柿本人麻呂、その人である。万葉集に名を遺して影響を与えた一人者である。歌人である。その生涯に宮廷賛歌、儀礼を歌い上げた、万葉集の全歌数のほぼ10%を占める彼の作品は、その実は多く人麻呂歌集にあるとするものから編集されたとみられ、人麻呂自身の作であるかどうかの議論があるものもあり、宮廷歌人と目される、その優れた歌の数々にあわせ生涯の事績には神秘めく謎がとらえられている。作品の世界には古代王朝の争いを跡付けるドラマが読み取れる。また人麻呂は人麿とも書く。万葉集に万葉仮名表記の日本語史になる興味のある事実があるので、その歌体をなす日本語の表し方に、略体、非略体の別が認められて、和歌を記録する日本語の表記法は漢字をどうとらえていたかを日本語の成立に知らせるものがある。
柿本人麻呂とその時代
www.katakago.info/library/kikaku/01haru-hitomaro/k-2001haru.htm
万葉集のみならず和歌史を代表し、ひいては日本文学史をも代表する柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)は、天武朝(てんむちょう)に活動をはじめ、平城京遷都を見 ... 誤解された人麻呂歌 ・あらたな代表作 ・正しい理解へ ... 人麻呂の歌 ─文字を表記すること─
万葉雑記 和歌の表記・表現方法について ( その他文学 ) - 万葉集 柿本 ...
https://blogs.yahoo.co.jp/dokatakayo/21284761.html
2008/12/27 - これらの対の歌を見比べると、古体歌表記の漢語では意味があったと思われるものが、一字一音表記の万葉仮名表記 ... ただ、素人の疑問で、これらの万葉集の上代発音学の出発点になる人麻呂歌集の各歌の製作年代決定は、まだ、為され ...
柿本人麻呂歌集(読み)かきのもとのひとまろかしゅう
世界大百科事典 第2版の解説
かきのもとのひとまろかしゅう【柿本人麻呂歌集】
《万葉集》成立以前の和歌集。人麻呂が2巻に編集したものか。春秋冬の季節で分類した部分をもつ〈非略体歌部〉と,神天地人の物象で分類した部分をもつ〈略体歌部〉とから成っていたらしい。表意的な訓字を主として比較的に少ない字数で書かれている〈略体歌〉には,676年(天武5)ころ以後の宮廷の宴席で歌われたと思われる男女の恋歌が多い。いっぽう助詞などを表音的な漢字で書き加えて比較的に多い字数で書かれている〈非略体歌〉には,680‐701年ころの皇子たちを中心とする季節行事,宴会,出遊などで作られた季節歌,詠物歌,旅の歌が多い。
非略体歌(読み)ひりゃくたいか
世界大百科事典内の非略体歌の言及
【柿本人麻呂歌集】より
…人麻呂が2巻に編集したものか。春秋冬の季節で分類した部分をもつ〈非略体歌部〉と,神天地人の物象で分類した部分をもつ〈略体歌部〉とから成っていたらしい。表意的な訓字を主として比較的に少ない字数で書かれている〈略体歌〉には,676年(天武5)ころ以後の宮廷の宴席で歌われたと思われる男女の恋歌が多い。
https://kotobank.jp/word/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%82-43477
コトバンク
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
柿本人麻呂
かきのもとのひとまろ
[生]?
