馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
そして滋賀県情報&つぶやき
β《#^ひ^♯》でヒヒーン

和泉国、土丸城

2019-03-20 16:22:17 | 城跡

九条政基公、慈眼院付近に宿泊した。
肥沃な日根野荘園を見て大いに満足するが、この付近は開けすぎてる。
何よりも和泉国守護細川氏の拠点の佐野地区に近い。
いつ寝込みを襲われるかもしれぬ。
屋敷の防衛上ちょっと心もとないため、


九条公は翌日さらに奥の大木地区へ移動し、居館を定めて本拠としました。

その大木地区へ向かう手前にあるのが、
土丸城、雨山城。



城跡も国史跡の日根野荘園遺跡に追加指定されました。
天気悪いので、躊躇したが
思いきって登ることにした。

2019年3月17日(日)
13時53分
阪和道の高架下。



すぐ横に左へ向かう道がある


しばらく進むと
14時03分、



土丸城への登山口




登山道が整備されてるが急斜面の連続で大変。

九条政基公が本拠とした大木地区を眺める



谷あいに、いい景観が残されてるらしいが、
残念ながら城に登ったために結局、
行くことはできなかった。
残念無念…


大阪湾方向を見る
溜め池群、



向こうに関空、

さらにその向かうは淡路島かな?

急に天気が晴れてきたのは良かったが、暑いのなんの!
大汗かいた。

平な場所に出ました。



いよいよ城内のようです。

14時29分、



神社がある。



『土丸城跡』です。



看板の説明書によると、
「天平元年(729)年、地元の豪族日根野氏によって築かれた。
同三年高師泰が…」
あれ?おかしいぞ!
高師泰は、南北朝時代の武将。
時代が合わない。

ネットで調べると、
正平二年(1347年)、北朝方の日根野盛治が築いて籠もったが、南朝方の雨山城と対峙した。
とある。
でたらめな看板や!

なお、日根野氏は守護側だったために九条政基公と対立した。
日根野氏は土丸城で大木地区を監視し、土丸地区には盛んに横領を繰り返したとか?

しかし、九条公は村人との強い連帯で、守護勢力や根来寺を排除し四年間、現地で荘園経営を守ったのでした。



主郭の背後に空堀と土塁があるが、



倒木が邪魔してます。

次に雨山城へ向かう

この先端から尾根道を降りる

一旦下りになるが、



また上りになる。



向こうに山が見える

登山道整備されてるが、険しい所もあるので注意必要。

そして、
14時47分、
看板あり。

雨山城への入口だ。


続く…


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日根野駅~十二谷池~日根神社

2019-03-19 14:36:21 | 旅行

文亀元年(1501)年、3月28日(快晴)、
前関白九条政基(57歳)は和泉国日根荘へ向かいました。
政争に敗れて都落ち?
隠居の物見遊山?
というわけではない。

日根野は九条家の重要な荘園でした。
しかし、応仁の乱後の混乱で、守護や根来寺などによって荘園が浸食され、年貢がまともに上納されなくなった。
公家の名門ともいうべき九条家の財政事情が,厳しくなり借金だらけ。

やむにやまれず、なんとか改善しなければ、という思いでついに政基は

老体に鞭打って現地に乗り込むことにしたのです。

2019年3月17日(日)
日根野駅から十二谷池に行きました。


荘園の農地を潤す溜め池です。


現在、すぐ横に上下水道局があります。


今も日根野地区の水源の役割を果たしてるのですね。
このような溜め池が周辺にたくさんある。
どの溜め池も堤を盛り上げてるので
まるで山登りみたい。


八重治池、

尼津池などの荘園遺跡を巡った。
風雨が強くて帽子も傘も飛ばされそうで大変でしたよ。

なお、ズボンは前日ずり落ちたので、本日はベルトを付けてしっかり締め付けました😜

そして、昼過ぎに
日根神社に到着。

京都からはるばるやって来た関白九条政基公もこの付近に到着。
一泊したそうです。

我が輩は隣の公園で昼のパン食べた。
花見の頃に来るといいかも?

