酒田は風の町だ。度重なる大火も、冬の季節風によって引き起こされる事が多かった。そこで先人達は町を守る手段として、北側に防風林を兼ねて緩衝帯として、寺町を作った。現在はすっかり町の中心地として飲み込まれているが、ここには沢山の大きな寺が並んで、存在自体が酒田の歴史を作っている。
どの寺も歴史が深い。中でも酒田の発展の礎となった方の菩提寺として、酒田総合文化センターの隣に、泉流寺がある。奥州平泉の藤原氏滅亡の時に、藤原氏の生き残りの泉の方(徳尼公)を守り、36人の家臣が酒田に流れ、落ち延びて来た。その酒田三十六人衆が、廻船問屋を営み酒田湊の発展を支えてきたのだ。
しかし、この教育委員会の立て札も、変な日本語だな。(cake-心の叫びより)
泉流寺の門、左側に説明板がある。
門をくぐると、左右に仏像が二体向き合っていた。とても穏やかな気持ちにしてくれる。このお寺に来るのは何十年ぶりで、ここに徳尼公がお祀りされている事を知ったのは、もっと後になってからである。彼岸も近い頃だったので、墓の掃除や早めのお参りをする人も多かった。
門を通って左手に、さらに門と塀があり、内部には徳尼公廟が建っていた。
その傍らに寄り添うように、酒田三十六人衆の碑が建っていた。
どの寺も歴史が深い。中でも酒田の発展の礎となった方の菩提寺として、酒田総合文化センターの隣に、泉流寺がある。奥州平泉の藤原氏滅亡の時に、藤原氏の生き残りの泉の方(徳尼公)を守り、36人の家臣が酒田に流れ、落ち延びて来た。その酒田三十六人衆が、廻船問屋を営み酒田湊の発展を支えてきたのだ。
しかし、この教育委員会の立て札も、変な日本語だな。(cake-心の叫びより)
泉流寺の門、左側に説明板がある。
門をくぐると、左右に仏像が二体向き合っていた。とても穏やかな気持ちにしてくれる。このお寺に来るのは何十年ぶりで、ここに徳尼公がお祀りされている事を知ったのは、もっと後になってからである。彼岸も近い頃だったので、墓の掃除や早めのお参りをする人も多かった。
門を通って左手に、さらに門と塀があり、内部には徳尼公廟が建っていた。
その傍らに寄り添うように、酒田三十六人衆の碑が建っていた。
私は、酒田三十六人衆と徳仁公を仲立ちにして、平泉と酒田が繋がっているのを知って、驚いたものでした。義経と弁慶まで、あと少しです。(←って、何が?)
ヒノキだと思います。雨風に一番強いのは、ヒノキなんですね。昔は、良いヒノキが沢山あったのでしょうね。