まなびの途中

色々な仕事をしてまいりました。
色々な出会いがありました。
勘違いもありますが、
学んだことを書いてまいります。

みんなが、豊に、平和で、暮らしていけますように。

2007年03月01日 | 本・映画
現在でも売れ続けている「憲法9条を世界遺産に」?でしたっけ、
実は読んでおりませんが、
確かに、いいネーミングだと、感心いたしました。

そういう意味で、この本。
「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」 中西輝政著
読んでみて思うんだが、
内容的には、「日本を世界遺産に」とか、
「天皇制を世界遺産に」というタイトルにしても、
ありだったんではないか、と思えた。

  なぜ日本人は戦前を否定するのか?なぜ「歴史」を社会科で教えるのか?日本
  人が天皇を必要とする理由は?―六〇年前の敗戦をきっかけに、明治も江戸も
  古代までも全否定する奇妙な歴史観が、この国を支配してきた。
  しかし、近現代世界はいま大きく変動している。戦争の真実を物語る機密文書
  も公開されはじめた。「この国のかたち」を描くために、私たちはいま何をす
  べきか。積み重ねられた「戦後の嘘」を打ち捨て、日本文明の核心を捉えるこ
  とで、日本人のアイデンティティを真正面から問う。

という、中西さん真骨頂の本であるといえます。

お読みになられた方には、戦前のコミンテルン、共産主義者たちの謀略、
さらには、無能な外交政策が引き起こした日中戦争など、
戦後のいわゆる「自虐史観」に対抗する、
または、ナショナリズム的な情緒にあふれた本、
そういう感想を持つ方が多いことかと。

しかしながら、この本で理解したことは、
他国の「君主制」との相違点。
なぜ、天皇制は父系の系統を守ってきたか、という事実。
さらに、天皇が行っている「祭事」に関することなど、

もちろん自分は、世代的に、天皇制否定に塗り固められた教科書で学んだ口です。
が、あまりにも、知らないことが多すぎる。
知らないで、ああだこうだも言うもんじゃないよな、
ということを、反省せざるを得ない。
かといって、「感化」されたというのではないが...。

イギリスとかデンマークなど、その君主は、そもそも「OO家」という
姓を所持していることから、姓の無い日本とは異なる。
そして、あちらは、大富豪をもって、任につかせる。
さらに、宗教を背景にして、
議会を含む「執行部隊」と、各種の契約をしつつも、
その権力者とのバランスを、補完するものとして、成立している。

  つまり、最高権力者には、何か「人事を越えるもの」「人間の次元を超えるも
  の」によって、内面からの歯止めをかけなければならない。道徳、モラル、宗
  教、そういった精神的なもの、「神秘的なもの」で拘束しなければならない。

異論はあるかもしれないが、多分、そういうこと。
一方、日本の君主は、「祈る君主」。
過去に、軍備を傍にして、力を示した時期も、あったと記憶するが、
その長きに渡って、確かに、天皇のポジションは、
祭礼が中心だった気がする。

五穀豊穣から国家安泰に至るまで、皇室祭事は、日常のものから、
特別なものまで含め、日々、祈りまくる。
そういう存在であることを、今更ながらに、知った。

確かに、天皇制と聞くと、戦争だ、侵略だと、
条件反射のように反応する方々がおられるし、過去の忌まわしい記憶を、
天皇を「頂点」にしたシステムに帰そうとするのも、知っている。

ただ、個人的に言わせてもらえれば、
日本というのは、過去に2度程度しか、世界にうってでていない。
日中戦争と、例の秀吉の事例か。
つまり、「たきつけられなければ」、実は、何もしない。
平和こそが一番だと、身の丈を超えることを、決してしない、
慎ましやかな「民族」なんだという事実。

立地環境だとか、地勢的なものをいわれる方がおられるが、
現に島国であるイギリスを例に出すまでも無い。

ハンチントンの事例が適当かどうか、わかりませんが、
世界の主要な文明として、独立して「日本文明」をあげ、
その特殊性を、明らかに、区別して考察しています。

別に、これだから、日本て凄いだろうなんて、短絡的な言い方をするつもりは
決してございませんが、
考えてみれば、この国って、宗教が透明なわりには、
何かのために、祈る。

実家の両親も、実は、引退後、不肖の「私」のために、
日々、祈っていただいているそうで、
実は、我々って、確かに、そういう歴史的なありようを、色深く持っていた。
そもそも、天皇自体も、ひたすら祈っている。

みんなが、豊に、平和で、暮らしていけますように。
これが、この国の、モラルでもあり、道徳ではなかったか。

自分としては、こういう日本であれば、
こういう歴史をもつ、日本であれば、無条件に、受け入れる。
間違いなく、「愛する」。
そして、本当に、誇りに思う。

何かを、誰かのせいにしたり、何かを否定するばかりではなく、
こういった「心」の置き所を、
例えば、天皇に求める作法であっても、
こういう視点で、理解することが出来るのであれば、
なんだか、心が洗われる気がするのだ。

我々は、あの戦争を終えて以降、あまりにも大きな、何かを、
失ってきたよう様な気がする。


スイングガール、テレビで見ました。

2007年02月26日 | 本・映画
昨晩、映画「スイングガール」を見た。
「のだめ」のテレビドラマは、映画出演者というか、
上手い具合に、コラボされていたんだなぁ、と今更ながらに理解。
全然、詳しくなくて、すいません。

のだめを全部見た人間として、そっちを最初に見た人間として、
ごめんなさい。
スイングガールは、何が何だが、映画館で上映できる代物なんだろうか?
という感想に終始してしまった。

よく、DVDなど、リメイクを好んでみるんだが、
例のMI3のメイキングで、唸らせた、作り手の「作業」。
これと比較して、どうするんじゃ、とも言えるんですが、
一つ、勝手に理解したことがあります。

テレビドラマは、かけられる時間やら予算やらで、
コマ割というんですか?
カットカットのオンパレードで、「鬼渡」で評判の「長回し」?
を極力避けるような作り方をしています。

MI3のように、一つのシーンを作るにしても、カメラ10台。
そんな予算や、スペースも人間もいやしませんから、
スピード感やら、緊迫感を含めて、
ドラマでは、カットをつないで、編集の腕の見せ所が、良し悪しにも。

ところが、スイングガール。
テレビなんで、何かがはしょられていたんでしょうか?
展開が、映画だからと、ファンタジー的に解釈してもいいんでしょうが、
ちょっと、それは、ご都合的じゃない?というシーンが目に付きました。

さらに、ドラマとは違うんだ、という感じなんでしょうか、
カットの連続ではなく、長回しに近い映像。
役者さん達が、不慣れなことも、しょうがないかと思いますが、
引いた映像、破綻が目に付いてしょうがなかったです。

30人、40人の全体映像を撮ることの難しさ。
ドラマでは、近くに寄った映像で、何とかクリアできそうな問題点ですが、
映画では、あのスクリーンです。
俯瞰した映像やら、全体を見せる映像は、必要なんでしょう。

リアリティーを、全員が出すことの難しさ。
この映画で、実感いたしました。

例えて言うのであれば、テレビドラマと映画の、中間の感じ。
座りの悪さが、ちょっと、目に付いてしまいました。
内容としては、比較するものが自分にありませんが、
テーマが、青春なのか、コメディータッチなのか、本格物なのか、
それとも何なのか、自分の中の落とし所に
当て込むこともできませんでした。

