無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

3.11

2018-03-12 10:58:40 | 防災

 

2011年3月11日に起きた東日本大震災から、7年の時が過ぎた。

今年も閖上に行くとY先生に連絡をし、朝の6時半に出発して石巻に向かった。ひさしぶりに平和堂に寄って、ボストンパイを買うんだと張り切ってカーナビに従う。(本当は高速を走らせたいカーナビに逆らって48号線を走ったのだけど)

平和堂は、いつも驚かされる。「目的地周辺です!」とナビに言われ、店の前辺りに着くも、辺りがすっかり変わっていた。建て売りの住宅が並ぶニュータウンになっていた。あの道路の狭さはそのままにである。小脇に停めて平和堂に電話するも「現在、この電話は使われていません。」建て売り住宅のセールスマンに尋ねると、「平和堂さんはね、おやじさんが亡くなって、店と工場は手放したのです。ここの土地は平和堂さんの物だったのです。御家族は引っ越して、元気のようですよ。連絡先は分かりますよ。」なのだそうだ。以前お会いした時に、おやじさんが、「2代目も頑張っているから」と、若い人を紹介したような気がするが、やはり震災後は大変だったようだ。

気を取り直して、大川小学校跡地に向かう。結局は到達せずに、変な所をグルグル回って、別の小学校に着いた。時間が足りなくなったので、閖上に向かう事にしたのだが、まだ私には来るなと言うことなのだろう。後にY先生から大川小学校の跡地のイノベーションの話を伺った。やはり内容が重すぎて断ったいきさつだったようだ。

さて、もの凄い道路の渋滞とどでかい空き地の駐車場での場所の確保など、こんなに人が集まるんだと、名取の人達にとって、閖上は特別な所なのだと再認識しながらも、閖上の朝市場についた。

ちょっと見ぬ間に、港は堤防で水面が見えなくなっていた。

こんな天気の良い日は、家族で出歩いて、美味しい物を食べることは幸せだと思う。

家族連れに混じって、あちこちのTVクルーが来ていた。あのクレーンの先にも、カメラマンが載っているようだ。

カモメ達は、ご馳走をくれる人がわかるようだ。

「あっ、無理だな。」と飛んで行った。

閖上は、仙台空港からも近い。

筋子と明太子とスルメとワカメを買う。結構重い。

お花は、酒田で買った物を献花する。私のはピンクの薔薇とはかすみそう。

仙台味噌の焼きお握り。

焼き団子。仙台味噌は美味しいだろうに、お土産としては重くてね。

こちらはレストランがは入っている棟。

朝市がメインなので、昼を過ぎると、人の数はずっと減る。

日和山。昔からあったそうだが、家々に囲まれていて知る人が少なかったそうだ。津波で廻りの家が流されて、その存在を知ったそうだ。

ここに着く前に、地震が起こった時間になった。サイレンが鳴って、黙祷をささげた。

その日和山の上では、能の献上があった。茣蓙か何かで舞台を造る事もせず。足袋のままに舞っている。

せっかく舞っているのに、観客は少ない。

慰霊碑のそばからも、舞っているのは見えるのだが、もうちょっと何とかしてくれれば良いのにと思う。

慰霊碑に献花した。

皆さんが一番気に掛けていたのは、皆で飛ばす風船だ。なかなか飛ばす時間が定まらない。

電線などに絡まずに、空へと舞い上がって欲しいとアナウンスされたが、立派に絡まっているいるのが、10個ほどあった。

少し風もあったのか、見る間に上っていった。

もう、白い点々でしかない風船は、青い空に飲み込まれていった。

この日、H先生は約束していた船に乗って、魚釣りに出かけたのだそうだ。その成果をお土産に貰った。皆で仲良く分けるようにと言付けされた。

コメント
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