まなびの途中

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「今」の加害者を本当に更正させることができるのか?

2007年08月17日 | 本・映画
吸い込む空気が、ここまで体温と一緒であると、
不快を通り越して、言い知れぬ不安感が増してくる。
ビルの間を、影を求めて、縫うように歩いても、
日差しに曝されると、観念したかのように、最短距離を通っていこうと、
何も考えられなくなってくる。
こういう日に、スーツ姿で街を歩くのは、ちょっと危険だ。

「この国が忘れていた正義」中嶋博行著 という本を読んだ。
全くの不勉強で申し訳ないんだが、犯罪小説というのか、一度も読んだことが無い。
が、この著者の「視点」「切り口」。
正直、文章の読みやすさを含めて、衝撃的で、
個人的には、知人に、是非にとお奨めしたい本。

考えてみると、昨今、様々な「裁判」が、マスコミを通じて我々は
知るところになるのだが、
犯罪には、加害者と、被害者がいて、
この国では、特に、加害者の「更正」「教育」、
つまり加害者の「人権」を最大限に考慮する、ということが「強く」理解できる。

ところが、である。
この本によれば、罪が確定して、刑務所でお勤めするが、
なんと、再犯率は、ことによっては6割を超えるという。
毎年、犯罪者の「更正」を目的に、様々な、至れり尽くせりの環境で、
毎年使う予算は、なんと2200億円だ。

この本はいう、人権という概念。
これは、国家権力など、時として、横暴になる「力」に対して、
あのフランス革命の時に「考案」された概念で、
あくまでも、一般人同志で起こる、加害者と被害者の間には、
守るべきなのは、被害者の「人権」であって、
加害者のそれではないだろうと、という感じ。

アメリカなどは、当初は、「治療型」の犯罪者の更正を目指していたが、
結果的に、「更正プログラム」が、多大な金額をかけたのにもかかわらず、
機能せず、「正義モデル」が導入される。
痛ましくも、残酷な、再犯者が起こす事件が連発したからだ。

当然、最悪の犯罪者には、究極の「排除」である死刑というシステムがあるが、
日本で、昨今言われている、人権がらみのおためごかしとは異なり、
海外では、
仮に死刑を廃止した場合において、
国がとれる、被害者への救済処置。
加害者の絶対的な無力化を、同時に行っている。

日本ではどうか。
実は、何にもなされていない。

さらに刑務所では、空調が効いた部屋で、
懲役刑にもかかわらず、週の労働時間が40時間がきっちり守られ、
残業は一切無く、
あまつさえ、最近では、近くのコンビニを利用できるとか、
許可さえ下りれば、家族以外の友人知人とも面談が可能とか、
その、被害者とのバランスを考えると、
まさに日本は、「犯罪者パラダイス」である。

さらに、刑事事件と民事事件。
ご存知のように、刑事事件は、国が、どんどんやってくれるが、
受けた被害を「原状回復」させるために、
被害者がとらなければならないのは、民事裁判で、
これは、当たり前だが、全部、確定するまで「自費」。

そして、仮に判決が出たとしても、出たとしても、
加害者に、支払い能力が無ければ、
実は、「一銭もとれないことは珍しいことではない」

これほど、被害者にとって地獄のような、泣き寝入りのような、
犯罪者にとって、天国のような国は、どこを歩いても見つからないであろう。

作者は、死刑の廃止とか云々ではなく、
被害者にとって、最大の「支援」をしていきたいと、全編を通して訴える。
死者にたいして、当たり前だが「原状回復」などは無理にしても、
この社会では、それを金銭に置き換えて、償わさせるという手段がある。

つまり、本当に、懲役刑をやるんであれば、
民間に、がっちりやらせて、その確定した金額を「返済」するまで、
働かさせるというのが、「最低限」の償いとして有効ではないかと。

以前新聞配達員として、幼女を略取、殺害した小林薫は、
何度も繰り返している「再犯者」であった。
あのマイケルムーア監督が描いた、ボーリングコロンバンという映画で、
住を乱射する若者も、実は、再犯者であった。

いずれも、「更正プログラム」が、全く、機能していなかったことに、
我々は、もう少し、しっかりと、国に対して、意見を求めたほうがいいのではないか?
例えば、イギリスでは、何百万台というカメラが町中に張り巡らされている。
1日に3回以上、撮影されている計算になるらしい。

国家安全というと、いきなり、別の意味で噛み付く連中もいるようだが、
その為に、納税もし、住みやすい環境を望むのは当たり前で、
死刑廃止だとか、加害者の人権だとか、
本当に、犯罪者が「更正」できているのか、できるのか、
どういう無害化ができるのか、できないのか、
議論は、まさに、そっちから手をつけるべきであろう。

いじめの問題でも、いじめる側を「排除」することは、
教育で行うべきことではないと、
日本は、何かにつけて、なんというか、「大岡裁き」が好きだよね。
もう、やられた側にも、何らかの問題があるんじゃないかという「過失」主義を、
いい加減考え直さないと、
理解しづらい事件が連発している中で、
我々一般人が、「無気力」になってしまいそうだ。

いつもながら、端折ってしまいましたが、
是非、この作者の考えを、読んでみてください。



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