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馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
そして滋賀県情報&つぶやき
β《#^ひ^♯》でヒヒーン

西山三山【善峯寺】後編

2019-06-19 07:45:50 | 山城国の史跡

2019年6月16日(日)

北門から折返し、奥の院を目指す

"『釈迦堂』明治18年

合掌姿の釈迦如来が安置されてます。

珍しいお姿らしい。

サツキも圧巻です!

奥の院へ。

再び京都市内を見る


『薬師堂』江戸時代

本尊釈迦如来が安置される。

桂昌院の出生の由緒にちなんで、出世薬師と呼ばれる

池がある

鯉?

『御陵』参道

この上に青蓮院親王御陵の墓があり、宮内庁管轄。

帰りのバスの時間が迫ってるのでパスしました。

『青蓮の滝』

カップルに邪魔される

坂を降る

宮内庁じゃなくて宮内省管轄の石碑

経堂の場所まで戻った


経堂を下に見る



『桂昌院廟』1705年建立

一番肝心な場所なんだけど、日本一の松やアジサイ、多宝塔に見とれて見逃してました。
というか、ここに立ち寄る人誰もいない。
桂昌院さんが寄進しなければ、この寺はかなり荒てた状態だったはず。

『宝篋印塔』鎌倉時代

『文殊寺宝館』

寺宝展が開催されていて、観覧は無料だったが、
時間が無いのであきらめた。

楼門へ戻りました。

バスの時間まで7分ほどなので
走ってバス停まで行きました。

満員だったが、無理やり乗りました

一時間で境内を一周できるが、ちょっとせわしない。
なお、境内の内外に売店や食堂などの施設はありません

飲料の自販機はあったような…

マイカーで行かれる方は、狭い箇所があるのでご注意あれ!

おしまい

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

3年ほど前に
村上市、鶴岡市、酒田など日本海側を旅した。
それだけに、今回の地震が気になります



馬《●▲●》助ヒヒーン♪

"
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京都西山【善峯寺】前編

2019-06-18 07:26:08 | 山城国の史跡
"2019年6月16日(日)

電車に乗ると若い娘さん2人が座ってた。
切符を拝見すると、大垣→関ヶ原の他に複数あり。
どうやら大垣方面から複数の切符を買って乗ったようです。

少女A『この電車の終点は京都?』

少女B「いや、終点は姫路よ」

少女A『姫路は、愛媛なの?』

少女B「は、ぁー?」

バカ娘め!
ヒメジとエヒメ、語呂が似てるだけやんか!
愛媛まで直通で行く電車なんかあるもんか!

というか、このバカ娘、
愛媛が四国にあるということも知らないのでは?

日本の未来が心配やわ…

娘さん2人は京都駅で降りました。
我が輩は須磨行きの普通電車に乗り換えて、
向日町駅で下車。

昨年はアジサイ寺で有名な宇治の三室戸寺に行ったら凄い人でウンザリした。
だから、今回は穴場とも言うべき善峯寺に行くことにしたのです。

しかし、駅前のバス停には行列が!
乗れるのか、心配しましたよ。
ま、なんとか乗れました。

約30分ほどで、門前のバス停到着。

帰る人の行列が凄い。
帰りも大変そう。
本数は一時間に一本間隔です。
※なお、善峯寺行き直通路線バスは冬の一時期、途中の小塩で折返し。
寺まで行かない期間があるので、事前に確かめるべし。


参道到着。

この後、坂道ばかりです。

紅葉の時期も良さそうですよ。

今年の紅葉は、西山三山に行こうかな…
『東門』到着。

西国巡礼二十番札所でしたか!
参拝者多いはずや。

『楼門』江戸時代

ここで受付。500円也。

善峯寺は、平安時代、1029年に源算上人が開基。
鎮護国家の寺として歴代天皇の崇敬を受けて隆盛。
応仁の乱で荒廃したが、江戸時代に将軍徳川綱吉の母の桂昌院が復興させた。

