ウイキペディアより
>日本で「白地赤丸」が日章旗として用いるようになった経緯は諸説あり正確には不明である。
>日本の国旗としての歴史
惣船印として提案された案のひとつの白地中黒の旗
日の丸を掲げる幕府海軍の咸臨丸
日の丸を掲げる幕府海軍の旭日丸
18世紀末から19世紀にかけてロシアの南下政策を警戒した幕府が蝦夷地天領化・北方警備等のため派遣した御用船(商船・軍船・似関船など)も日の丸を印した旗や帆を使用していた。
1854年(嘉永7年、安政元年)3月の日米和親条約調印後、外国船と区別するための標識が必要となり、日本国共通の船舶旗(「日本惣船印」)を制定する必要が生じ、日の丸を当てることが同7月9日、老中阿部正弘により布告された。
この布告に至る経緯として、前年の1853年9月(嘉永6年8月)初旬より協議が行われ、浦賀奉行が惣船印に日の丸を推す一方で、評定所一座等は「白地中黒」(白地に黒の横一文字)を惣船印に、日の丸は幕府船の船印にすることを提案している。彼らが日の丸を惣船印から外したのは、御城米船や銀・銅を運搬する幕府御用船に日の丸が200年近く伝統的に用いられたからである。その後、中断を挟みつつ翌年6月に正弘が幕府海防参与徳川斉昭へ白地中黒を惣船印にすることを諮問したところ、斉昭は白地中黒は徳川氏の先祖である新田氏の印だが日の丸は歴史的に日本が使用してきた印であり、逆にするべきと提言した。そのため、斉昭と幕臣が協議した結果、日の丸が惣船印に選ばれた[12]。また協議が始まった嘉永6年8月の段階で、鳳凰丸へ日の丸を掲げることが起工前に検討されていた。鳳凰丸は1854年6月6日(嘉永7年5月10日)に竣工しており、後述の昇平丸よりも早く最初に日の丸が掲げられた船になる。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H11/H11HO127.html
国旗及び国歌に関する法律
(平成十一年八月十三日法律第百二十七号)
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国旗国歌法は本則2条、附則3項、別記2により構成される法律である。
第1条 国旗は、日章旗とする。
第2条 国歌は、君が代とする。
附則 施行期日の指定、商船規則(明治3年太政官布告第57号)の廃止、商船規則による旧形式の日章旗の経過措置。
別記 日章旗の具体的な形状、君が代の歌詞・楽曲。
https://ja.wikisource.org/wiki/日の丸の旗
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『尋常小学唱歌 第一学年用』(1911年)
日の丸の旗
白地に赤く
日の丸染めて、
ああ美しや、
日本の旗は。
朝日の昇る
勢ひ見せて、
ああ勇ましや、
日本の旗は。