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2020 0304 アジアプレミアム

2020-03-04 | BS放送

製作費17億円

中国ドラマ 花散る宮廷の女たち~愛と裏切りの生涯~」のあらすじ ...www.twellv.co.jp › hanachirukyutei › page-hanachirukyutei-story
皇帝は、重臣の娘たちを集めて選抜試験を行った。公主の学友となり、ゆくゆくは皇子たちの妃候補になる子女を選出するためだった。その中でも、武将として活躍する年羹堯の妹・年姝媛は文武ともに優れた才を発揮し、共に試験を通過した加蘭、凝秀らと宮廷 ...

https://navicon.jp/news/58314/
第36話 年羹業の最期
玉の笛を手渡し、栄憲に清への帰郷を促す年羹業。だが栄憲は笛を投げ割り、ウルグンを離れる気はないと年羹業を突き放す。その後、清へ戻った年羹業を酒でもてなす雍正帝。だが、年羹業はその酒を拒んでしまう。その姿に、雍正帝に良からぬ感情を抱いていると察した隆科多は、雍正帝に年羹業の殺害を提案する。それを影で聞いていた温憲は、侍女に年羹業を逃がすよう伝えるが、それを雍正帝に感づかれ…。 


https://sengna.com/2013/06/30/houkong/
雍正帝の後宮

孝敬憲皇后
 満洲正黄旗、ウラナラ(烏拉那拉)氏出身。康煕年間の権臣・フィヤング(費揚古)の娘で、嫡母はギョロ(覚羅)氏(ヌルハチの玄孫。皇長子・チュエンの系統)。
 康煕年間には四阿哥・胤禛に嫁いでいた模様。康煕37(1698)年に四阿哥がドロ・ベイレ(多羅貝勒)に封じられると、嫡福晋に封じられている。なので、部屋住みの平皇子の頃から雍親王に連れ添っており、帝位に就いてからもその情は継続した模様。康煕36(1697)年には嫡長子・弘暉を産むが、康煕43(1704)年に8歳で夭折。弘暉は没後、乾隆年間に入って端親王に封じられている。
 雍正元(1723)年、胤禛が雍正帝として即位すると、ウラナラ氏も皇后に冊立された。雍正9(1731)年、住居を暢春園に移した後、逝去。雍正13(1735)年に孝敬憲皇后に追封した。棺は田村嬪宮に安置され、乾隆2(1737)年、雍正帝と共に清西陵の泰陵に埋葬された。
☞《後宮甄嬛伝》の皇后娘々のモデル。

孝聖憲皇后
 満洲鑲黄旗、ニウフル(鈕祜禄)氏の出身。父は四品典儀官・凌柱。
 康煕44(1705)年、十三歳の時にドロ・ベイレ(多羅貝勒)・四阿哥 胤禛の邸宅に輿入れし、ゲゲ(格格)となった。名門の出身ながら、父親の身分が高くなかったので、嫡福晋・ウラナラ氏はおろか、側福晋である年氏や李氏よりも位としては下である。雍親王が病を患った際、ニウフル氏はかいがいしく看病し、それが切っ掛けで寵愛を賜ったらしい。康煕50(1711)には皇四子・弘暦を雍親王府で出産。
 弘暦が十歳の時、雍親王が弘暦を連れて牡丹を観に円明園に赴いて康煕帝に謁見すると、弘暦は康煕帝に気に入られ、皇帝自ら皇宮で弘暦を養育した。これにより更にニウフル氏は雍親王の寵愛を受けた。
 雍親王・胤禛が即位すると、雍正元(1723)年、熹妃に封じられ景仁宮に入り、雍正8(1730)年には更に熹貴妃に封じられたi。雍正9(1731)年に孝敬憲皇后が逝去すると、宮中のことを取り仕切った。
 雍正13(1735)年、皇四子・弘暦が即位して乾隆帝となると、熹貴妃は聖母皇太后として敬われ、崇慶皇太后の尊号を贈られ、慈寧宮に移り住んだ。乾隆16(1751)年には六十寿、乾隆26(1761)年には七十寿、乾隆36(1771)年には八十寿と、息子である乾隆帝から国家事業として長寿を祝われている。子供から福禄寿を祝われた女性として最高の人生を送った人物として憧憬の対象とされ、慈嬉皇太后も憧れたと言われている。

敦肅皇貴妃
 漢軍鑲黄旗の出身。元々、年一族は明代は宦官官人の家系だった模様ii。康煕朝の権臣である湖廣巡撫・年遐齢の娘であり、雍正帝即位に尽力した撫遠大将軍・年羹堯の妹。
 康煕50(1711)年頃、雍親王・胤禛に嫁ぎ、側福晋となる。康煕54(1715)年には雍親王の第四女を出産、その後康煕59(1720)年には雍親王の第七子・福宜、康煕60(1721)には第八子・福恵、雍正元(1723)年には第九子・福沛を立て続けに出産しているが、いずれも夭折している。ちなみに他の雍正帝の皇子は弘+日の入った文字という命名法なのに、年貴妃の子供だけは福○のような命名法なのは何か意味があるのかも知れない。
 雍正帝の即位に際して、雍正元(1723)年、貴妃に冊立される。雍正3(1725)年、病が篤くなり11月に皇貴妃に晋封されるが、12月病没。諡号は敦肅皇貴妃。棺は田村嬪宮に安置され、乾隆年間に入って雍正帝の陵墓である清西陵の泰陵の妃園寝に陪葬される。
 年羹堯の失脚も雍正3(1725)年12月、賜死は翌雍正4(1726)年なのは、年貴妃の死と無関係ではないはず。しかし、子供の中で一番長生き(と言っても8才)の福恵は雍正6(1728)年までは在世しているが、年一族の罪状で累が及んだ形跡もない模様。ちなみに、福恵は死後懐親王に封じられているが、この時期には四阿哥・弘暦、五阿哥・弘昼は親王には封じられていないので、これを雍正帝の年貴妃と福恵に対する寵愛の証拠と見る説もある。


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