馬ひでの助

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β《#^ひ^♯》でヒヒーン

遺跡の発掘=破壊なのだ、の巻

2018-12-17 21:53:00 | 近江の史跡
2018年12月16日

城跡巡りが予定よりオーバーしたため電車に乗り遅れた。
湖北は一時間に一本しか電車が無い。
河毛駅の待合所でパンを食べて昼食した。

13時25分、木之本駅到着。
30分の遅刻だが、会場のスティックホールに向かい当初の予定通りに『塩津港遺跡報告会』に参加した。

あまり認知されてないので、どうせ人少ないと思いきや、
受付で、
『予想以上に人多いためお渡しする資料が無くなった。
後日送付したい』

えー!
資料無しで話聞くの?

びっくりポンや!

ホールに入るとしばらく立ち見する。
途中の休憩後、なんとか座ることができた。

辺りを見回すと、
米原市教委のあの方々、
長浜市の元館長さん、
先週ガイドしてもらった高島市のあの方、
なんと、
あの女性もいる。
今回はお城じゃなくて中世の遺跡の話なのに、わざわざ大阪から来たの?

さらに驚くなかれ、
あの有名人の奈良大の教授の姿も発見!
ま、まさか、ホントに?
我が目を疑う。
もしかしたら他人の空似か?
でも、他の偉いさん方がみな教授に挨拶してる。
お忍びで来たのかな?
小谷城の発掘調査を見学した後に立ち寄ったのかも?

最後にたまたま目が合った。
やっぱりあの教授で間違いないと思うのだが…。

本人かどうか気になって肝心の話が耳に入らなかったぞ!



塩津港遺跡は、奥琵琶湖最北端にある。
北陸方面からの荷物が行き交う港として栄え、中世の琵琶湖で最大の港でした。
しかし、12世紀に大地震が発生、
大津波が押し寄せ湖岸にあった神社が湖のなかに埋もれてしまった。
当時の湖面の高さは現在よりも2m低かったそうです。、

だから、湖底遺跡の発掘とも言える。

神社跡の発掘調査で12世紀、11世紀の遺構が見つかり、土器、木簡など多数見つかった。
中世の神社遺構が全面的に確認できたのは全国的にも珍しいとか?

発掘担当者の話では、試堀してみたら、さらに遺構の下に8世紀頃の古代の素晴らしい遺構が眠ってる可能性大だとか?

この古代の遺構は発掘せずに保存されて、現在は遺跡全体が埋め戻された。
以後、発掘の予定は無いそうです。

最後に会場から質問、いや詰問がありました。
『なんで、8世紀の遺構を発掘しなかったのか?途中でやめた理由を説明しろ!』

その回答は、
『遺跡を発掘調査するということはすなわち、遺跡を壊すことである。
この後、土木工事で完全に遺跡が壊れるのならば、最後まで発掘したが、今回は幸いなことに遺構の保存がはかられたので、無理をせずに下の遺構を残した』、と。

あんたに言われなくても発掘担当者は、もっと掘り進めたいものです。
歴史的な大発見になるかもしれない遺跡ならなおさら。
でも、ここはあえて自制したわけで、正しい判断であります。

我が輩も学生時代に発掘調査の担当者になったことがある。
その時、師匠に言われた。
『遺跡の発掘は、宝探しじゃないぞ!』
この言葉、グサッとささりましたよ。

遺跡の発掘は、過去の歴史を正確に明らかにすることが目的。
発掘技術は日進月歩してます。
遠い将来、もっと優れた技術と優れた調査者によって、正しく遺跡を発掘できればこれに超したことはない。

いまだ発展途上の発掘技術では、遺跡を保存しておくのが現在の我々のベストな処置なのです。

今は、ここに素晴らしい遺構が残ってることを確認できたことをもって良しとしなければならない。


最後にもう一度言います。

発掘調査=遺跡の破壊。

遺跡の発掘は、宝探しではない。

全国の学芸員さん、このことを肝に命じていただきたい!

と、思います。

て、偉そうに言ってるお前は何様や?

ε=ε=┏(・ひ・)┛

馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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