なので、最後の演奏会?。
演奏自体は、非常に感激いたしましたが、
ええっ?それがクライマックスなの?終わりなの?
のだめのほうが、色々な思いが詰まっていたので、
訴求力がありましたが、
スイングガールには、それが、まったく、なんていうか、無い。

映画に関しては、もう、本当に素人なんですが、
それにしても、映画作りは、難しく、大変なんだなぁと、
つくづく、そう思ってしまいました。
言いたい事を言って、すいません。


しがらみのない「有権者」に期待?するしかない。

2007年02月15日 | 本・映画
まだ読みかけの段階なんだが、
田中康夫氏の「日本よ」という本を読んでいる。
本日は、宮崎県知事の東国原氏の所信表明があったようだが、
「しがらみのない」県政というものが、
どういうものか、この本を通して、少し理解できたようだ。

彼が本であげている統計だが、
これだけ、地方財政の財政難を言って、小さな政府を国が標榜している中で、
「1995年を100として、2004年までの十年間の歳出総額を
 国と地方で比較します。
 国の歳出総額は108.1%と増加しています。
 他方、地方の歳出総額は85.6%と減少しているのです。」

これと同時に公務員の数の数値をあげているが、
国家公務員の数は、2001年を100とした場合、
1.5%減、に対して、地方公務員は7%減。

一方で、独立行政法人の平均給与は、国家公務員の給与を100とすると、
107.4%と、いわば焼け太りをしている、などの数値。

彼は、新党日本の党首でもあるわけで、野党的な発言を了解した上で
読み進めなければならないが、
自民党が進めてきた「構造改革」は、
どうにもこうにも、国の放漫経営の「つけ」を、
地方財政を名分にして、尻拭いさせている?そんな感じを受けるし、

本当に財源移譲をさせたいんだったら、
徴税機能は、全て、地方にやらせて、国への配分を、後渡しすればいい話。
まぁ、中央集権国家体制が崩壊するのは目に見えているんだけど、
さらに言うと、独立行政法人が、
音を立てて崩壊していく「効果」もありそうだけど。

さてさて、県知事が、このように、行ってきたことを、
考えていることを、かような本にまとめることなんて、
多くが出来ることではないだろうけど、
田中氏が、事実、行ってきたことが、非常にわかりやすく書かれている。

そして、国からの助成金を、排除しながら、県政というものが、
どのように出来て、維持できるかも、可能性を示してくれる。

ただ、昨年の選挙で、財界からの支持を失った理由も、よく理解できた。
だって、国からの助成金や、補助金を当てにしなければ、
特に、金融機関なんて、ただの「箱」です。
国が、何十億もの金を、車で持ってくるわけではないからね。

支払いの決済だって、地元の金融機関を通すわけで、
手数料収入だって、減収するだろうね。
さらに、補助金で建てる、何するにしても、地元の会社には
彼が言うように、3割程度の仕事しか回ってこないのも事実で、
多くは、都市圏のメガ企業が持っていく。

とはいえ、そういう「規模」の公共事業は、端的に雇用を生じもし、
税収に寄与することはないけれど、
金融関係や、地元の「経済」には寄与するのは確実。

彼は、確かに、「やり過ぎた」のかもしれない。
キャラクターが、万人に受け入れられるとはとても思っていなかったが、
ばっさばっさと切捨てた事業なり補助金。
手作りの公共事業。

長野県の市長、村長など、田中氏を支持する者がいたのは、
事実でしょう。
リーダーは、彼の手法を見て、感じ入ることがあったはず。
でも、選挙には、勝てないかもしれない。

そうなると、いくら高邁な理念なり、手法を持っていたとしても、
マスコミも、財界に媚を売っているし、
金融関係も、中央に媚を売っているし、
産業に携わっている人たちも、財界、中央に逆らえないし、
「大人の利害関係」って、
考えれば考えるほど、盗んだバイクで走り出す若者の気持ちがわかろうというもの。

結局、しがらみのないのは、「有権者」という結論になるんだが。
だめかな、若者たちは。

ミッション・インポッシブル3 を見ました。

2007年02月11日 | 本・映画
トムクルーズのミッションインポッシブル を見た。
相変わらず、テンポのいい展開で、
こういうのを娯楽作品というんだなと、楽しむことができた。

もちろん大好きなメイキングも見たんだが、
最近の映画って、本当に凄いなと、まさに口あんぐり状態。
とにかく、貪欲な撮影には、カメラを常時、10台前後使用。
スタッフの数も、それこそ半端ではない。

CGは当然とはいえ、リアリティーを出すために、
実寸大の橋は作るは、バチカンの壁を作るは、工場を再現するはで、
いやー、どんだけ手間隙かけてんだという作品。

自分がスタントをこなすことで有名なトムクルーズ。
危険なシーンを好んでするかのようで、
まるでこの辺りは、アメリカのジャッキーチェーンであろう。

振り向く彼の、開けた口から「すかっと」こぼれる白い歯。
かくっ、かくっ、と微妙な角度をつける顔。
どうしても、どこかしらがさわやかなもので、不気味な表情ができない。

なもので、色気とか、オーラーが漂う感じは、毎度ながら受けないんだが、
この「ミッション」は、トムクルーズしか、
演技はできないと、確信をもって言えそうだ。
彼以外、誰にも、リアリティーは出せないんじゃないだろうか。

あんまり見ていないんだが、
大掛かりなハイテクを使って、というより、それが18番の007よりは、
個人的には、こじんまりとしたハイテク仕様のMI3の方が、
ディーティールも細やかで、好きです。

ストーリーも、このテンポであれば、
なぜ、どうして、ここが?、という疑問も立ち起こりません。
何重もの裏切りを、ベースにした、いつもの仕様ですが、
今回も、ええ、騙されました。
最後まで、わかりませんでした。

今回は、役どころのイーサン。
一般人と、めでたく結婚という、それが初っ端の展開ですが、
彼が育てた部下が、敵に捕らわれ、
現役引退で、教官を務めていた彼に、いきなり現場復帰の指示。

まさに1泊2日の、緊急出張。
彼女には、信じてくれ、という言葉しか残せませんが、
今度は、2泊3日。
これじゃ、普通の彼女であれば、関係を修復することは不可能でしょう。

そうとはいえ、こういうスパイ物ですから、
基本的には、各登場人物は、「頭がいい」設定です。
そのために、台詞も、「痛い」台詞はご法度ですが、
己の置かれた状況を、それぞれが、回転良く、そして、適度にクールに
与えられていて、
これも、間延びを防いでいます。

監督も始めての映画だということですが、
ロケ地にも、リスペクトが感じられるカットや、
1つのシーンを、ワンカメで済ますこともなく、
右、左、上、下、斜め、なんて感じで、気配を感じさせる映像は、
なんだか次の作品、期待できます。

前回の方が面白かったよと、友人から借りたものなんですが、
そうかなぁ、個人的には、これも、面白かったです。
私生活では荒れ模様だというトムクルーズですが、
制作のスタッフからは、かなり信頼されもし、尊敬を受けそうな
役者さんだと思います。

結局、金儲けを支持する、この国の金融システム

2007年02月04日 | 本・映画
数年前、失われた10年だとか、不良債権の処理だとか、
公共事業の拡大をとか、様々に論議されていたとき、
「エコノミストは信用できるか」という本を出され、
当時は、新鮮な衝撃を受けました。

「金より大事なものがある 金融モラルの崩壊」 東谷暁 著 文春新書

  アメリカ主導の金融規制緩和が進み、ファンド資本主義へと移行する日本。
  金融モラル崩壊が金の亡者を英雄にする。続発する金融事件に対し、なぜこの
  ような事件が起こったのか、これからも起こるのかを検討する。

本当に、ファンドという言葉に代表されるような、金融システムは、
この日本にとって、これから、必要不可欠なものなのか。

規制緩和だ構造改革だ、富の拡大が、全てに勝る。
国家財政、地方財政の、破綻懸念も、社会福祉も年金も、
再配分を効果的になすために、最優先で「学ぶ」必要なる物として、
ファンド資本主義は、どうやら、この国を席巻しつつある。

ところが、村上ファンド、日銀総裁に代表されるように、
「儲ける当事者に対して」だけ、やっかみを含んだ、そして、モラルを
問うような、マスコミの取り上げられ方があるようだが、
問題は、そこに、あるのだろうか?

