2年前のこの日だった。それからやりなおしたこと、体調管理だ。そうもうのは退院してからのことで、ま、ゆめの中で事なきを得て、それからの闘いは生きる意欲を持つこと、前に進める、ひとつを歩むことだった。こうしていられる人間の体の不思議を思う。生きている実感は2週間後に思っている。この日を記憶して書きとどめたものがある。平常心をいうのであるが、へいじょうしん、ではなくて、びょうじょうしん、というそうで、びょうじょう、とは、これいかに と、日本での禅の語を知る。平常心是道 は、中国の研究留学で知り得た。それで、平常心は、へいじょうしん と思い込んでいた。
次は、かきとどめたものだ。
2011年9月13日
よく眠った。いつもと変わらない。昨夜は満月だった。うつくしい十五夜を、ここ、9階の休憩室から眺めて、消灯は9時で、8時30分ごろに部屋に戻って寝た。
1時半と4時とに目覚めたが、そのまま、明け方5時半まで。起床は6時だ。
関節炎の薬は、ステロイド錠は飲み続けることになった。抗炎剤はここでの処方薬になる。
9時から手術だ。8時50分にベッドを出る。
3時間から5時間ということなので昼過ぎに終わる予定だ。
なにもかも、入院も初めてで、しばらく耐えてくる。
術後のことは、どうなるか、気がつくと集中治療室なのだろう。
難しい手術ですかと、3週間ほど前の診察で尋ねて、そういうことを聞く自分がおかしかった。難しくないものはないからだが、担当医は、普通ですね、と答えた。
ずっと避けられないことになったと思ってきたから、あれこれ考えるのをやめてきた。
なるようになる、受け入れるべき定め、として、信じようとしてきた。
家族がつらかろうにと思い続けて過ごしてきた。
午前7時のニュースだ。
経産相の人事が前官房長官になった。あの地震後に、福島原発の爆発事故により、ただちに健康に及ぼす影響はありませんと繰り返しアナウンスをしていたが、それがめぐりめぐって、事故収束の責任を担うことになった。
あと2時間で前後不覚の中、生還を祈る。
病室から案内を受けて中央のエレベーターで降りた。まだ始まらないというので少し待たされる格好になって、天を仰いでここで、と、思っているとドアが開いてぐるりと麻酔医とアシスタントが待ち受けていた。促されるままに、ベッドに上がった。麻酔医は、説明の時よりさらに小柄に見えたが、こともなげに、命にも係わりそうな麻酔をする、口に棒をくわえてくださいと。
背中に管を入れて脊髄への麻酔だから説明のあったように、半ば横向きで背中を丸めた。それで注射をした後に、痛みがあるかないかときかれ、数えるようなことを言われて眠りに落ちた、のだろう、それから向きを直されて、担当医が始めることを耳元でささやいたが、そのまま、気づいた時には、同じような状態でいるつもりだった。3時間は経過していたのだが。
こともなく済んだのだろう、切ったものを見せるようなしぐさが見えた。それを家内が眺めていて、やはり、そうでしたと術中の診断がつげられ、きれいになりましたというようなことを聞いた。意識がふらりとする。ベッドを移すというので、抱えられて動いた、それは動かされたのだけれど、体からチューブが何本も出ている。3本らしいのだけれども、それがわかった。
いきつもどりつする意識のうちに、そのままに集中治療室になった。目覚めると、それはだんだんとはっきりしてくる周囲の様子に、看護師たちがまたベッドに移すようにしたような気がするのは敷物を背中にするためだった。遠くに時計を見て12時40分を過ぎた針をみとめた。背中、わき腹、そして下腹部にとチューブがある。
腕には点滴の管も加わっている。これで動けと言われても動けないよと痛みを感じるままに背を突っ張っていた。あれこれと身の回りを整えている看護師さんたちに、はっきりと違う人影で、家内と娘をみとめた。顔をくしゃくしゃにして、涙を抑えて、言葉にならない息をしている娘がチューブ人間のわたしを見ていた。
集中治療室はカーテンで仕切られる。家内から親類の見舞いがあって、術中にはずっと付き添っていたと告げられた。すべて無事であったのでかえってもらったよ、と。軽くうなずいて、声を出そうにも首から下が凝り固まっている。どうも切ったところの絆創膏とわき腹と背中がそれぞれに引っ張り合っているような感覚だった。
