宮台真司と重松清の対談で重松清が「真に受けなくて本気で聞いて欲しい」、「もちろんノンフィクションの凄味っていうのもわかるんだけれど、でも僕はフィクションの中で・・だから、「本当にあった」話と言うわけじゃない、しかしそこには「本当がある」かもしれないっていうのを信じながらやっているんですよね」と述べている。
これは昨日ブログに書いた空手の形の話と似ている。一見フルコンタクト空手のほうが強そうだが、目潰し等の禁じ手を織り込んだ形の空手のほうが真剣勝負の場では強いのではないかという論考と同様、ノンフィクションでは超えられない壁をフィクションは超えるのかもしれない。土門拳が写真は肉眼を超えると言ったのもこれと同じか。
私はいままでノンフィクションの書物(時評など)が好みだったが、フィクションの小説もあなどれないと思った。思い出してみると三島由紀夫の最後の小説「豊饒の海」で、三島は小説の中に「阿頼耶識」という大乗仏教の概念を持ち出しているが、これって脳科学が解明しようとする「意識」の問題に近いものだったと思い出した。作り物の小説という形はしているものの、むしろノンフィクションや脳科学よりもぐいぐいと人間の本質に迫っていたのではなかろうか。
本当にあった話というわけじゃない、しかしそこには本当があるかもしれない