どうやら、アメリカの「要望」に沿った、金融規制緩和は、
個人のモラルを、どうのこうのと、問題にしようとも、
すでに、どうしようもない「根」を、この国におろしてしまったのではないか。

この本でも取り上げられているが、「三角合併解禁」「LBO」「M&A」
など、それが、案外、エコノミストと称する人間達や、
経済専門という政治家やら、マスコミに登場する識者、学者など、
「遅れている」日本を改革するものとして、素直に評価している。

ところが、現在、当のアメリカでは、そういうファンド資本主義の「手法」が、
結果的に、経済を「萎縮」させ、違法行為を増加させた、という観点で、
規制の見直しを始めているという事実。

さらに、「富」の増加は、なんだか上昇しているが、
どうやら労働生産性が、下がっているという事実。

つまり、ホリエモンがどうであれ、福井日銀総裁が何をしようと、
結果的に、大もうけしているのは、それらをサポートし、莫大な手数料を
せしめている「金融機関」であるという、事実。

先の王子製紙による、北越製紙の「敵対的買収」。
日本でも本格的なM&Aの時代が来たと、あの日経新聞でさえ、諸手をあげて
賞賛していたが、
何のことはない、善玉を仕掛けた「王子」、悪玉を視野の狭い田舎企業として
「北越」をという構図で喜んでいたのもつかの間、

「王子対北越では、両者の主幹事でありながら野村證券は王子のM&Aコンサル
 ティングを務め、北越を攻撃する側に回った。
 コンサルや証券、投資銀行が手数料稼ぎのために、立場を忘れ、
 企業にM&Aをけしかけている面は否定できない」

という事実が明らかになって、双方の企業が、
何のことはない、結果的に、疲弊してしまったという事実。

我々は、何かを生み出すものとして、企業で働きもし、
生み出された製品を使用もしてきた。
作り手と使い手が、意思を通い合わせるような、そういう社会が厳然とあった。

だからこそ、先人を敬うような価値観にもつながり、
たおやかなコミュニティーの源泉でもあったことは、紛れもない事実で、
定年者を温かく送り出すことに、なんら、疑問はなかった。

今、我々に価値の変換を迫る、あらゆる経済的な事象は、
全てが、お金という「価値」に置き換えられ、
会社といえども、中身はどうあれ、働き手がなんにせよ、
株価というのっぺらなまな板の上に、乗せられてしまったことだ。

まさしく、どんな「部外者」であろうとも、
歴史にも、エピソードすらにも、関心のない無表情な機関によって、
どうやら無造作に、我々は「値踏み」されてしまう。

それは、我慢が成らない代表として「堀江氏」「村上氏」をあげるが、
どうやら、多くの人間は、この社会を構成する仕組みが、
大変なことになりそうだ、
そう気づいたからに他ならない、そういう不安を投影したんではないか。

稚拙なことを申しているようで、気恥ずかしいが、
どうやら、ファンド資本主義という世界は、
まさに、「金儲けは悪いことなんですか?」という言葉を
完全に肯定してしまう世界のことで、
人と人との、本来持ち合わせるべき、トラスト、信用をも断ち切ってしまう、
なんら合意が必要のない、世界であるということを知るべきであろう。

実は、あらゆる先進国は、その危機を感じ、手を打ち始めているが、
この国といったら、まさに、無自覚的に礼賛している。
我々は、例の「額に汗を流している人を守る」という言葉を、
失笑をもって聞き流していたが、
どうやら、誰にも笑えない世界が、間近に迫っているようだ。


人口減少は、生物の本能か、目標喪失なのか?

2007年01月29日 | 本・映画
柳沢厚労相が、また、とんでもない発言をして、日本中の顰蹙を買っている。

この先、少子化は、年平均80万人ともいえる「人口減」、
毎年、佐賀県やら福井県が、丸ごと消し飛ぶ世界がやってくる。

65歳から年金受給者。
この世代は、総じて200万人という人数が、毎年、繰り上がってくる。
なのに、15歳からを就業人口に繰り入れる統計もおかしなもんだが、
簡単に言うと、100万人強の人数が、単年齢で見ると、
支える人数ということになる。

すでに、2人で1人を支える年金というのは、かなり現実のもになってきている。

そういう意味で、出生率が、この先、1.3に上がろうが、1.5にあがろうが、
2.02まで上がらないことには、
数万人、子供が増えようが、
根本的な解決にならない。

要するに、我々が、集団として、この国というまとまりを、維持するために、
どうしたらよいのか、
そういうことが、まさに問われているのが、この時代なんである。

税金が、社会保障費を含めて、負担率が40%近く、過去最高になった今日、
一方では、経済の伸びを最優先にとする声があり、
そこであがる収益の「再配分」を、維持しようとする。

一方では、コンパクトに、衣食住にかかるコストの低減をいい、
世界的に、総生産の過激な上昇は、むしろ過去のもので、
縮小する日本にあったスタイルを模索しようとしている。

少子高齢化でゴミが増える。
こういう謎解きにも似た分析結果が環境省より出される。
同省が最近5年で人口が減った都道府県を調べたところ、64%でゴミの量が
増えていた。
原因は「高齢化」。
1人が出すゴミの量は年齢が上がるほど膨らむ。

大阪では、あいりん地区の3000人にものぼる、ホームレスの住民票問題。
「釜ヶ崎解放会館」に、約3300人の住民登録がなされている。
仕事を得るためにも、何をするためにも、住民票が必要という、
その中で、仕方なくとられる方法でもあったんであろうが、
実は65歳になると、自動的に、生活保護の「資格」が得られるという。

最低でも12万円の支給が、その住民票を持ちえる人間に支払われる。
インタビューによって、あと、何年、そういう月日を待つ「労働者」が、
テレビの映像に写し出される。

実は、こういう連綿としたレポートが、
この国で、将来、本当に幸せに生きていけるか、という暗然とした指標を
示している。

何のために、仕事をし、家庭を持つのか。
虫のいい話をするわけではないが、
「ここまで頑張れば、ここから先は、ゆっくりできるよ」
という目標が、今までは、確かにあった。

そういう父の姿や、世間の姿を知っている。
そういう、日本の仕組みを、感じていたのは、紛れもない事実である。

なんでも自由に、最後を決めるのは、あなたです。
という「精神的な構造改革」が、どうやら行われているようだが、
結果的に、お金を稼いで何が悪い!
という集団を生み出したに過ぎない。

どうやら、人間は、集団で共有できる「目標」なりゴールがないと、
どうも、不安定やら、精神的な不安感を感じるようにできているらしい。

そういう諸々が、どの国においても、「少子化」の大きな原因であるらしいのに、
先の柳沢大臣のように、
まさに、国の政策を「委託」されている、政治家の端くれの癖に、
すっ飛ばして、こういう発言をするなどとは、
この世代が、総じて、女は黙って子供を生んで育てるもの、
という感覚から離れられない、本心と見るべき。

とはいえ、この方も、何も考えずにやってきたら、どうやら、世界で一流の
生産性を誇る国に所属できたが、
えっつ?この先?どうするって?

