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馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
そして滋賀県情報&つぶやき
β《#^ひ^♯》でヒヒーン

近江宮川藩、その3

2019-02-28 22:42:00 | 近江の史跡

2019年2月23日(土)

講座【宮川藩と堀田氏】

もう1つの領地は
『蒲生郡上迫村』


現在は、日野町迫。
国道307号グリーンバイパスの近く。
山を越えると隣は甲賀市土山町。

上迫村は東海道土山宿の助郷でした。
土山宿で人馬などの都合がつかないと要請を受けて隣近所の村々が補助しなければならない規則になってた。
東海道は往来が激しく、土山宿は鈴鹿峠の麓なので宿泊する人も多かったに違いない。
この助郷の負担が農民に重くのしかかり、困ってたので、
宮川藩に何度も減免のお願いをした。
1803年、ついに473石余の減免が叶いました。


村の困窮が立ち直るまで負担を一時的に中止すると言うわけ。
領地の総高は676石余なので大幅な減免を勝ち取りました。

上迫村の領民は、堀田氏に感謝。
村を救ったお礼に
五社神社を建てて、堀田氏及び道中奉行ら5人を祀りました。

現在は、合祀されて日野町迫の「迫神社」の境内に移されてます。

井並学芸員さんが実際に現地に行って調査、文書を確認したそうです。

地図で確認すると、
日野町迫は日野町の最南端にあるけど、土山宿までは山を越えて約10キロ先。


こんな遠い村にまで助郷をさせるとは、びっくりポン!
水口宿のほうがはるかに近いんだけどね…

というか、今回紹介された2例を見ると宮川藩の堀田殿様は、領民に優しい名君ということになりますな


宮川藩があった日枝神社では毎年5月3~4日に春の祭礼がある。
神輿の渡御や稚児行列とともに曳山が一基、出ます。
有名な長浜曳山祭りと同じくこちらも曳山でこども狂言(歌舞伎)が披露された。
しかし、残念ながら昭和27年に廃止。
現在は、「曳山颯々館」が残るのみ。


この颯々館の後ろの見送り幕は、藩主の堀田正民自筆の図。


実はポスターのこの絵も正民自筆画。

鷹が雀を攻撃してる様子を描いていて躍動感ありますね。

堀田氏は紀長谷雄の家系ということを自慢していて、歴代の藩主は書画に堪能で、みんな完成度が高かったそうです

宮川藩の領地には殿様の書画がいくつか今も伝わってる。


現地にいないお殿様の代わりとして書画が領民を支えて親しまれてたのかもね?


この宮川藩にも明治維新の荒波がやってきます。

新政府軍がやってきた時は、殿様が現地にいないので江戸に問い合わせすると言って、一旦返事を保留したが、
結局、彦根藩に同調して新政府側につくことになりました。

新政府の指示で、江戸詰めだった藩主は、家臣90人を引き連れて現地宮川村の陣屋に入りました。
この時、新たに陣屋と家臣屋敷が建設された。


現在の日枝神社の北側です。

しかし、明治2年の版籍奉還で、
藩主は宮川藩知事に。
さらに、明治4年の廃藩置県で、
廃藩→宮川県となり、長浜県に編入され、
最後の藩主堀田正養は、再び東京に移住させられたのであった。

その後は、議員など要職についたそうです。

以上、おしまい。


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

江戸時代の小藩に関しては、資料が少なく、たいがいの陣屋建物は消滅してるケースが多くわかってないこと多い

それだけに、今回の企画は有意義なもので、また1つ勉強になりました。
ありがとう。

今後は、宮川藩の他の領地の資料を調べて藩の実態を追及してほしいものです。

また、現在の広域長浜市には、井伊家領地の他に幕府領も多い。

それぞれの実態も知りたいですな


馬《●▲●》助ヒヒーン♪


遺跡の発掘=破壊なのだ、の巻

2018-12-17 21:53:00 | 近江の史跡
2018年12月16日

城跡巡りが予定よりオーバーしたため電車に乗り遅れた。
湖北は一時間に一本しか電車が無い。
河毛駅の待合所でパンを食べて昼食した。

13時25分、木之本駅到着。
30分の遅刻だが、会場のスティックホールに向かい当初の予定通りに『塩津港遺跡報告会』に参加した。

あまり認知されてないので、どうせ人少ないと思いきや、
受付で、
『予想以上に人多いためお渡しする資料が無くなった。
後日送付したい』

えー!
資料無しで話聞くの?

