馬ひでの助

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【勝龍寺城跡】探訪、その①

2019-06-10 22:00:58 | 山城国の史跡
"2019年6月01日(土)

午前中のシンポジウムの後、目の前の平和堂で昼食。

午後は、西国街道歩きの前に城跡を探訪することにした。

12時38分
JR長岡京駅東口。


駅前に機関車、車輪が展示されてる。
昔は神足(こうたり)駅で、地元の悲願として駅が設置された。

いやそれより、
午前中のシンポジウムで言われたように駅付近は高台の末端部。

この駅付近に築城されたのが、
永井氏の『勝龍寺城』
いわゆる、【長岡藩の陣屋】

江戸時代、寛永10年(1633)に永井直清によって築かれた。 
12000石でした。

最初は、現在の勝龍寺城跡に陣屋を設けたが、低地のため浸水がひどかったため、
駅付近の高台に陣屋を移したそうです。

ながらく陣屋の場所がわからなかったが、発掘調査によって駅付近だと判明した。

しかし、直清は、慶安2年(1649)にも加増され摂津高槻へと移封となり、長岡陣屋は廃城となった。


駅から南へ移動。

長岡第九小学校の隅に
『神足遺跡』

解説によると、
旧石器時代~近世までの複合遺跡。
環濠に囲まれた集落で、外側に方形周溝墓などの墓地があり、
集落内には石器の工房があった。

長岡京時代には、遺跡の東端に朱雀大路が通っていた。

なるほど!

で、その後は?
残念ながら中世から近世にかけての記述がない。

うーん…

12時47分
土塁の断面が見えてきました

勝龍寺城跡の遺構です。

高さ6m。
黒い土と黄色い土が交互に積み上げられた
空堀を掘って出た土を数回に分けて積み上げたということがわかる。

回り込んで階段を上る

空堀を見る

中央に土橋がある。

城内に入るにはこの狭い土橋を通らねばならない。
敵なら、3方向から攻撃を受けるわけです。

細川藤孝時代の遺構だそうな。


『神足神社』

天武天皇の子の舎人親王が祭神。
由緒を読むと、本来は神足じゃなくて「田村」という地名だったようです。
田村の池に天から神が降り立ち、宮中(長岡宮?)を南から襲おうとした悪霊をを防いだ、
という夢を桓武天皇が見られた。
神が降りた、至る→こうたり→神足。
神足(こうたり)の地名由来です。

何度も言うようですが、
長岡京駅は本来、神足駅でした。

実は神足神社の森のなかには、神足城跡の遺構があるらしい。
見逃した…

勝龍寺城、1457年に山城守護の畠山義就(よしなり)が乙訓郡(おとくにぐん)の郡代役所として築いたのが始まり。
16世紀中頃、松永久秀、三好三人衆の城となった。

1568年、織田信長が五万の大軍で勝龍寺城を攻略。
1571年、細川藤孝が城主となり二重の堀をもつ堅固な城に改修した。

藤孝の嫡男忠興と明智光秀の娘玉(ガラシャ)が勝龍寺城で結婚式をあげた、という。

江戸時代には、永井直清が入り長岡藩の城として改修した。

推定の縄張り復元図によると

神足神社には神足屋敷があった。
その南の
『神足郵便局』には、米田屋敷があり、
その南の堀を挟んで『本丸』があった。

本丸跡は、現在の勝龍寺城公園です。

「本丸隅櫓」"



その②に続く


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

我が地方、まだ梅雨入り宣言出てないが、
この数日天気悪い

どう見ても梅雨のように思えるのですが…

馬《●▲●》助ヒヒーン♪


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