.........愛国心じゃないっすか、ボランティアさせるしかないんじゃないっすか
程度の方法論しか持ち合わせていないんだろう。

「人口減少 新しい日本をつくる」 日本経済新聞社刊 参考

結局、老後は自由で、楽していいよ!っていうことでしか、
将来を語れないと思うんですが、誰も、それを怖くって、言いえてないのが、
笑えました。
にしても、非常に参考になりました。

記憶と語彙とコミュニケーションスキルと。

2007年01月20日 | 本・映画
持ち歩きの本を忘れてしまったので、たまたま購入。
全ては読んでいないのだが、

「頭は必ず良くなる」 日垣隆著 WAC刊

身も蓋も無い、出来れば手に取りたくないようなタイトル。
ただ、対談集ということで、池谷さん、岸本さんなど、話を聞きたい方が
登場していたので、よしとする。

池谷さんは、糸井さんとの「海馬」という本で、存じ上げていて、
今もって、一番好きな「脳科学者」です。
岸本さんは、もっといい写真がなかったのかなぁ、という写真が使われていますが
「見える学力、見えない学力」の本の著作者。
どちらにしても、「こういう言い方で言われると、納得がいきます」
の内容を、惜しげもなく、語ってくれます。

神経細胞は、生まれたときをピークにして、どんどん数を減らしていきますが、
細胞間の「神経ネットワーク」は、逆に、どんどん強化されていく。
1つの神経細胞からでている「枝葉」は、平均すると1万。
小脳では、1つの神経細胞につき、最大10万まで枝葉が伸びるそうです。

10万だよ。
あの小っこいのから。凄くない?
その神経細胞が「級数的」に結びついて、いわゆる記憶を「作り上げていく」。
そのため、コップという物体に関しても、
ジュースが入った、冷たい、気持ちのいい、黄色い、硬い陶製で、食卓にあって、
食事の時で、なんたらかんたら.....。

こんな風に、コップひとつとっても、「連合記憶」は、
人によって、千差万別に、持っている感覚が違う。という話。
それだけ、あらゆる情報が、補完しあって、「記憶」というものが
作り上げられていく。

そういうことなんで、人間は、経験をしていくということが、何より大事で、
勉強にしても、覚える、というのは、脳的に経験をしているわけで、
徳川家康ひとつとっても、いくつもの神経細胞のネットワークが、
あたかも立体的に手を組んで、記憶を形作っている。
むしろ、そういう記憶は、定着している。

頭の回転が速い人は、1つの事を聞くと色々なことをすぐに連想できる。
連合された記憶をたくさん蓄え、その記憶を「移転」することができる。
というのは、そういうことであるらしい。

で、岸本さんが仰るには、
見えない学力、ということなんだが、これは置いておいて、
一応、辞書的には、世の中には10万語がある。これをベースにすると、

大人の会話が成立するためには、最低3万語の語彙がなければ難しいとの事。
ちょっと学力が高い人は、5~8万語も知っている。
「6~7万語まで語彙を伸ばそうと思ったら、親との会話だけでは難しい。
 読書を通じてしか身につきません」

というのは、語彙が貧弱であると、どうしてもコミュニケーションが雑になる。
「親が普段どんな話し方をしているのかが、子供の語彙に影響を及ぼす。
 最近の親の話し方には主語と述語がありません。それで、だから、しかし、
 けれども、だが、といった順接や逆接の言葉が使われません。
 粘土を投げるように、ダメよ、そんなこと!とか、やめときなさい、
 またこんなことをして、はっきりとした文脈でモノを言わなくなっています」

で、池谷さんの話なんですが、
人間、記憶をするためには、必然として、言葉が重要です。
もちろん、イメージも大切ですし、言葉に置き換えることができないものも
ありますが、神経細胞がネットワークを構築していくためには、
当たり前ですが、言葉が必要です。

もちろん、独立して言葉はありません。
あらゆる連合的な関連があって、初めて成立するものです。
単純化はできないことなんですが、
語彙が足りない、ということは、もっというと、ひょっとすると、
人間同士の「機微」すらわからない可能性もおこるわけで、

どうしてこういう雰囲気なんだろう、ということ一つとっても、
普段から、知らない、関係ない、つまらない、なんて投げっぱなしの状態だと、
それを理解する、言葉も経験できなければ、
独善的なコミュニケーションしか、取れなくなってしまう可能性があることです。

先日、書いたことを持ち出しますが、
最近、なぜ、自分が怒られているのか分からない子供が増えている。
決定的に価値観自体が、変容している。
それも、短絡的で、独善的な発想で、なおかつ、自分の気持ち自体、
ちゃんと伝えることができない。

どうして、そういう行動をとるのか。
自分でも、不明瞭なまま、そういう気分だからしているのだ、と。
そういう人間が多くなっているらしい。

ということで、自分のことすらわからないので、
ましてや、相手のことなんて、理解すらしようとしないし、
独善的にしか「判断」できない。

確かに、映像的なテレビやゲーム浸された生活環境では、
はっきり言って、コミュニケーション自体、経験できていない、
相手と、感応しあって育てていく「言葉」も獲得できない。経験できない。

言ってみれば、案外、言葉がもつ、重要性に気づかされます。
記憶というもの自体、神経細胞のネットワークで成立する。
それは、経験やら言葉やらで、あのちっこい神経細胞が、何万本、
枝葉を出すことができるか。

大きな「木」は、どれだけ、深く、広い根を持つか。
そういう比喩の中で、自分の脳は、どういう「木」に育っているのか。
例えですが、勝手ながら、その一つの尺度として、語彙、というものに
置き換えて見ました。

頭が良くなるなんてタイトルの本ではありますが、
本来的に、人間がベースとして、獲得していかなければならない、
そういう基本的なことを、学ばさせてくれる内容でした。
今の、教育環境、学校教育に関しても、ストンと理解できる話もありますが、
岸本さんの、父親像、父権に関しては、多分、論議を呼びそうですが、
言っている意味は、非常に理解できます。

重力があってこその、この肉体。

2007年01月12日 | 本・映画
ちょっとした興味で読み始めた本。
宇宙旅行に関して、お手軽体験が、お手軽な金額でできるようにはなったが、
本格的な宇宙旅行。
この本を読むと、まだまだ、先は長そうだと。

「宇宙飛行士は早く老ける?―重力と老化の意外な関係」 
 ジョーン・ヴァーニカス著 向井千秋/日本宇宙フォーラム監修 朝日新聞社

  過酷な訓練に耐えた宇宙飛行士が宇宙から戻ってくると、その肉体に年老いた
  人と同じような兆候がみられるのはなぜなのだろう。無重力状態で宇宙飛行士
  の肉体に起こる変化は、老化の症状とあまりにも似ている。
  立っていても座っていても、歩いたり走ったりしていても、私たちを地面に引
  きつけている重力は、私たちの骨や筋肉や身体の感覚をいつも刺激して、良い
  状態に保つ働きをしているらしい。だから重力の影響を受けない宇宙空間で
  は、宇宙飛行士は一時的に老化してしまうのだ。

途中、この本は、サプリメントの本かと思うくらい、
その手の情報が満載です。

それくらい、人間の体が、「化学反応」の塊だと言う事を、教えてくれる本、
でもありますが、
「重力」というものが、これほどまでに、人間が人間たる「形」なり、
「存在」に大きな影響を及ぼしているとは、思いもしませんでした。

