文は補語述語からできている これが日本語 基礎の捉え方
文は主語述語からできている これが国語 基本
中等教育の学習が変わってきている、となっていることを知る由もない。
文法の説明で学習をすることになると、これからか、もうすでに進行中か、英語の主語を理解すると、そこで主語の文中の働きを知り認めることになる。国語の教育は大変なことである。
こうなるかどうか、いまの日本語文法の考え方であるところ、見ていこう。。
学習文法に主語を捉えてきた経験で言えば主語がない、主語と言わない、この教え方にこれまでと異なる実感を持つ。が、主語がない、主語抹消論、などなど、威勢がいいのだけれども、翻って、ないことを言える時代から、ないから、あることをそう言わなくなる。
時代を経れば、学習段階で、日本語には補語また補足語と述語で、そう言えば文ができる、いいんだという発想になるわけである。
三上章文法がそういう説明をしてきたわけではないにかかわらず、その主張は文の定義を変えてしまった。果たしてこれでよいか、どうかは、主語のない文法説明をする、ないのではなくて、補足語に入る主語である。三上氏は学校の先生のときにすでに主語を要らないと言い出している。その時から70年を経て、その信奉によって、この30年間に三上氏が唱える文法に変わってきた。日本語文法というわけである。
おそらく一般に、文法の考え方が、主語のあるなしにかかわらず、言語運用に不自由がない、ということで、日本語は文に主語が必要ないんだという世代の言語運用を見聞きすることになる。2000年代に中等教育を受けて、いま、20歳代の若者に言語使用があらわれる、現実になってくる。