入って正面に
『観音堂(本堂)』

朱印する人が多かった。

我が輩はあじさい苑へ向かう

石垣の上は、日本一の松の枝が伸びてます。

ついつい高石垣に注目してしまう。
病気ですわ…

『護摩堂』江戸時代

『日本一の松』国指定天然記念物
「遊龍の松」と名付けられてます。

枝が長すぎて全体像が写真に収まらない。

枝は長いが、高さは人間の背丈ほどです。

『多宝塔』1621年。
国重文。

知らない人のために教えますが、二重の塔は一般に多宝塔と呼ばれる。
厳密には二重塔と多宝塔は別らしいのですが…

京都市内、比叡山を見る

眺望抜群です!

『幸福地蔵』

あじさい苑を見る展望所になってます

『あじさい苑』
三室戸寺より広いように思う。


あじさい苑から見上げる

満開にはちょっと早かったかな?


『北門』



後編に続く


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

我が家の紫陽花、



これからどのように色が変化するのか
楽しみです


馬《●▲●》助ヒヒーン♪




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【勝龍寺城跡】探訪、その③

2019-06-12 22:15:57 | 山城国の史跡

2019年6月01日(土)

勝竜寺城跡公園

から南へ移動しました。

13時17分
『勝龍寺』


お寺です
由来は、
平安時代 空海(弘法大師)の開基。
元の寺号は恵解山青龍寺で、観音堂を始め九十九坊が建てられていたといわれます。
大干ばつ大飢饉の年に住職千観上人の祈祷で雨が降り、
龍神に勝ったという意味から「勝龍寺」と改名されました。


「3代目の梵鐘」


初代は、大坂の陣の時に持ち去られた。
現在は、大阪府豊能町の真如寺にある。
2代目は、1766年に造られたが、先の大戦で供出した。
これは、昭和52年に造られた3代目です。

「ぼけ封じ観音」


ボケ化が進む我が輩として藁をもすがる思いで、合掌した。

隣に
『春日神社』

1174年、九条兼実によって建立された。
奈良の春日大社から勧請された、と考えられる。

この勝龍寺が、城の名前の由来となった。
本来は勝龍寺地域全体が寺域だったとか?

想定復元図によると、この南に
築山屋敷があったようだ。


13時24分
小畑川の『大門橋』

橋のたもとに冠木門が再現されてる。


「勝龍寺城大門橋」と書いてある

小畑川は城の外堀の役目がある。
ここに大手門を構築して、惣構え城下町の出入口とした。

つまり、この橋から城跡公園南側入口までが大手道ということですな。

京都市内方向を見る。


昔は東寺の五重塔が見られただろうな。

これにて寄り道、一旦終了。

再び長岡京駅に戻り、西国街道歩きをしました。

ついに西国街道にも手を出した。
終点は下関。

さて、死ぬまでに行けるかな?


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

老後の2000万円問題でなんやかんや騒いでますが、

現在老後の我が輩、

年金だけでは生活できなくて
貯金を崩してます

年金だけをあてにするのは
やめましょう


馬《●▲●》助ヒヒーン♪"


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【勝龍寺城跡】探訪、 その②

2019-06-11 23:26:34 | 山城国の史跡

2019年6月01日(土)

【勝龍寺城跡】
"本丸跡は、現在の勝龍寺城公園です。

堀の真ん中に橋があるが、これは公園の橋。
本来はこんなとこに橋は無かったはず!
とりあえず、この橋から中に入った。



北西隅に「北門跡」
枡形状になってます。


発掘調査で石材に使われた五輪塔や石仏が発見されたので、ここにまとめて安置したそうです。
北門は搦め手になり、
山崎合戦で敗れた明智光秀は、北門を通って逃げたそうです。
北門橋↓