宇宙飛行士が帰還。あらゆるチェックを受けるわけですが、
「骨」の重量が30%近くも減る。
それに応じて、筋肉の量も、毎週平均で1%前後減っていく。
つまり、重力の影響を受けない環境下では、
この当たり前だと思っていた、ボディーが、圧倒的な変貌を遂げてしまう。

こんな例が載っていましたが、
体を起こすと、当然血液は下に引っ張られます。
体のセンサーは、即座に「血液が不足」のシグナルを出し、血液の量を
体中の水分を使って、まさに水増しをするそうです。

一方、体を横たえると、重力がフリーになります。
当然、血流は、上半身に圧力がかかるわけです。逆立ちもそうですが。
すると、血液が増加したというシグナルは、水分の排出命令を出すそうです。

このことで、プールに入ると、尿意を催す、なんてことが、
化学的に理解できる。
よって、こと水泳選手であっても、どこかで必ず、重力を取り戻さなければ、
そのまま長時間遊泳していると、血流関係にトラブルが起こる可能性がある。

当たり前ですが、地上で、無重力状態のデータを集めることは至難の業です。
そこで、長時間、ベッドに、ただ横たわるだけ、というボランティアを集め、
できる限りのデータ収集。

ということは、ベッドに横たわっている病人も、ある意味、宇宙旅行者と
同じ変化が体に起こるという訳で、
実は、骨量の変化も、体液も、筋肉の質も、ホルモンバランスも、
おおよそ劇的に変化する。

だから、以前のように、療養目的で、ベッドで安静になんてことが長かったが、
これは人間として、長ければ長いほど、致命的な変化を伴う。
最近、治療後、手術後、すぐにリハビリを行うことを勧められているが、
この本を読む限り出において、非常に納得。

こういう「重力」に焦点をあて、肉体の成り立ちをみせてくれる本は初めて。
宇宙空間という、まったく別物の環境があってこその比較学なんだが、
にしても、重力があって初めて、音も、味覚も、反射能力も、いわゆる五感が
働くなんて、言われるまで、ちゃんと理解していませんでした。

ということは、スペースコロニーやら、宇宙空間での生活は、
「重力」の問題を片付けない限り、かなり難しいということ。
さらに言うと、1Gという環境下でなく、万が一、もっと軽い重力下で
子供を生んだ場合、育つかどうかということも含めて、
難問であるらしい。

次世代に始まるであろう、宇宙生活、なんて思っていたんだが、
これを読むと、まだまだ、遠い夢物語なんだなぁと、実感いたしました。
サプリ好きの方にとっても、読み応えあります。


「祭り」の国、日本。

2007年01月06日 | 本・映画
1月3日午後3時。初詣。川崎大師に向かう。
順調に、年末年始スケジュールをこなし、残りは、初詣だけだ。
これを後回しにするのも、どうなんだというご意見もあろうが、
当家の事情では、これも、「グッズ」収集の一環に位置づけられていて、
基本は、ディズニーと、なんら、変わらない。

にしても、なんで、こんなに混んでんだろう、という混み具合。
そもそも道幅が狭く、通路一帯、民家が所狭しと並んでいるが、
治安が善い悪いを大幅に超えて、「退避」しなくては、のんびりできないんじゃ
ないか?と思わせる状態。

そんな中、例の、あれが聞こえてくる。
「聖書のメッセージをお伝えいたします」
スピーカーを大音量にして、いかにも「暗い」トーンで、ひたすら「悔い改めよ」
お前は間違っている!を繰り返し流している、あれだ。

数人が、立て札を掲げ、終末は近い、みたいな文言をそれに書き記し、
堂々と、大変な「群集」の中で、こちらに顔を向けて、ひたすら立ち止まって
いわゆる「布教」をしている。

すげえな、キリスト教。
まるで、ディズニーランドに、キティーの被り物を装着して行くようなもんだ。
ただ、色々調べると、どうやら異端の方々らしい、
ビザ目的でやっている方々らしい、とか、本家(といってもよくわかりませんが)
の方からも、何かと嫌な連中と思っている節がございます。

とはいっても、日本では、なんかの行事が、すべてイベント化してしまう。
初詣も、端午の節句も、バレンタインデーも、ハローウインも、クリスマスも、
七草粥も、そろそろイスラム系のラマダーンも、どっかが火をつけそう。
まったくもって「はれ と け」という祭りと日常を区別するのが
どうやら大好きだ。

大して知識がないので深入りは出来ないが、
こういう何でも取り込んでしまう「受容力」豊富な文化も、
世界的に見ると珍しい。
イラクでも民族間の紛争がよく報道されるが、
そもそも字面だけで、根本的に何が、どう、問題になっているのか、
理解している、理解できる人は少ないんじゃないだろうか?

「オフレコ!別冊[永久保存版]昭和史のカラクリ「戦争」「天皇」「靖国」を徹底検証!」

という雑誌を読んで見たが、
読後感として、「国のために命を投げ出す」ということは、
どういうことなんだ、ということが、問題になっているような気がする。

当たり前だが、今、こういう感覚を持っている人間なんか、
この日本には、ほとんどいない。
せめて、犯人にやられて「殉職した」とか、災害時に救助で向かったが、
巻き込まれた、というのが、身近な例であろうが、
全然、意味が遠い。

大陸とは異なって、日々、隣国と戦いあう環境にいなかったせいもあろう。
あのアメリカだって、9.11テロ、もしくはパールハーバー。
これくらいしか、本土攻撃を受けていないから、
なんだか、バーチャルな感じで、乗り込んでいっているようにしか思えない。

あまり指摘されていないようだが、あの当時の日本だって、
諸外国から、攻撃を受けた記憶が、実は、無い。

日清、日露だって、日中戦争でも、日本が戦火に巻き込まれたことが無い。
これは、バーチャルだと言っても過言ではない。
例えが悪くて申し訳ないが、ワールドカップと、気分は似たようなもんだ。

初めて、アメリカから受けた攻撃で、初めて「戦争」というものを
一般大衆は、実感できたんではなかろうか?
もちろん、それまでに亡くなった方々の遺族のリアリティーは言うまでも無いが、
年配の方々が、今更のように、「天皇」「教育勅語」やら、「戦時思想」とか
仰るが、そして「靖国神社」のこともそう。

失礼なことを言うようで、NGかもしれないが、
寸前まで、祭りのように、案外、傍観者的な、サポーターだったんじゃないのか?
本来の「戦争」という、世界で語られる「本質」から、
ひどく、遠い、感覚でやっていたんじゃないのか?

だから、なんだか、戦後も歯切れも悪く、総括もままならない、
ずるずるっとしたなし崩し的な喪失感と、罪悪感がごちゃ混ぜになって、
「何をやっていたんだろう」的な収束をみせてしまったのでは。

今、盛んに、ナショナリズムとか、なんだかと、色々とにぎやかだが、
ごめんなさい。
自分、ちっともよくわかりません。
これも、いつもの「祭り」のような感じで、
どうやら「日本」をとか「愛国」をとか、言っているだけのキャッチフレーズで
世界標準から見れば、「何それ」という程度のものでしか
ないように思えるんですが。

参拝に、長時間、並ばされて、あげく、おみくじと、お守りをゲット。
そして、屋台の「炭水化物」を楽しく摂取して、
忘れていました、お賽銭とお祈り!!!!!!
何のために2時間も並んだんだ!!!!!