食後、隣の『慈眼院』へ。

拝観は要予約。拝観料も必要。
なので、本堂だけ撮影して帰ろうとしたが、
駐車場の裏へ回ると、門が開いていて、内緒で中に入りました。

すると、ありました!
ありましたよ!

金堂は国重文。

多宝塔は、石山寺、高野山金剛三昧院の塔と並ぶ日本三名塔の一つで、
鎌倉時代に建立された。
国宝です。

じっくり堪能したいが、内緒なので不法侵入で怒られそうで、撮影だけして退散。

良い子は絶対に真似しないでね。


『天満宮』


本殿は、国重文。


小さい祠なのですが、貴重なものらしい。

これらの溜め池や寺社は、
日根野荘遺跡として国史跡に指定されました。


さらに、奥へ向かいます。


続く…


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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日根野へ行く、の巻

2019-03-17 22:09:05 | 旅行

天気悪いが、青春18きっぷを消化しないと赤字になる。
なので、出かけることにした。
さすがにこの時期は電車満員、いきなり座れない。
通路に立ってると、
10代と思われる3人組の女の子の一人が、席を譲ってくれた。
一旦お断りしたが、是非にというので
お言葉に甘えて席譲ってもらった。

で、このグループ、この後
2つの席を3人で数駅ごとに交替交替で座ってました。

なるほど、考えましたね。
えらい!
これなら自分達も楽だし、親切心も得られる。
素晴らしい!

日本の未来は明るいぞ!

結局、この3人組は京都駅で降りた。
清水寺にバスで行くと言ってたので京都観光ですな。
切符をのぞきみると、青春18きっぷ。
我が輩と同じく2回目。
三時間かかったと言ってるので、
福井石川、あるいは岐阜愛知、静岡方面から来たようですな。

それにしても、他にも通路に立ってる人がいるのに我が輩が選ばれたということは、

10代の若者にしてみれば、
我が輩は死にかけの年寄りに見えたのだろうな。

トホホや…

10時50分
日根野駅到着!

て、どこや?

知らない人多いだろうな。
大阪府、泉南地区の泉佐野市の駅。

大阪駅から向かうと、
関空行きと和歌山市行きの分岐駅。
車両が日根野駅で分離する。

前の方の車両は関空行き、後ろの方の車両は和歌山駅行き。

何も知らなくて後ろの車両に乗った外人観光客は関空に行きたいのに、和歌山駅に到着したので、びっくりポン!

飛行機に間に合わない
と、嘆くことになる。

極めて難関な駅として有名になりました。

よく見ると、車内は大きなスーツケース持った外人さんばっかりですわ。

我が輩は、ここで下車。

乗り換え駅で下車するなんて、極めて稀、
変人か?

いやいや、日根野は歴史的な景観が残ってる地区なんです。


続く…


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中山道、ケイオンの聖地を歩いた、の巻

2019-03-16 22:11:50 | 日記
今日は天気悪く、夜に用事があるため遠くに行けない。
なので、近場で後回しになってる中山道を歩くことにした。

スタート駅は、近江鉄道豊郷駅。

豊郷町は県内で一番小さい自治体で、近江商人の町。
伊藤忠兵衛さんの故郷。
屋敷


伊藤忠・丸紅など、総合商社で有名ですな。

丸紅の古川氏が私財を投じて設立したのが旧豊郷小学校。

メレルヴォーリズ建築の校舎は国登録有形文化財に指定されてる。

何よりも、今やケイオンの聖地として有名で、見学者が耐えない。
車のナンバー見たら習志野とか遠い所から来てる。

昔、町長が校舎を壊すと言って物議をかもしたが、壊さなくて良かった。

校舎内には観光案内所があり、
土産物を買う人も多い。
町にとって大事な観光資源となりました。


結局、ここに一時間ほど滞在。

時間的にヤバくなってきたので先を急ぐ。

が、城跡を3つ4つ訪ね、神社にも立ち寄ったため、
目的地の高宮駅に着いたのは16時40分過ぎ、電車一時間待ちとなってしまった。

ともかくこれで、中山道歩きは、
草津宿から米原市の醒井宿まで繋がりました。

関ヶ原まで、あと一息です。


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

歩いていて、何度もズボンがずり落ちそうになった。

体重が落ちてるというのはわかってたが、ちょっとヤバくなってきた。

普通に食事をしていて体重が減ったら、糖尿病や癌を疑え!
と言われる。

うーん…😓



馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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『きくちくん』ゆるキャラ