北西部、

階段は、西隣の沼田丸への通路でした。

土塁の上の一部を掘り下げて渡れるようにした。

土塁の上から大手方向を見る

隣の
「沼田丸」

現在は単なる広場


本丸と沼田丸との間の堀。

ここに橋があったそうです。

再び本丸に戻る

本丸南側の大手口。

枡形になっていて
南門が復元されてます。
その奥の建物は管理棟として展示室がある。

以前、入ったことあるので、今回はパスした。

というか、明智光秀の幟がいっぱい。
まるで、光秀の城みたい…



その③に続く



馬《●▲●》助ヒヒーン♪"


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【勝龍寺城跡】探訪、その①

2019-06-10 22:00:58 | 山城国の史跡
"2019年6月01日(土)

午前中のシンポジウムの後、目の前の平和堂で昼食。

午後は、西国街道歩きの前に城跡を探訪することにした。

12時38分
JR長岡京駅東口。


駅前に機関車、車輪が展示されてる。
昔は神足(こうたり)駅で、地元の悲願として駅が設置された。

いやそれより、
午前中のシンポジウムで言われたように駅付近は高台の末端部。

この駅付近に築城されたのが、
永井氏の『勝龍寺城』
いわゆる、【長岡藩の陣屋】

江戸時代、寛永10年(1633)に永井直清によって築かれた。 
12000石でした。

最初は、現在の勝龍寺城跡に陣屋を設けたが、低地のため浸水がひどかったため、
駅付近の高台に陣屋を移したそうです。

ながらく陣屋の場所がわからなかったが、発掘調査によって駅付近だと判明した。

しかし、直清は、慶安2年(1649)にも加増され摂津高槻へと移封となり、長岡陣屋は廃城となった。


駅から南へ移動。

長岡第九小学校の隅に
『神足遺跡』

解説によると、
旧石器時代~近世までの複合遺跡。
環濠に囲まれた集落で、外側に方形周溝墓などの墓地があり、
集落内には石器の工房があった。

長岡京時代には、遺跡の東端に朱雀大路が通っていた。

なるほど!

で、その後は?
残念ながら中世から近世にかけての記述がない。

うーん…

12時47分
土塁の断面が見えてきました

勝龍寺城跡の遺構です。

高さ6m。
黒い土と黄色い土が交互に積み上げられた
空堀を掘って出た土を数回に分けて積み上げたということがわかる。

回り込んで階段を上る

空堀を見る

中央に土橋がある。

城内に入るにはこの狭い土橋を通らねばならない。
敵なら、3方向から攻撃を受けるわけです。

細川藤孝時代の遺構だそうな。


『神足神社』

天武天皇の子の舎人親王が祭神。
由緒を読むと、本来は神足じゃなくて「田村」という地名だったようです。
田村の池に天から神が降り立ち、宮中(長岡宮?)を南から襲おうとした悪霊をを防いだ、
という夢を桓武天皇が見られた。
神が降りた、至る→こうたり→神足。
神足(こうたり)の地名由来です。

何度も言うようですが、
長岡京駅は本来、神足駅でした。

実は神足神社の森のなかには、神足城跡の遺構があるらしい。
見逃した…

勝龍寺城、1457年に山城守護の畠山義就(よしなり)が乙訓郡(おとくにぐん)の郡代役所として築いたのが始まり。
16世紀中頃、松永久秀、三好三人衆の城となった。

1568年、織田信長が五万の大軍で勝龍寺城を攻略。
1571年、細川藤孝が城主となり二重の堀をもつ堅固な城に改修した。

藤孝の嫡男忠興と明智光秀の娘玉(ガラシャ)が勝龍寺城で結婚式をあげた、という。

江戸時代には、永井直清が入り長岡藩の城として改修した。

推定の縄張り復元図によると

神足神社には神足屋敷があった。
その南の
『神足郵便局』には、米田屋敷があり、
その南の堀を挟んで『本丸』があった。

本丸跡は、現在の勝龍寺城公園です。

「本丸隅櫓」"



その②に続く


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

我が地方、まだ梅雨入り宣言出てないが、
この数日天気悪い

どう見ても梅雨のように思えるのですが…

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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