[没]和銅1(708)頃
持統,文武朝の歌人。『万葉集』中の年代を明記した歌によると,持統3 (689) 年から文武4 (700) 年まで作歌活動をしている。
『万葉集』に署名のみえるものとして長歌 18首,短歌 68首 (「或本歌」などを含む。なお異説もある) を残す。
なお『万葉集』には『柿本朝臣人麻呂歌集』から採録した歌 373首があり,このなかにも人麻呂の作があると考えられているが,具体的な作品については説が分れている。
朝日日本歴史人物事典の解説
柿本人麻呂
生年:生没年不詳
大和時代の歌人。微官であったらしく,『万葉集』に歌を残すのみで,閲歴は定かでない。
作品は,数え方によって異なるが,人麻呂の作と記される長歌18首,短歌60余首,「柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ」などとされる長歌2首,短歌330余首,旋頭歌35首がある。後者は,人麻呂が自他の作を筆録した歌集とする見方が一般的である。
作歌年代の判明する歌は,持統3(689)年の「日並皇子尊(草壁皇子)の殯宮の時に作る歌」(巻2)から,文武4(700)年の「明日香皇女の木〓の殯宮の時に作る歌」(巻2)まで。
その間に,持統5年の「泊瀬部皇女と忍坂部皇子とに献る歌」(巻2),同6年の「伊勢国に幸す時に京に留まれる柿本朝臣人麻呂の作る歌」(巻1),同10年の「高市皇子尊の城上の殯宮の時に作る歌」(巻2)が知られている。
なお,人麻呂歌集の方は,ほとんどが年代不詳だが,なかで七夕歌群(巻10)に,「庚辰の年に作る」との左注を付す1首があり,これを天武9(680)年とする通説に従えば,宮廷行事として定着化した七夕とかかわるだけに,このころすでに出仕していたものと認めてよいか。
生年は,遡っておおむね斉明朝(655~61)とされるが,孝徳朝(645~54)の可能性もある。同じく人麻呂歌集には,大宝1(701)年の紀伊行幸時の歌(巻2)を収め,これが下限となる。
奈良朝移行後の作品は確認しえず,「石見国に在りて死に臨む時に作る歌」が,巻2の藤原宮の標目の末尾に置かれるところから,和銅3(710)年の平城京遷都以前に没したと推測される。ただし,死に臨んでの作は,人麻呂を敬慕する者の代作で,石見国における死は伝承にすぎないと捉える説があり,その死は謎に包まれている。
とりわけ持統朝に,歌才を認められて宮廷と密接な関係にあったらしく,先掲の挽歌をはじめ,「吉野宮に幸す時に作る歌」「軽皇子の安騎野に宿ります時に作る歌」(巻1)など,公的な儀礼の場での歌が多い。
壬申の乱(672)後の,天皇を中心とした強力な中央集権体制を反映して,天皇を神格化するといったように,当時の普遍的な皇室讃美の情を,歌人としての自覚のもとに格調高く歌いあげ,儀礼歌の様式を完成させている。
また,私的な立場での「石見国より妻を別れて上り来る時の歌」「妻の死にし後に泣血哀慟して作る歌」(巻2)は,ともに浪漫性あふれる傑作で,およぼした影響も大きく,特に後者は,山上憶良や大伴旅人,家持に受け継がれ,亡妻挽歌と称される伝統を形作る源となった。
口誦から記載文学への転換期にあって,構想力に恵まれて長歌に優れ,表現の面でも,枕詞,比喩,対句などの手法を,漢詩文の例をも摂取しつつ飛躍的に発展させ,『万葉集』の歌を一挙に頂点まで引きあげた観がある。続く奈良朝の歌人が,常に人麻呂を意識し,平安朝に下って歌聖と仰がれたことも,故なしとしない。
<参考文献>阿蘇瑞枝『柿本人麻呂論考』,渡瀬昌忠『柿本人麻呂研究/歌集編上』,伊藤博『万葉集の歌人と作品』上,橋本達雄『謎の歌聖/柿本人麻呂』,稲岡耕二『王朝の歌人1/柿本人麻呂』,神野志隆光『柿本人麻呂研究』
(芳賀紀雄)
https://blogs.yahoo.co.jp/dokatakayo/21284761.html
万葉雑記 和歌の表記・表現方法について
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今回は、万葉集でも珍しい例を取り上げます。参考に下段に載せた歌は、同じ歌を表記方法が違っているために別の歌として採歌されてますが、万葉集の編者は、左注で、それぞれの対の歌を同じ歌と説明してます。従って、本来ですと訓読では同じ表現になるはずですが、そうなっていないものもあります。また、一字一音表記の万葉仮名から、平安期において古体歌表記の漢語をどのように詠んだかが推定できる面白い歌群でもあります。なお、今回の訓読は万葉学の分野ですから、とぼけた万葉集の読みのものではなく、現代万葉学の第一人者である中西進博士のものを載せさせていただきました。