思うに、この国は、こういう感覚、ずーーーと長い。
識者が、世界と当てはめて、日本を語ろうとするが、
どうしても無理があることを、前提に作業した方がいいんじゃないかと、
ついつい、じゃがバターを頬張りながら、考えてしまいました。


ワールドカップの文化について、だと思う

2006年12月28日 | 本・映画
「敗因と」 金子 達仁、戸塚 啓、木崎 伸也 光文社

ドイツワールドカップに関しての本。
買ってしまいますよね。当然のように。
でも、1500円という金額は、高かったような。

金子さんのブログから派生したということ。
知りませんでしたが、すでにネット上では有名だったんですよね。
金子さんの一連のサッカーに関するノンフィクションものは、
素人ながら、いつも楽しく読ませていただいておりました。

自分が、サッカーを語るには、あまりにも「常識的」な作業ではないので、
読みました、ということでとどめておきたいです。

ただ、今回のテーマなんですか、
以前とは違って、誰かに語らせるというのではなくて、
大勢の人間から集めたインタビューを「集めて」、
何かを浮かび上がらせようとしたものです。

よって、匿名的で週刊誌的な部分も多く、ということを言うものがいた、
みたいに、詳しい人であれば、ひょっとすると「物足りない」かも。

あまりにも「酷すぎる」と言われているらしいんですが、
ワールドカップが終わった後に出される
日本サッカー協会「JFAテクニカルレポート」。
本当に検証しなくてはならない、そして、次につなげるための、ものであるべき
このレポートの酷さを「補完」する意味合いで
書かれた感もあります。

結局、チームとしてサッカーをすることができていなかった。
という点について、様々なタイミング、出来事、を介しながら浮き上がらせて
いきます。

そして、監督してのジーコについても、様々な「声」を通して見て行きますが、
3人の著者のうち、一番若い木崎さんの章は、
この「ばらばら」であったチームの「根」の部分を語らせるには、
ちょっと、ちょっと?だったような。

ただ、どこかの国のメディアが言っていたように、
「オーストラリア戦での戦術のことで、ジーコに対するちょっとした批判も
 あります。(中略).....ただ日本での彼に対する批判はかなりマイルドな
 もので、「あの時はもうちょっと考えても良かったんじゃないか」とか
 「代えても良かったのでは?」という程度のものでした」
を2度も引用していましたが、

我々が本当に、このワールドカップを「体験」する。
そしてこの「文化」を理解して、血と肉にしていくには、
マスコミも含めて、まだまだなのかもしれません。

これも繰り返して書かれていましたが、
あれやこれやと、痛がっている、ケガを平気で言っている選手の多いこと
多いこと。

自分には、まだまだわかりませんが、
あの日韓大会にも見られた、絶対に負けられない。
そういう気迫が、どうやら、最初からなかったということらしいんです。

監督が悪いのか、選手が、何を満足して、何に不満をもっていたのか
著者は、「あまりにもお子様集団」だったみたいな書き方をしていましたが、
これも、将来に向けての、いい経験だったんでしょうか?
それとも、我々も、何に満足して、何に不満をもっていたのか、
ワールドカップ文化の中では、まだまだ、お子様的なサポーターなんでしょうか?

そういえば、そういう大変なイベントだったということを、
再認識いたしました。

結局、ほとんど見てしまいました。

2006年12月26日 | 本・映画
本当に、アニメのようなドラマであった。
うまく時間が合って、ほぼ全てを見通してしまった。
「のだめカンタービレ」というフジテレビのドラマが、
昨日、最終回であった。

事前に、連載中のマンガの内容を、ある程度仕入れていたので、
場面場面に、大きな驚きはないものの、
そういった意味で、キャストも作り手も、比較を受け止めながらの「演出」。
さぞや大変だったんだろうな。

にしても、初めて、認識いたしましたが、主役の一人、玉木宏さん。
個人的で、稚拙な表現で申し訳ないですが、
阿部寛さん以来の衝撃でございました。
ええ、面白すぎるという、真面目面白役者さんとしてですが。

この玉木さん、台詞はともかくとして、
表情にかぶせながら、本人の「心」がナレーションで入る。
この技法、なんていうんでしょうか?
これが、最高に面白かった。

他の配役さんが、ハレーションをおこすくらい、はじけた演技なんで、
いわゆる「大根系」の役者さんたちが、たどたどしい棒読みでも、
ぎこちなくても、それらが、鳥肌もたたず、妙に、はまっていて、
「学園」もの自体に、慣れ染まっているのか、
自然に鑑賞できました。

もちろん、サントリーホールとか、そういう文化的で、オーケストラなんぞ、
眺め渡した人生で、接点が薄い世界なんですが、
聴いたことがあるクラシックなど流れると、妙に、集中できたりします。

ホルストの惑星などは、一昨年ですか、平原さんの「歌」以前、遠い昔、
東京12チャンネルの「大江戸捜査網」の後、
洋画劇場でしたっけ、そのテーマ曲でもあったんで、
優れた「幼児体験」ができていたんですが、
その後に、何の、開花もしないで、ここまできました。

そんなことはどうでもいいですね。

野田恵の家族が、最終回、(前にも出ていたんでしょうか?)
大騒動しておりましたが、
最近、こういう「端役的」な出演者が、非常に、込み入った、
そして上手い演技をされているのが、多いですね。
しかも、1回だけの登場だけとか。

また、登場人物が多く、こういうのも、個人的に大好きです。
最後まで、音量を絞っていると、何を喋っているのかわからない、
竹中さんの、妙なイントネーション。
これだけ「ふさふさ」の配役は、久しぶりだったんではないでしょうか。
高くした鼻が、なじんでいました。

眼窩に凹凸が無く、まるでのっぺりなんだけど、鼻だけ異常に高い外国人顔も、
まんがチックでしたが、
あの目の鋭さは、さすが竹中さんで、相変わらず、大好きな役者さんです。
背筋のきりっとした、わざとらしい立ち姿は、
案外、まねできそうでまねができない感じです。

当然、追加追加で、特番が組まれておかしくない終わり方で、
もっともまんがの連載が終わっていないので、
当たり前かもしれませんが、パリとか、海外ロケ。
予算がかかるかもしれません。

次の番組が、東京タワーですか。
どうなんでしょうか。
多分、見ないと思いますが。

建築関係について、姿と歴史と問題点がよく理解できました

2006年12月25日 | 本・映画
善し悪しにつけ、非常に参考になった本。
この国は、行政、司法、立法と、とにかく、「建てた者勝ち」を強力に
そして「協力的」に促進し、
地震が何だ、倒壊したらなんだっつうの、景観なんか個人差なんで不問!
まさに、土建屋さん中心の国であることが、よく理解できました。

「建築紛争―行政・司法の崩壊現場」 五十嵐敬喜 小川明雄 岩波新書

  日本社会を揺るがした耐震強度偽装問題。事件の背景を探ってゆくと、極限ま
  で進められた建築法制の規制緩和が浮かび上がってくる。建築紛争の現場取材
  を通して、政官財そして司法が私たちの生活を脅かす構図を描き出す。

章立ても上手く、冷静で、法的な部分も簡易で簡潔で、非常に分かりやすい文章。

考えてみたら、あの耐震強度偽装問題。
今や、どのマスコミも熱を失ったがのごとく、取り上げることをしません。
なぜなら、「官から民へ」という方針こそ、もっとも建築業界が恩恵を授かり、
マスコミも、諸手をあげて、その法案改正を支持していたと言う事実。