2019-03-15 21:53:59 | ゆるキャラ

"2018ご当地キャラ博IN彦根。
10月20日
『きくちくん』熊本県

まずは後ろ姿、



隣は、浜松市の「うなも」

きくちくんは、菊池市の非公認キャラ。
永遠の39歳独身のごちゃごちゃ系男子。
ゆるキャラで性別があるキャラは珍しい。
で、何がごちゃごちゃ
かというと、

1、頭→メロン。
2、目→菊池一族の家紋
3、鼻→菊池米
4、口→桜の花びら
5、腕→水田ゴボウ
6、足→酪農
7、尻尾→ほたる
8、顔→菊池渓谷
9、眉毛→温泉

以上、菊池の名文を全部集めたパーフェクトボディの体型なのです。

て、説明しなきゃわからん!
というか、同じ熊本県のくまモンのシンプルボディとえらい違いや!

菊池市に行ったらこの9つの名物名産を堪能すべし、かな?

菊池市は熊本市の北に位置する。
家紋で象徴されるように、菊池郡を基盤とした名族菊池氏。
本来は、鞠智氏で藤原氏系。
南北朝時代は、九州の南朝方として大勢力となった。
その後、戦後時代に内部分裂し消滅。
しかし、菊池姓の一族は各地に浸透し、あの西郷隆盛も菊池氏の家系だとか?

市内には、この菊池氏ゆかりの城跡がいくつも残ってる。
特に古代山城の鞠智城跡は、続百名城に指定されてる。
これは絶対に行かねばならない!

しかし、しかしだ!
交通アクセスが悪い。
悪すぎる。
市内に鉄道が無い。
熊本市から路線バスで行くしかない。
バスで一時間、さらに徒歩一時間だとか?
難度高すぎ!

おいそれと行けへんわ。

きくちくん、熊本駅から城跡までのシャトルバス、出してくれ!

くまモンの売上、1500億円越えたそうじゃないですか?
その一部でいいから、菊池市に投入してくれませんか?

ついでに悪化する我がひこにゃんの財政も援助してほしいにゃん、
くまモン様ぁ~

て、ダメやね

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

実は、年賀状、うなもに出しました。


3月になり、すっかり忘れてたら、



先日、ようやく返事のハガキが来ましたよ!




て、今頃かい!


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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テレマルク

2019-03-14 18:02:21 | 歴史地理

スキーのジャンプで着地する時の姿勢で、『テレマーク』がある。

Tの形だから、Tマークのことか?

それとも、照れマークのことか?

などと、想像してたが、

先日の某新聞記事によると
ノルウェーのテレマルク地方が由来と言ってる

早速、地図で確認!

ノルウェーの首都オスロの南西部付近にテレマルク県がある。
この地方のスキーの滑り方が由来なんだとか?

テレマルクの地名由来は、
ウイクペによると、

現在の地名の命名の由来は Þelamörk であり、

前半は þelir で、これは古ドイツにいたと考えられる民族の名前であり、

後半の mörk は森林地帯や、国境地帯を現す。

Φ《#^ひ^♯》Φ

横文字に弱い我が輩、
ペラモルクとしか、読めないのですが…

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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シンポジウム 信長の城

2019-03-13 21:54:22 | 城跡

"滋賀県主催連続講座、本年度最後の城郭シンポジウム。

2019年3月10日(日)
前日に引き続き、安土に来ました。
本日はあいにくの雨降り☔️
でも、まる一日館内に座ってるだけなので、問題無し。

受付は点呼無し。
予約したのに、結果的に自由参加扱い。
どうやら、募集定員の300名に届かなかったようです。
確かに会場に入ると空席がいくつもありました。
天気悪かったからか?