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さて、素人の戯言はさておき、今回は歌の内容より万葉集の表記法の差をお楽しみください。とぼけた妄想などは、一切、ありません。
例-1
集歌2808 眉根掻 鼻火紐解 待八方 何時毛将見跡 戀来吾乎
眉根掻き鼻ひ紐解け待てりやも何時かも見むと恋ひ来しわれを
右、上見柿本朝臣人麿之歌中也。但以問答故、累載於茲也。
右は、上に柿本朝臣人麿の歌の中に見ゆ。ただ問答なるを以ちての故に、累ねて茲に載せたり。
(参考)
集歌2408 眉根削 鼻鳴紐解 待哉 何時見 念哉
眉根掻き鼻ひ紐解け待つらむか何時かも見むと思へるわれを
例-2
集歌3481 安利伎奴乃 佐恵〃〃之豆美 伊敞能伊母尓 毛乃伊波受伎尓弖 於毛比具流之母
あり衣のさゑさゑしづみ家の妹に物言はず来にて思ひ苦しも
柿本朝臣人麿歌集中出。見上己訖也。
柿本朝臣人麿の歌集の中に出づ。上に見ゆることすでに訖はりぬ。
(参考)
集歌503 珠衣乃 狭藍左謂沉 家妹尓 物不語来而 思金津裳
珠衣のさゐさゐしづみ家の妹にもの言はず来て思ひかねつも
例-3
集歌3606 多麻藻可流 乎等女乎須疑弖 奈都久佐能 野嶋我左吉尓 伊保里須和礼波
玉藻刈る乎等女を過ぎて夏草の野島が崎に廬すわれは
柿本朝臣人麿歌曰、敏馬乎須疑弖 又曰、布祢知可豆伎奴
柿本朝臣人麿の歌に曰はく、敏馬(みぬめ)を過ぎて 又曰はく、船近づきぬ
(参考)
集歌250 珠藻刈 敏馬乎過 夏草之 野嶋之埼尓 舟近著奴
珠藻刈る駿馬を過ぎて夏草の野島の崎に舟近づきぬ
例-4
集歌3607 之路多倍能 藤江能宇良尓 伊射里須流 安麻等也 見良武 多妣由久和礼乎
白栲の藤江の浦に漁する海人とや見らむ旅行(ゆ)くわれを
柿本朝臣人麿歌曰、安良多倍乃 又曰、須受吉都流 安麻登香見良武
柿本朝臣人麿の歌に曰はく、荒栲の 又曰はく、鱸釣る海人とか見らむ
(参考)
集歌252 荒栲 藤江之浦尓 鈴寸釣 白水郎跡香将見 旅去吾乎
荒栲の藤江の浦に鱸釣る白水郎とか見らむ旅行くわれを
一本云、白栲乃 藤江能浦尓 伊射利為流 白水郎跡香将見 旅去吾乎
一本に云はく、白栲の藤江の浦にいざりする白水郎とか見らむ旅行くわれを
例-5
集歌3608 安麻射可流 比奈乃奈我道乎 孤悲久礼婆 安可思能門欲里 伊敞乃安多里見由
天離る鄙の長道を恋ひ来れば明石の門より家のあたり見ゆ
柿本朝臣人麿歌曰、夜麻等思麻見由
柿本朝臣人麿の歌に曰はく、大和島見ゆ
(参考)
集歌255 天離 夷之長道従 戀来者 自明門 倭嶋所見
天離る夷の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ
一本云、家門當見由
一本に云はく、家門のあたり見ゆ
例-6
集歌3609 武庫能宇美能 尓波余久安良之 伊射里須流 安麻能都里船 奈美能宇倍由見由
武庫の海の庭よくあらし漁する海人の釣船波の上ゆ見ゆ
柿本朝臣人麿歌曰、氣比乃宇美能 又曰、可里許毛能 美太礼弖出見由 安麻能都里船
柿本朝臣人麿の歌に曰はく、飼飯(けひ)の海の 又曰はく、刈薦(かりこも)の乱れて出づ見ゆ海人の釣船
(参考)
集歌256 飼飯海乃 庭好有之 苅薦乃 乱出所見 海人釣船
飼飯の海の庭好くあらし刈薦の乱れ出づ見ゆ海人の釣船
一本云、武庫乃海能 尓波好有之 伊射里為流 海部乃釣船 浪上従所見
一本に云はく、武庫の海の庭よくあらしいざりする海人の釣船波の上ゆ見ゆ
例-7
集歌3610 安胡乃宇良尓 布奈能里須良牟 乎等女良我 安可毛能須素尓 之保美都良武賀
安胡の浦に船乗りすらむ少女らが赤裳の裾に潮満つらむか
柿本朝臣人麿歌曰、安美能宇良 又曰、多麻母能須蘇尓
柿本朝臣人麿の歌に曰はく、網の浦 又曰はく、玉裳の裾に
(参考)
集歌40 鳴呼見之浦尓 船乗為良武 感嬬等之 珠裳乃須十二 四寶三都良武香
鳴呼見(あみ)の浦に船乗りすらむ感嬬らが珠裳の裾に潮満つらむか
例-8 番外
集歌34 白浪乃 濱松之枝乃 手向草 幾代左右二賀 年乃經去良武
白波の浜松が枝(え)の手向(たむ)けぐさ幾代までにか年の経(へ)ぬらむ
(参考)
集歌1716 白那弥乃 濱松之木乃 手酬草 幾世左右二箇 年薄經濫
白波の浜松の木の手向草(たむけくさ)幾世(いくよ)までにか年は経ぬらむ
右一首、或云、川嶋皇子御作謌。