くくりつけれれているわけではないのだが、うごけない。
何度かまた、意識を失っている。
体力があったので、術後は順調に回復をしていく。
次は、かきとどめたものだ。
2011年9月13日
よく眠った。いつもと変わらない。昨夜は満月だった。うつくしい十五夜を、ここ、9階の休憩室から眺めて、消灯は9時で、8時30分ごろに部屋に戻って寝た。
1時半と4時とに目覚めたが、そのまま、明け方5時半まで。起床は6時だ。
関節炎の薬は、ステロイド錠は飲み続けることになった。抗炎剤はここでの処方薬になる。
9時から手術だ。8時50分にベッドを出る。
3時間から5時間ということなので昼過ぎに終わる予定だ。
なにもかも、入院も初めてで、しばらく耐えてくる。
術後のことは、どうなるか、気がつくと集中治療室なのだろう。
難しい手術ですかと、3週間ほど前の診察で尋ねて、そういうことを聞く自分がおかしかった。難しくないものはないからだが、担当医は、普通ですね、と答えた。
ずっと避けられないことになったと思ってきたから、あれこれ考えるのをやめてきた。
なるようになる、受け入れるべき定め、として、信じようとしてきた。
家族がつらかろうにと思い続けて過ごしてきた。
午前7時のニュースだ。
経産相の人事が前官房長官になった。あの地震後に、福島原発の爆発事故により、ただちに健康に及ぼす影響はありませんと繰り返しアナウンスをしていたが、それがめぐりめぐって、事故収束の責任を担うことになった。
あと2時間で前後不覚の中、生還を祈る。
病室から案内を受けて中央のエレベーターで降りた。まだ始まらないというので少し待たされる格好になって、天を仰いでここで、と、思っているとドアが開いてぐるりと麻酔医とアシスタントが待ち受けていた。促されるままに、ベッドに上がった。麻酔医は、説明の時よりさらに小柄に見えたが、こともなげに、命にも係わりそうな麻酔をする、口に棒をくわえてくださいと。
背中に管を入れて脊髄への麻酔だから説明のあったように、半ば横向きで背中を丸めた。それで注射をした後に、痛みがあるかないかときかれ、数えるようなことを言われて眠りに落ちた、のだろう、それから向きを直されて、担当医が始めることを耳元でささやいたが、そのまま、気づいた時には、同じような状態でいるつもりだった。3時間は経過していたのだが。
こともなく済んだのだろう、切ったものを見せるようなしぐさが見えた。それを家内が眺めていて、やはり、そうでしたと術中の診断がつげられ、きれいになりましたというようなことを聞いた。意識がふらりとする。ベッドを移すというので、抱えられて動いた、それは動かされたのだけれど、体からチューブが何本も出ている。3本らしいのだけれども、それがわかった。
いきつもどりつする意識のうちに、そのままに集中治療室になった。目覚めると、それはだんだんとはっきりしてくる周囲の様子に、看護師たちがまたベッドに移すようにしたような気がするのは敷物を背中にするためだった。遠くに時計を見て12時40分を過ぎた針をみとめた。背中、わき腹、そして下腹部にとチューブがある。
腕には点滴の管も加わっている。これで動けと言われても動けないよと痛みを感じるままに背を突っ張っていた。あれこれと身の回りを整えている看護師さんたちに、はっきりと違う人影で、家内と娘をみとめた。顔をくしゃくしゃにして、涙を抑えて、言葉にならない息をしている娘がチューブ人間のわたしを見ていた。
集中治療室はカーテンで仕切られる。家内から親類の見舞いがあって、術中にはずっと付き添っていたと告げられた。すべて無事であったのでかえってもらったよ、と。軽くうなずいて、声を出そうにも首から下が凝り固まっている。どうも切ったところの絆創膏とわき腹と背中がそれぞれに引っ張り合っているような感覚だった。
くくりつけれれているわけではないのだが、うごけない。
何度かまた、意識を失っている。
体力があったので、術後は順調に回復をしていく。