午前中は中井教授の基調講演、
午後は、信長ゆかりの小牧山城・岐阜城・安土城、それぞれ発掘担当者の報告。
最後にパネルディスカッション。

という内容。

ちょこっと紹介。

まずは、基調講演
【信長の城】中井均滋賀県立大学教授

織豊系城郭の特徴は、
高石垣・金箔瓦・礎石建物(天守)。

『小牧山城』
石垣◯、瓦Ⅹ、天守▲
瓦は全く発見されてない。
天守たぶん無かっただろう。
最近の調査で山頂付近に玉石敷遺構が検出された。




山頂に信長あるいは家族の住居があった可能性あり。
安土城よりも先に山頂部が総石垣の城だった。
ただし、石垣の高さは低い。
*間々観音

『岐阜城』
石垣◯、瓦◯、天守△
天守はあったかも?
3つの城の中で唯一、信長以前からあった城(斎藤道三時代の城)
*伊奈波神社

『安土城』
石垣◯、瓦◯、天守◯
小牧山城→岐阜城→安土城で完成形。
天守に信長自身が住んだ。
*総見寺

3つの城に共通するのは、
山頂に詰城、麓に居館があった。

信長は権威を示すために決して山を下りなかった。
家臣には平地に城を建てさせた。

権威を見せる城として、信仰としての寺社を城に利用した。

………………午後の報告………………

【小牧山城】小野友記子、小牧市教委 小牧山課

紅一点の小野さん、久しぶりに拝見💓
シックな黒の服装でナイス。
ちょっと太ったかな?

石垣:チャートの自然石使用。
加工の痕跡無し。
信長以前の尾張で、石垣を使った城は無い。
小牧長久手合戦で家康の陣城になり、虎口や堀、土塁の一部が改変されてるが、基本的に現状のほとんどが信長時代の遺構。


途中で、動画による紹介があった。
やっぱりムービーはインパクトありますな。


【岐阜城】高橋方紀、岐阜市教委教育課
石垣:チャート。
一部に斎藤氏時代の石垣あり。
金箔瓦が発見されたが、信長ではなくて信忠かも?
山麓の居館部は巨石群とたくさんの庭園が配置されてる。



谷部の奥に高層建築あり。



山頂周辺にたくさんの砦群があり、
次々に石垣が見つかってる。


【安土城】滋賀県教委、仲川靖
石垣:ほとんど湖東流紋岩。
瓦は山頂の主郭部のみ。
『伝羽柴秀吉邸跡』には庭園遺構と主屋が2回以上の増改築あり。

中井氏説は、信長時代は麓の居館がここだった。




仲川氏説は、後に秀吉が三法師(織田秀信)を迎え入れるために改築したかも?。
Φ(*^ひ^*)Φ
お二方の説を合算すると、
伝羽柴邸跡は、本来信長の麓居館で、その後、秀吉が改築した。
だから、後世にここを秀吉邸と勘違いして伝わってしまった。
ということかな?

伝大手道は、発掘調査の結果、信長時代より後の遺構の可能性あり。



大手口は正親町天皇行幸用に4つの門があるが、すべて形状が異なる。
ホントに行幸用だったのか?

現在の入口の駐車場には内堀があった。
内堀を復元させたい。

以上、おおざっぱに紹介しました。私見も混ぜてるので、鵜呑みにして他所へ吹聴しないようにお願いします。


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
最後に、皆勤賞の表彰式がありました。
延べ700名の参加者のなかで該当者はわずかに7名。
一人一人名前呼ばれて拍手浴びてました。

我が輩は、所用があって1回目をパスしたが、2回目以降皆勤したのに…

うーん残念無念。

実は、何年か前に完璧に皆勤賞だったことあるが、その時は、表彰式が省略された。

なんでやねん!


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伝安土城… 探訪講座 後編

2019-03-12 21:55:16 | 城跡

滋賀県主催連続講座、本年度最後の城郭探訪。



天主台石垣の上から琵琶湖を見る。

天気が良すぎて霞みのため見にくいが普通ならここから北の竹生島、
南の大津などすべて見渡せる。
当然ながら、家臣の城の長浜城・大溝城・坂本城も視野に入る。
琵琶湖に突き出た岬に築かれた安土城の重要さがわかりますな。

総見寺跡へ移動。



ここで、昼食休憩した。

某知事さん、
『今、何時?』
と美人秘書に聞いてる。

時計もってないんかい!
スマホを見ろよ!
昼食は高級レストランで食べるのかな?

