうものがあって。それをするためにはどういうことが必要なのかなっていうことを、僕は吸収して、どんどん学んでいって、自分のものにしていかなきゃいけないなっていうのはすごく思います」
―最後に一つ。ミラノ・コルティナ五輪まで1年を切った。羽生さん自身、ソチ、平昌、北京と3度、それぞれ違う立場での1年前を過ごしていた。今振り返られて、五輪1年前の重要性とは。
「オリンピック1年前か。ひたすら戦略を立てていました。どういうふうにオリンピックのためにピークを持っていくのか、どういうふうにオリンピックのために考えを深めていくか、技術を高めるスケジューリングをするか、みたいなことをずっと考えはしましたね。でもそれは、今僕はオリンピックというものから離れて感じるのは、それを毎年というか毎週のスパンでやっていて、今現在は、プロになったらもうそれは当たり前な世界であって、それが萬斎さんと、やっと同じ土俵に立てたかなぐらいのところに立ったっていうのがその感じで、いわゆる今までは4年スパンでそれは何となくやっていれば良かったけど、今は本当に毎公演ずつやらなきゃいけないし、言ってみたら毎週育たなきゃいけないしっていうことを今振り返ると思いますね」
こちらもいい記事を2つ 中西記者が書いてくださいました ↓ 独自取材とインタビュー
羽生結弦「今、生きている僕たちは…」 つながっている3・11東日本大震災の被災者たちの思い | 東スポWEB
羽生結弦「頑張れ」の持つ力を知っているから言い続けたい…東日本大震災から14年 | 東スポWEB
(羽生結弦のインタビューです)
こちらは報知の独占インタビュー ↓
羽生結弦さん 受け入れ、背負うこと 東日本大震災から14年 単独インタビュー前編 - スポーツ報知
(こちらのスポーツ報知より)
「福島の方々も含め、いまだに傷痕が残っている地域というか、いまだに苦しんでいる方々、悲しい思いをされている方がいるということは、忘れないようにしたいと思っています。自分自身が被災者であるとは思うんですけど、それよりも、いまだに14年がたっても家に帰れないとか、家をどうしたらいいか分からないと言っている方々がいることは、やはり胸にとどめておきたいと思っています」
「一概にこうだったって言えるほど、そんなに順風満帆なものではないんですけど。でも一つずつ、14年間、ちょっとずつ、ちょっとずつ、受け入れるということを、ずっとしているような気はします。受け入れることと背負うということを、ずっとし続けている感じはします」
昨年9月には「能登半島復興支援チャリティー演技会」に出演し、収益金4387万8649円を全額寄付した。支援活動の根幹にあるものは何か。
「やはり僕が、いろんな方に応援してもらえたからだと思います」
12年3月の世界選手権(ニース)は初出場で銅メダルを獲得した。
「2011―12年シーズンの時に、葛藤はいろいろあったはあったんですけど、そのシーズンの最後の世界選手権で、どれほど応援の力というものが僕にかかっていたのかっていうことに改めて気づけて。その時から、僕はこんなに応援されているんだ、って思えたことが、逆に僕が応援したいんだって思えるきっかけになったんだと思うんですよね。被災地の人間として、こんなにも応援してもらえているからこそ、僕は被災地のこともより近場で感じられていたからこそ、より一層、僕自身が応援する立場になりたいなって思えていることが根幹だと思います」
東北の他に石川、熊本、北海道の被災地へも足を運んでいる。
「東日本大震災の時に、ボランティアで石川から来てくださった方々に対しての恩返しで、能登にボランティアに行ってくださっている方もいらっしゃいます。それと同じような気持ちもあります。やっぱり、たくさんの方々が3・11に対して、いろんな思いを抱いてくださって、応援をしてくださったからこそ、他の地域でいろんな災害が起きた時に、応援したいっていう気持ち、恩返しがしたいっていう気持ちは強いです」
「僕の演技の中に、それが含まれていないものって、もうないんだなっていうことは思っています。どんなプログラムをするにしても、(アイスストーリー『Echoes of Life』で演じた)“Utai”みたいなものだったとしても、常に何かしらの、魂への対話じゃないけど、祈りと、魂に寄り添うこと、何かの悲しみに寄り添うことは、ずっとしています」
羽生結弦さん 仲間のスケーターに感謝 ショーでの「魂」の表現 単独インタビュー後編 - スポーツ報知
(こちらのスポーツ報知から羽生結弦の言葉中心に抜粋 上の記事では編集後記で高木記者がいろいろ書いてくださっています! ぜひご覧ください。)
「背負い方でいうと、1年目は重さで背負っていたというか。寄り添うとはどういうことかということにおいて、悲しみに近い寄り添い方をしました。でも2年目は、悲しみに寄り添えているからこそ逆に、自分が笑っていなきゃいけないよね、って思って頑張りました」
今年はスペシャルゲストに狂言師・野村萬斎(58)を迎えた。コラボ演目の一つが「ボレロ」。狂言とラヴェルの舞踏音楽を融合させた「MANSAIボレロ」は震災が起きた11年が初演で、「鎮魂」と「再生」が込められている。
「(今年の)3年目はもう、ほとんど神事だったので。魂の方に寄り添うということと、祈りというものに対しては、かなり強くなりました。背負い方と向き合い方と受け入れ方が、変化していると思います」
「萬斎さんがいたからそこまで締まったっていうのは、もちろんあるとは思うんですよ。仲間たちが『やんなきゃね』って思ったというのもあると思うんです。萬斎さんという存在が会場でのリハーサルで(演目を)通したときに、僕らは初めて『MANSAIボレロ』というものを一番近い場所で見て。祈りというか、滑る時の覚悟みたいなものが、一段階上がったような気はしました」
ショーは9日に千秋楽を終えた。同じ熱量を注いでくれた、仲間の存在に感謝した。
「僕は、スケートとか、表現とか、このような震災のことに関しては特に、すごく力を入れています。魂から滑り切りたいっていう思いが強くあります。それを今回のメンバーが一緒にやってくれたことが、すごくうれしかったんです。魂ごと、全精力を注いで、ものをつくってくれる、何かを表現してくれる、パフォーマンスをしてくれる。それを今回みんながしてくれたことが本当にうれしかったし、より一体感が生まれて良かったなって、思っているところです」