びっくりポンや!

ホールに入るとしばらく立ち見する。
途中の休憩後、なんとか座ることができた。

辺りを見回すと、
米原市教委のあの方々、
長浜市の元館長さん、
先週ガイドしてもらった高島市のあの方、
なんと、
あの女性もいる。
今回はお城じゃなくて中世の遺跡の話なのに、わざわざ大阪から来たの?

さらに驚くなかれ、
あの有名人の奈良大の教授の姿も発見!
ま、まさか、ホントに?
我が目を疑う。
もしかしたら他人の空似か?
でも、他の偉いさん方がみな教授に挨拶してる。
お忍びで来たのかな?
小谷城の発掘調査を見学した後に立ち寄ったのかも?

最後にたまたま目が合った。
やっぱりあの教授で間違いないと思うのだが…。

本人かどうか気になって肝心の話が耳に入らなかったぞ!



塩津港遺跡は、奥琵琶湖最北端にある。
北陸方面からの荷物が行き交う港として栄え、中世の琵琶湖で最大の港でした。
しかし、12世紀に大地震が発生、
大津波が押し寄せ湖岸にあった神社が湖のなかに埋もれてしまった。
当時の湖面の高さは現在よりも2m低かったそうです。、

だから、湖底遺跡の発掘とも言える。

神社跡の発掘調査で12世紀、11世紀の遺構が見つかり、土器、木簡など多数見つかった。
中世の神社遺構が全面的に確認できたのは全国的にも珍しいとか?

発掘担当者の話では、試堀してみたら、さらに遺構の下に8世紀頃の古代の素晴らしい遺構が眠ってる可能性大だとか?

この古代の遺構は発掘せずに保存されて、現在は遺跡全体が埋め戻された。
以後、発掘の予定は無いそうです。

最後に会場から質問、いや詰問がありました。
『なんで、8世紀の遺構を発掘しなかったのか?途中でやめた理由を説明しろ!』

その回答は、
『遺跡を発掘調査するということはすなわち、遺跡を壊すことである。
この後、土木工事で完全に遺跡が壊れるのならば、最後まで発掘したが、今回は幸いなことに遺構の保存がはかられたので、無理をせずに下の遺構を残した』、と。

あんたに言われなくても発掘担当者は、もっと掘り進めたいものです。
歴史的な大発見になるかもしれない遺跡ならなおさら。
でも、ここはあえて自制したわけで、正しい判断であります。

我が輩も学生時代に発掘調査の担当者になったことがある。
その時、師匠に言われた。
『遺跡の発掘は、宝探しじゃないぞ!』
この言葉、グサッとささりましたよ。

遺跡の発掘は、過去の歴史を正確に明らかにすることが目的。
発掘技術は日進月歩してます。
遠い将来、もっと優れた技術と優れた調査者によって、正しく遺跡を発掘できればこれに超したことはない。

いまだ発展途上の発掘技術では、遺跡を保存しておくのが現在の我々のベストな処置なのです。

今は、ここに素晴らしい遺構が残ってることを確認できたことをもって良しとしなければならない。


最後にもう一度言います。

発掘調査=遺跡の破壊。

遺跡の発掘は、宝探しではない。

全国の学芸員さん、このことを肝に命じていただきたい!

と、思います。

て、偉そうに言ってるお前は何様や?

ε=ε=┏(・ひ・)┛

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

骨折り損かな?の巻

2018-12-16 22:07:00 | 近江の史跡
肌寒い朝だったが、少なくとも午前中は雨が降らないという予報だったので城跡巡りに向かった。

午後に木之本で遺跡報告会があるので遠くには行けない。
手頃な城跡を巡ることにした。

で、木之本の手前の河毛駅で下車した。
河毛駅といえば、浅井三姉妹の小谷城跡がある。
先日のニュースでは、清水谷の屋敷跡の遺構らしきものを見つけたという報告があった。
だから、それを見に行ってもいいのだけど、あえて今回はパス。