我が輩もあんな身分になってみたいものです。

秘書さん、前回の坂本城と違って今回は山登りなのでズボンでした…

で、知事さんは先に下山されました。

三重塔及び二王門、どちらも甲賀郡から移築した。
信長時代以前の建物で貴重。
国重文に指定されてます。

お城の中に寺を建立し、それが現存してるのは極めて稀なのでは?

仁王門を下るとそのまま城下町の百々橋へ出られるが、現在は通行不可。
昔、無料だった頃は自由に入れたが、今は有料なのでわざわざ料金所まで迂回しなければならない。

そして、仁王門の下、百々橋まで来た。



信長は拝観料をとって総見寺を参拝させたそうです。
総石垣お城の先駆者とも言える信長ですが、寺の拝観料をとったことも歴史上の先駆けとも言えますな。

中井教授は、こちらが大手道だった、という見解。
ならば、仁王門は、大手門ということかな?


本来は仁王門から↓ここまで真っ直ぐ石段を降りられた。

↑これは数年前に探訪したときの画像


総見寺は、安土城の重要な防備の要としての役割りがあったのだろうね。

ちなみに、北側に七曲り道があった。
こちらは家臣や下級武士や町人などの道だったのでは?
と、我が輩は思ってます。

この後、城下町散策。

常楽寺港は、安土城築城の重要なキーになったとも言える。



木村氏城跡は、現在畑。

そして、最後は

『浄厳院』



安土城城下町の一番端っこにある。


本堂は国重文。


こちらも別の寺から移された。



明智光秀の丹波攻略で
丹波八上城の波多野兄弟が信長に殺された場所。

来年の大河ドラマで必ず登場すると思うのですが…



梅が満開でした


Φ(*^ひ^*)Φ
今回、わざとタイトルに
安土城じゃなくて、
『伝安土城』と書きました。

他意はありません。

いや、あります…😁



以上、探訪報告おしまい。

翌日は、この連続講座の総仕上げの
シンポジウムがありました。
2日連続の安土行きとなりました




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伝安土城… 探訪講座 中編

2019-03-11 22:03:06 | 城跡

滋賀県主催連続講座、本年度最後の城郭探訪。

枡形の黒金門から山頂城郭になる。



次々に高石垣が出現する。



信長時代の石垣もあるが、現代になって復元されたものもある。



足元の石段も同じく。
だから、どれが本来の石垣か、素人には見分けがつかない。
看板などで表示してくれるとありがたいのだが…



二の丸には現在、信長廟がある。



以前、登った時はこの横に百名城スタンプが置いてました。



ここで押しましたよ。
現在は入口の料金所にあります。

そして、本丸へ。



本丸は二の丸と三の丸の間に挟まれていて、穴蔵のように一段低くなってる。


本丸が二の丸、三の丸より低い位置にあるなんて、おかしいと思いませんか!
本丸にしろ二の丸にしろ後世に便宜上名づけれた符号。
だから、二の丸が本丸だったかも?

もし、今の本丸が本来の本丸なら、
高床式の寝殿造りのような高層建物で、三の丸と渡り廊下で繋がってたのかも?
などと我が輩は妄想してます。

三の丸の奥にも登城道があり大手道と繋がってる。



高石垣も残されてるが、現在は三の丸方面へは行けません。



搦手道や曲輪群も行けない。



なんとか整備してほしいものですな。

そして、『天主跡』



現在は礎石が残るのみで、こちらも穴蔵のような状態のまま。

中央に礎石の無い区画がある。


ここが心柱跡と推定されてる。
今回案内してくれてる発掘担当者の話によると、ここを掘ったが柱跡の痕跡がみつからなかった。
抜き取った痕跡も無い。
地山に突き当たる一番底まで掘ったそうです。
さて、ホントに心柱がここにあったのだろうか?