日弁連が、何度も危惧を表明していたのにも関わらず、
建築確認の作業を、民におろしてしまった政府。
答弁書では、中立公正な民間機関となる保証について、
当時の住宅局長は、資本の出資関係において特定の企業の支配力が及ばないことを
チェックポイントにあげるが、
日本ERIなどの出資関係は、ゼネコンのオンパレード。

世にも珍しい、企画、設計、検査、確認まで、
どこにも中立な機関がタッチしない、
ずぶずぶの関係で、日本の建築はなされている、
法治国家とは思えない現状が、出現しているということ。

司法も司法で、当たり前だが、裁判官がまた詳しくない。
委員として呼ばれているのが、またゼネコンの関係者で、
明らかに「建築違法物件」であっても、建っちゃったらしょうがないと、
棄却のオンパレード。

マスコミも、考えてみたら、当然、建築会社はスポンサーでもあるし、
本社ビルも、改正法によって、容積率をアップした代物。
しっかり利害関係者だ。
当てにならないのは、言うまでも無い。

自治体がたてるマスタープランも、言っているだけで、
住民の増加、税収のアップが成されるのであれば、街づくりなんて、
考えもしたくない。
県知事の癒着、談合が、建築関係に多いことも含めて、これまた「ずぶずぶ」。

まさに、日本は、壮大な「実験場」になっている。

耐震建築など、世界に冠たる実績と名誉を誇れる技術は、どこにいってしまった
んだろうか?

建築士と呼ばれる資格者が、何の管理もされずに、実は、素人でも
図面をひけて、通ってしまう杜撰さ。
しかも、その数さえ、把握している部署も機関もないというのにはあきれた。
宅建業の免許者のほうが、よっぽど厳しく管理されている。

思ったのは、この国は、面白いくらい安直に建物が建てられ続けている。
そして、ヒューザーの小嶋社長やら、イーホームズの社長が言った言葉は、
案外、この業界の本心でもあり、当たり前の姿だったんだということ。

すごく、いやー、面白かったですよ。

大鹿靖明さんのライブドア本を2冊読みました

2006年12月17日 | 本・映画
「どっちもどっち」
そういう言葉がふいに浮かんだ。
今もって係争中の「ライブドア事件」「村上事件」。
この本は、決して、どちらが正しく、どちらが間違っている、
そうい書き方ではなく、ある意味、1級の経済小説としても堪能できる。

「ヒルズ黙示録―検証・ライブドア」
「 ヒルズ黙示録・最終章」 大鹿 靖明著 朝日新聞社 刊

経団連と政府が推し進めてきた証券を含む、会社に関する「構造改革」は、
不況の日本において、いかに、「外資」と言われるものの、「投資欲」を
喚起させることができるか。
さらに、設備投資もままならない企業に、いかに「金」を振り向けるか。

資本主義の真っ只中におかれている日本は、貯金と年金と国債にしか
目を向けない、ある意味、いびつな大衆の存在が長らくあった。

また、銀行も、担保至上主義で、まるで新規の商品も開発することがなく、
いわゆる系列、財閥、そして株の持ち合いを含めて、
不況であれ、好景気であれ、
何かの片棒を担いだり、後を追うばかりで、
経済をリードするまでもなく、安穏とした存在でしかなかった。

この本に登場する配役は、
外資、そして、IT関連と呼ばれる会社の、若き人間達である。

この本に書かれていることが、本当に事実であるのであれば、
堀江氏、ならびに村上氏は、確かに、時代のエポックメーキングを担った。
彼らのとった手法は、
そのサイズのデカサ故に、目を付けられたと言っても過言ではなく、
どれもこれも、見方を変えれば、
多くの企業がやっていた「合法」な手段であった。

ただ、この数年、あまりにものスピードで改革が進んだために、
今まで日本で、「倫理と規範」と考えられていた多くの考えが、
否定、改変されてきた。

そして、資金を集めるための「方法・ロジック」も
複雑で高高度のものが多く、
手法は、出してが「裏の人間」であれば、ロンダリング手法であり、
「表の人間」であれば、まるで今はやりの、ファンドマネージャーのスキル、
と言い換えてもおかしくない。

それほど、元はお金である。
垣根が、本当に、わずかのもので、ほとんど差異が無い。

一方で、政治家も、寄付金などの規制が厳しくなる一方、
昔ほど、贈収賄に絡む案件にタッチできなくなったのは事実で、
あの日歯事件でも、「国策逮捕」と検察は総力をあげたが、
それすら、「大物」をあげることが出来なかった。

一連の「逮捕劇」の裏で、もっとも迅速な取り組みを見せたのが、
金融庁と証券の世界である。
この反応を見れば、彼らが「犯した」とされる、いくつもの事例が、
実は、今まで解釈次第で「有効」だったという根拠でもあった。

それにしても、情けなかったのは、相対する防戦企業。
フジテレビ、ニッポン放送、TBS、そして阪神電鉄、京阪鉄道などなど。
書かれているように、ほとんど、数名の「素人」が、場当たり的に
入れられた「知恵」を使って、
翻弄しまくっていく。慌てふためいていく。

まさかするわけが無いだろう。
まさか乗り込んでくるわけは無いだろう。
それよりも、あいつに頭を下げるのは嫌だ。
いやいや、それよりもタイガースが優勝しそうなんで、ちょっと忙しいですわ。

読む限りでは、本当に、あと一歩、
もし、日本の銀行が手を回していなければ、
もし、旧世代の日本のフィクサーがホワイトナイトをしなければ、
もし、検察が逮捕をしなければ、
話題になった企業がどうなっていたか、わからなかった。

納得のいくビジョンを出せなかったのは、
堀江氏だけでない。
防戦していた企業も、同じように、新しいビジョンを出せなかった。

あとは、お金を前面に出した、殴り合いの様相が読み取れる。
どっちもどっちだ。

著者は、今はやりの「世代間戦争」をある程度根底にして筆を進めているが、
最近、テレビに出て喋り捲っている堀江氏は、個人的に好きではない。
その一方で、企業の社長が、実は、既得権益に胡坐をかいて、
ほとんど、何も語れないという事実も知ってしまった。

この一連の登場人物を見ながら、
いきなり世代間戦争という気分には、どうもなれない。
むしろ、年寄りと言われている連中が、意外にも「脆く」、
時代の趨勢に「疎かった」という事実が、際立っているように感じられる。

そもそも「ヒルズ族」という呼称ですらも、
いったい誰が、ネーミングしたんであろう。
本当は、いつでも「突破」できるのに、突破しようともしない、
そして、未だに年長者が作り上げた「枠」の中で、
気ままに暮らしている若者が、いるだけなんじゃないだろうか。

つまり、どっちもどっちなんだろうな。


プロ野球は、実は、大掛かりな社会人野球だったんだ。

2006年12月12日 | 本・映画
多くの所で、色々な取り上げられ方をしている本。
遅ればせながら拝見した。

「Gファイル―長嶋茂雄と黒衣の参謀」武田頼政著 文藝春秋刊

読み終わって、凄く思ったことなんだが、
「何て、日本ぽい球団なんだろう」ということ。

昨今「国政」といわれる場で、特に経済の場において、とある国のシステムを
ことさら「模倣」したかのような政策が推し進められているが、
果たして、それは、我々にとって「幸せな」選択なんであろうか?
という声があがっている。

かの読売巨人軍を統括する読売新聞も、
「あの戦争はなんだったか」を執拗に検証しているが、
各メディアが、どうやら行き着いた先は、
個人個人というよりは、そもそものシステムと、増長させた「人気とり」と、
反省も検証もできない、杜撰なシステムにあった。
という読み方ができそうである。