本日の目的は、中島城跡と丁野城跡を再訪すること。
以前、JRハイキングで訪ねたがイマイチわからなかったので、自分なりに確認したかったからだ。

この城跡は河毛駅から近い。
駅近のいい物件です。

向かうと、その途中に山脇山がある。
ここは小谷城攻めの時に明智光秀が陣を敷いたと言われてる。
ただし、陣跡の遺構は残ってないらしい。
光秀といえば、再来年の大河ドラマの主人公だ。
ならば、ホントに陣跡の遺構が残ってないか、確認することにした。

登山口があったが、途中から無くなり、道なき道を藪をかき分け進軍した。
結局わからなくて、山の反対側の山脇集落に降りてしまった。
我ながら無茶するものですわ。

専門家が遺構無いと言ってるのだから、無いに決まってる。
お前は何様だ、と言われるだけだ。

ともかく、このような無茶、良い子は真似しないように!
である。

意気消沈しつつ本来の目的の2つの城跡に向かった。
再訪なので、ちょろい!
と、高をくくってたが、これが甘かった。
前回は、ガイドさんの後ろを付いて登っただけなので、登山ルートを覚えてない。
でも記憶を頼りに神社の裏から登った。
登山道が無い!
消滅したのかな?
こちらも台風のせいか?

仕方ないので、またしても道なき道を藪をかき分け登った。
今日はついてないわ😥

必死で進むと、丁野城跡の遺構が見えてきてホッと一安心。
予想通りの遺構が残ってました。

次に中島城跡だが、これまた行き方がわからない。
ここは一旦下山してやり直すことにした。
というのは、次の電車の時間が迫ってるからだ。
寄り道したために時間が大幅に超過してしまってた。

反対側へ下山してみると
中島城跡の登山口が見つかった。
目の前に見えてる。
ここまで来て引き下がるのは悔しい!

午後の報告会は欠席でもいいや、
と決断し、城跡に登りました。

というわけで、本日の無事目的達成。

駅へ戻る途中で、最初に登った神社のすぐ近くに両城跡へ向かう整備された登山道があることがわかった。

なにやってたんだか?
なぜ気が付かなかったのか?
我ながら情けないものでした。

トホホやわ。

詳細は別のブログで後日アップします。

午後の部に続く…。


Φ(*^ひ^*)Φ

西郷どん、本日最終回でした。

西南戦争、4回か5回にわたってもっと詳細に取りあげるべきではなかったか?

これが残念ですな。

ま、期待してないし真剣に見てなかったので、どうでもいいけどね。



馬《●▲●》助ヒヒーン♪

【大津城下町】後編

2018-12-07 16:31:00 | 近江の史跡
2017年3月4日(土)

坂本城は、織田信長が明智光秀に命じて築城させた。
本能寺の変後、浅野長政が城主となるが、秀吉は長政に命じてあらたに大津に城を築かせた。
大津城の始まりです
その後、城主が変わり関ヶ原の合戦の時は京極高次でした。

歩道橋の上から
その大津城内を見てます。

なんの痕跡もないですが…。

大津港へ向かう

下の道は県道、一般に湖岸道路と呼ばれていて、琵琶湖マラソンでは選手が走ります。
たぶんこの日の翌日がマラソンだったのでは?