40数万円かけて模型の安土城天主を造った我が輩としてはとても気になる。
造った天主の構造はデタラメだったりして…

案内役の発掘担当者の話が盛り上がってきたなか、
突然、またしても、某滋賀県知事さん登場!
例の美人才女の秘書?さんも連れてる。

午前中、大津市で琵琶湖開きのセレモニーがあった。



その後、急いでやってきたようですな。
安土城天守再建の意気込みに燃えてるようです。


『現在残されてる遺構から、みなさんそれぞれの歴史を感じとって見てください。
歴史を想像する楽しみも大事なのです。』

ん?
担当者さん、なんか話のトーンがダウンしましたよ。
歯に衣を着せたような、八方美人のような、当たりさわりのない話しぶりに変わってきましたよ

知事さんに気をつかってるの?

我が輩が代わりにに言いいましょうか。

名古屋城天守再建は、絵図や設計史料などが全部揃ってるので、忠実に再建することは可能です。
安土城天主に関しては、まともな史料がない。
建物の構造がどんなものだったのか、さっぱりわからなくて諸説ある。

そんな状態で、何の根拠もない天主を再建するなんて、無茶すぎやしませんか?

大手道も本丸も二の丸も三の丸も家臣屋敷もみな場所は推定。

どれもこれも『伝』。


しかもここは国特別史跡に指定されてる。
いわば国宝の場所。
さらに、総見寺の私有地でもある。
制約がありすぎ!
再建のための膨大な経費を、安土城全体の整備に使ったほうがいいと思うのですがね。


天守が焼けた痕跡の礎石




後編に続く



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伝安土城…探訪講座 前編

2019-03-10 21:57:00 | 城跡
昨日は、滋賀県主催連続講座、本年度最後の城郭探訪がありました。

最後が良ければすべて良し!
上天気すぎるほどの上天気になりました。
まさに探訪日和☀️

安土駅に集合。

某県知事が、安土城天主を建てたい!
と、爆弾発言されたので、安土城の人気沸騰。
募集定員90名以上の参加者があり、早くにソールドアウトしたとか?

我が輩としては、城下町も城もほぼ行きつくしてるので確認のために参加したようなものだったのですが…


100名の大軍団が町内を移動。

下街道(朝鮮人街道、上洛道)を進み、
安土城に到着。

山に登るのは5、6年ぶりかな?
すったもんだの末、トイレと駐車場は無料になったが、入場料は700円に値上げされてる。

同じ特別史跡のひこにゃん城と張り合ってるようです。

人数多すぎるので、2班に分かれて登城。

なんと、おもてなし武将隊がお出迎え。

武将隊のうちの1人はたぶんあの人だと思うが…

伝大手道と言われる石段を登ると最初に左手に見えるのが、伝羽柴秀吉邸跡。

あくまでも「伝」です。
確定してるわけじゃない。
右手の向かいには、伝前田利家邸跡。

秀吉と利家は仲が良かったという理由で名づけられた。
何の根拠もない命名ですが、名づけられると、いつのまにかこれが一人歩きする。
伝がとれて、ホントにここに羽柴邸と前田邸があり、
隣合わせなので、おねさんとまつさんが味噌汁のやり取りをした、
などというまことしやかな話がでっち上げられて、観光ガイドさんが観光客に面白おかしく話してるとか?

いやはや困ったもんですな。

さらに前田邸の上の現在の総見寺は伝徳川家康邸となってるが、当時信長の家臣ではなかった家康の屋敷がここにあるはずがないのです。

石段に石仏がいくつも残されてる。

お賽銭をあげてる人もいます。
石仏を石段に使うなんて信長はけしからんヤツだ!
と怒る人も多いのですが、信仰観念というものは時代と地域によって変化するものなのです。

戦国時代、石仏を石垣の材料として使用した例は、いくつもある。
石段に使う例は聞いたことないぞ!
踏絵のつもりか?
という人もいる。
せめて、石仏を立てるべきなのでは?
そんなわけで、発掘担当者は、横倒しになった石仏を立てた。
すると、地元の人から怒られたそうです。
石仏には霊がやどっている。
封じ込められてる。
その霊がさ迷うことになる。
どうしても立てるならそれなりの供養をすべきなのだとか?

なるほど、難しいものですね。

山頂の守備の肝心要ともいうべき黒金門に到着。

折れ曲がりの枡形といわれる部分で石垣に巨石が使われている。
そして、これより上の石垣には赤っぽくなったものが散見されるようになる。
安土城炎上の痕跡です。

これより山頂の主要城郭内になる


後編に続く

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