にも拘らず、この巨人軍。
本来であるならば、もっと、スポーツジャーナリストなるものが、
踏み込んで書くべき内容だと思うんだが、
彼らが書けないのは、やはり、この「業界」。
あまりにもの旧態依然のシステムに「安住」している人間の多いからか。

まさしく、戦争時の杜撰な経緯を「糧」にするんであれば、
同一で語ることはできないかもしれないが、「戦う」集団を率いるのであれば
なぜに、それが、何の「教え」にもなっていないのか。
小泉さんの構造改革を検証しているんであれば、
なぜに、それが、何の「教え」にもなっていないのか。

深夜、親会社の社長の一声で、いきなり宴会の場に呼び出され、
芋の煮っ転がしを「ボール」にみたて、
野球をやれと、余興をさせられる。とある球団。

現場のことを何も知らない人間が、まるで「配置移動」のごとく
親会社から「人事異動」で天下ってくる、とある球団。
そういえば、原監督も、「人事異動」だと、再任を託されていましたっけ。

この本は、巨人軍の、第2次長島政権を裏から支えた、黒子と称した「人物」。
彼が残した膨大なファイルをもとに書かれた本です。

組織論、企業論、という側面から言っても、面白くいただける本。
一方で、長島一茂や桑田、野村に関する人物評など、
登場する人物への書き表し方は、他の書物のどの作者よりも、面白かった。

ある意味、長島氏を「貶める」的に読まれる方も多いだろうが、
そもそも、監督という職業ですら、
巨人軍においては、様々な「利害調整」の末に「据えられる」
マネージメント能力の「是非」を、端から問われたことの無い、地位である。

能力あるものは、サポートとしてコーチなどの役職に、適役が配置すれば
結果も異なろうが、
選手時代の「実績」を論功賞として、さも天下り的に配置されるのは、
今に始まったことではない。

専門特化した人間が、その集団に配置される時、
なぜか「一般人」と呼ばれ、「俺とお前はどっちが偉いんだ」と
言い募る、元V9戦士のコーチ。

長くいることによって、幹部に上り詰めるが、
「内」への力を注ぐことが第1で、外部のエキスパート達の連携をもたず、
新しい戦略、新しい戦力の獲得すら検証、取組みができず、
チーム、フロント、幹部が一丸になるどころか、
誰に取り入ったらいいかが「最大」の仕事になる。

いやぁ、本当に、昨今の、アカウンタビリティーとか、
ディスクロージャーとか、IRとか、マネージメントとか、
まるで「かけ離れて」いる球団だ。
いや、社会だ。

これだけ、スポーツコンテンツとして、メジャーだ、サッカーだとかに、
段々と水をあけられていく中で、
どうしたらいいのか、何をしたらいいのか、
1リーグ制にすれば、全てが片がついてしまうかの、物の言い方を含めて、
まるで取り合おうとしない、「長老達」。

暗澹たる気分を感じると共に、
プロ野球は、なんだ、大掛かりな「社会人野球」なんだ、
と思ってしまう自分がいた。


「世代間最終戦争」という本を読みました。

2006年12月09日 | 本・映画
このような視点で書かれた本には、お目にかかったことがないので、
手にとってしまいました。

「世代間最終戦争」立木 信著 東洋経済新報社刊

  これまでの政治や経済の改革論は、年長者にとって都合のいいものだった。
  20代、30代の若者の立場から、日本の経済発展を支えた70歳前後の世代を
  中心に年長者の真の姿を検証。これからの若い世代の生き方を示す。

光文社のペーパバックス、地価最終暴落を読んでおりましたので、
切り口など、視点など、なんとなく期待がありました。
読みやすい文章なんですが、考えてみると、1冊に詰め込むべき
データやら資料など、豊富に出回っている国ではありません。

最終章に、内容が凝縮されております。
この部分でも、読まれると面白いですよ。

65歳。
この年代から、「高齢者」と、統計上呼ぶらしんですが、
全人口比率の7%を超えると、「高齢化社会」で、
14%を超えると、「高齢社会」、化がとれて、真正高齢者の国。

この7%から14%にかかった時間。
アメリカは72年。ドイツは40年。イギリスは47年。フランスは115年。
なんと日本は、24年!

考えてみると、日本と言う国は、どんだけ「早回し」のビデオを見ているかの
スピードで、来てしまったのかということで、
ある意味、この国に起きていることは、
世界各国の、あらゆる「知恵」「システム」など、とっくに参考にならない、
そういう感じになっているのではないか?

著者も、この失われた15年?について、
  今までの欧米の学者から「まねっこ」と馬鹿にされてきた日本の経済学者の
  なかから種々の提言が出始めたのは、(この低迷時)アメリカから輸入した
  経済理論では適切な処方箋を出せなくなったから
  つまり、この日本の参上を逆手に取れば、新しい経済理論の格好の実験場 
  になりうるし、

という感じ方は、なるほどグッドです。

すでに22%を超え、4分の1近くが高齢者である日本。
生産人口の2人で1人の高齢者を支えるとか、報道がされておりますが、
この生産人口も笑えます。
15歳から64歳のことなんですって。

15歳。へー、まだこんな数字で統計をだしているんだ。
ということは皆さん、あっというまに、子供1人で、高齢者1人をまかなう
時代がきます。(実質的な意味において)

以前にもいくつか書きましたが、政治家も有権者も、「高齢者」が実質、
選んで、選ばれ、運営をしていると言っても過言ではありません。
まぁ24年もの「高スピード」で高齢社会が具現化してしまったので、
色々と理由もあるかと思いますが、

出産に掛かる費用が、全面的に自己負担で、高齢者の治療費が1割もしくは
ゼロ負担というのは、言い訳がつかない政策でしょうし、
全社会福祉関係予算のわずか3%しか、子供関連に使用されていない、
という事実は、
予算が無い、と言う程度で、政策が軒並み先送りになる事態、
ますます、「世代間戦争」が現実味を帯びてきます。

第2次ベビーブム世代に、子供を産め、と言われたところで、
それを言っている政治家さんの世代ですら、
とっくに、新陳代謝に必要な、2.1という出生率を割っております。
(70年代中盤のことです)

著者は、このときから、いかに政治家さんやら官僚さんが、
年金を含めた、「あがりの分け前」に執着していたかを明らかにしています。
だって、年金制度、積み立て制から、賦課制にしたくらいだから。

積み立て制にしたら、世界でもっとも高いといわれている、世帯22万円ですか
出るわけがありません。
勤労者の「掛け金」をあてこんで、物価スライド制なるシステムを与え、
無敵の年金制度に変えてしまいました。

ただ、これも、出生率が下がり、大きな不況な只中にいて、
さらにこの先、国の成長率が「倍々ゲーム」にならない、そういう現実と、
世界1位という「平均寿命」。
あのときに、想像できなくてもしかたなかったのかもしれませんが。

著者の提言は、結構刺激的ですが、内容が伴っていて、参考になります。
シルバー債によって、世代同士の扶助から、若い世代への投資を惹起する案。
とか、
すでに現実的ですが、既存のマスコミも実は「高齢族」です。
インターネットをフル活用して、若手議員へのサポートをしよう!とか、
そういえば選挙で、インターネットの使用を禁じていますが、
高齢族の政治家にとっては、「難儀な代物」なんでしょうね。

とはいえ、自分もまだまだ、「世話になりっぱなし」の人間です。
え?何を突然って?
ですから、最終章だけでも、ぜひ、成り代わって読んで見てください。
だから何ですかって?
えへへへへ。