長等山方向を見てます。

そして、大津港手前に

『大津城跡』石碑

城跡の痕跡、今はこれしかありません!
寂しいですね。


ガイド役の先生が、マウンドの上で解説してくれてるが、

このマウンドは城跡とは何の関係もない。
天守台跡と思いたいけど、違いますよ。

とりあえず、この付近に本丸があったようですわ



ビルの谷間を見てます
本丸の外周を確認するためにあの付近を発掘調査したそうです。

だから、本丸の外周に関してはほぼ確定してます。

京阪電車『浜大津駅』

現在は、「びわ湖浜大津駅」に改名されました
イチイチ、びわ湖と名付けなくてもいいのに…。
長ったらしい名前、嫌なんですが。


浜大津駅の歩道橋を膳所方面に向かう。

この付近までが本丸の範囲だった。

京阪電車の線路の南へ行くと

「大津城の石垣」

当時のものではなくて、
模擬石垣です…。


この向こうに、彦根藩の蔵屋敷がありました。


『旧坂本町』

坂本城下町から移された地名痕跡です。

南へ行くと

先ほどの丸屋町商店街

さらに南の筋が

旧東海道です。

前回紹介した

大津事件の碑


吾妻川の橋

この時はまだ

大津PARCOがありました。


このように大津港には、いくつも「関」という荷上場がありました。
島ノ関駅はその名残りの駅名です。


この後、街道を膳所城下町まで歩きました。

膳所城下町に関しては街道歩きと並行して紹介します。



馬《●▲●》助ヒヒーン♪

【大津城下町】前編

2018-12-06 22:04:00 | 近江の史跡
2017年3月4日(土)

滋賀県の探訪講座で、
『大津から膳所へ』があり、参加しました。

青春18切符を使いました。
て、大津までだと赤字!

この時、なぜ18切符を使ったのか?
我ながら理解できない


大津駅前に
『車石(くるまいし)』

我がブログで何度も繰り返し取り上げてるので、少しは認知度上がったと思うが、まだまだ全国的知名度が低い。
昔、東海道の峠を越えるために大変な思いで荷車、牛車が行き交ったことを知ってほしいのです。

車石は、昔の線路の痕跡とも言える。

100人ほど集合。

大津駅前から出発しました。


西へ向かい国道161号線、京阪の電車道に到着。


『大津宿本陣跡』

旧東海道歩きで、わざと取り上げなかったのはこの探訪の時に立ち寄ってたからです。

遺構も建物も残ってなくて、
この看板と『明治天皇聖跡碑』が残るのみ。


でもね、明治天皇の行幸のおかげで東海道、中山道、北国街道などに街道ルートの痕跡を知る手がかりを残してくれました。

街道の痕跡が消え行くなかで貴重な史跡と言えます。


長等山方向を見上げてます。

関ヶ原の合戦の当日、
九州勢を中心とする西軍は大津城にさしかかった。
城主は、京極高次。
高次、最初は西軍だったが、突然心変わりして東軍に寝返って、籠城。

高次の奥さんが淀殿の妹なので西軍は力攻めしたくなかったが、どうしても降伏しないので、ついに武力戦に。
しかし、なかなか城が落ちない。
そこで、長等山に大砲を据えて城を攻撃した。
これが決定打となり高次は降伏することになり、
高次は高野山に蟄居した。

西軍の九州勢は関ヶ原へと急ぐが、
すでに関ヶ原では敗戦となっていて間に合わず、仕方なく大阪城へ引き返すのであった。

西軍を釘付けにした功績に報いるため家康は高次に小浜城10万石を与えました。
高次の判断のおかげで近江の名門京極家は明治維新まで大名として残ることができたのです。


京阪電車が国道の路面電車になる位置。

下り坂を大津城跡まで向かう。

低地にある大津城の弱点を知った家康は、大津城を廃城にし、あらたに膳所城を築いた。
大津城の天守は彦根城に移され、現在の彦根城天守がその名残だと言われてます。
というか、大津城天守は五重だったので、三重の彦根城天守は少し小さくなりました。




北国海道西近江路を見てます。


こちらは前回まで紹介した旧東海道。
この女の人、お城好きで講座や探訪でもう何十回も会ってます。
会ってますが、別に話はしないけど…。

『大津丸屋町商店街』

隣の菱屋町商店街とともに大津市一番の繁華街です。
でも、近年はシャッター街になりつつあるので、色々と企画を考えて頑張ってます。
この日は百円市で珍しく賑わってました。

そんななか我が集団は、
この石垣を見学。

『大津城外堀石垣』の痕跡と言われてます。

商店街の中にここだけ忽然と残っていて、
研究者によっては、ホンマかいな?
と疑う意見もあります。
今のところ真偽不明…。


大津祭曳山展示館の裏側まで石垣が続いてるそうです。

商店街から引き返して北上します。




浜大津一丁目。


西へ向かい、右折


縦長の川口公園に来ました。
大集団なので移動が大変ですわ。

『川口堀』

この公園は実は船入場で、大津城の中堀の痕跡ではないか?
と言われてます。
真偽不明…。


すぐそばを京阪電車の石坂線が走ってる




後編へ続く


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

今週も山登り

2018-10-28 21:59:00 | 近江の史跡
先週に引き続き、本日もJRハイキングに参加した。

行き先は、大依山。
ほぼ無名に近い山なので参加者は10名。
先週の半分。

ま、このぐらいの人数が手頃かな?

長浜駅からバスに揺られて約30分、
さらに浅井支所(旧浅井町役場)から歩いて30分で、山の麓に。

麓から一時間ほどかけて登りました。

尾根沿いには、次々に古墳群が現れる。
この古墳を戦国時代に浅井氏が陣所に改造した。

迫り来る織田信長軍を撃退するため浅井・朝倉連合軍が合体してこの山に数万の軍勢が4日間滞在した。


この後、浅井朝倉軍は平地に降りて
姉川を挟んで合戦を繰り広げることになる。

いわゆる『姉川の合戦』の始まり始まりの山なのです。

と、偉そうに解説してるけど、
実は大依山のことを全く知らなかった。

そういう意味では今回のハイキング、一つ賢くなりました。

次はまたいつか一人でじっくり探索したいです。

それにしても、この山も例のごとく倒木が多かった。

ガイドさんの話では
伊吹山ドライブウェイもがけ崩れのため閉鎖中。
復旧の目処がたたず、
秋の書き入れ時に困ったことだと嘆いてました。

再開は、おそらく来年の後半になるのでは?

雪が降るまでは、歩いて登るしかないようです。

前回の台風被害、
むちゃくちゃですわ。

Φ(*^ひ^*)Φ
本日の歩数は23000歩、
山登りだったので、歩数以上に身体の鍛練になったと思う。

でも、帰宅してお風呂に入って
ポッコリお腹を見ると、
歩きの効果に疑問を感じる今日この頃です。


歩きは単に身体をいじめてるだけではないのか?

と、思うのですが…。


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

玄蕃尾城跡に登る、の巻

2018-10-21 21:08:00 | 近江の史跡
ゆるキャラも見たいけど
山城にも登りたい。

何よりも北国街道歩きにとって
玄蕃尾城は外すに外せない肝心要の城跡。
玄蕃尾城に登ってないのに北国街道歩いたぞ!と偉そうに言えない
そういう重要な山城。

というわけで、
以前からJRの山城歩きハイキングに参加するために予約しておいた。

本日が決行日です。

JR木之本駅に集合。
余呉バスで柳ケ瀬まで行き、
約一時間かけて登りました。

いやぁ、倒木がひどい。

例の台風21大惨事号のせいですわ。

無数にあると言っても過言ではない。
玄蕃尾城跡は続百名城に指定されてるので、地元の人と観光協会が登山道を歩けるように整備してくれたそうで、感謝感謝です。

実は登る時に前に倒れてしまった
いやはや情けない。
登山は下りが危ないけど、上りでこける人は普通いません。
体力・脚力が衰えてきたようです。


登るのは大変だったが、
山頂の城跡には評判通り素晴らしい遺構が残ってました。

遺構を見ると疲れも吹っ飛びます。

山頂でたくさんの人とすれ違った。
さすがに人気の城跡だな、と思ったら、
実は、朝からのろし駅伝があったため、敦賀市の方々が狼煙を上げたそうで、
ちょうど、狼煙を上げた帰りに出くわしたわけです。

山頂の福井県側には駐車場があり、百名城スタンプ、資料、トイレも設置されてる。
山頂から駐車場まで徒歩5分ほど。

敦賀市から登ったほうがはるかに簡単で便利。


玄蕃尾城は、滋賀県と福井県の境にある。
だから、どっちのものというわけではないが、城跡の管理に関しては敦賀市に軍配あり!

滋賀県の負けですわ。

ま、とりあえず、
昨日と違って暖かく
上天気で良かったです。


Φ(*^ひ^*)Φ
帰りに我がひこにゃん駅に降りたら
ホームにたくさんの人がいました。
ご当地キャラ博が終わってみなさん帰って行く。
たくさんの荷物持ってます

今年も市の観光新興に大きく寄与したようですな。

また来年もひこにゃんに会いにきてほしいものです😁


馬《●▲●》助ヒヒーン♪