GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

「日本人は愛の表現をしない!?」

2012年12月11日 | Weblog

 好きな映画への想い、感動した本への想い、父への想い、母への想い、子供への想い、友人への想い、連れ添いへの想い…人の想いにはそれぞれに温度があり、しかも、人はその温度差になかなか気づかないようです。

 若い頃の私はこの温度差に対して「わかってくれない」と放り投げるような気持ちでしたが、今ではこの温度差こそ、人間特有のものだと思えるようになりました。それぞれの気持ちに愛や心が存在しないわけではない、そして、その愛も心も命も永遠ではない。無神論者でどの宗派にも属していませんが、この温度差について仏教の根本思想の<無常>が教えているような気がしています。 

 誰が言ったのかわかりませんが「仏教には愛がない」という言葉を聞いたことがあります。そして、「日本人は最終的に愛の表現をしない傾向がある」と。この言葉にも何処かで納得するものがあります。欧米の白雪姫にしろシンデレラにしろ最後は愛を得てハッピーエンドで終わる話が多いのですが、日本の『かぐや姫』にしろ『鶴の恩返し』などはその典型で、姫も妻も手の届かない遠くへ行ってしまうのです。欧米流のハッピーエンドとはほど遠い結末です。しかし、日本人の誰もが不自然だと思わないのです。決して「愛がない」話ではありませんが、表現の仕方が諸外国と違い独特のようです。これを紐解くのは<無常>というキーワードしかないと私は感じています。論理的に上手く説明できませんが、<直感>です。

   

 授かった我が子は<天からの授かりもの、預かりもの>、このようなスタンスで『かぐや姫』や『鶴の恩返し』を読み返すと物語の趣旨がより伝わってくるように思うのは私だけでしょうか。民話の時代から科学の時代へと進歩し「卵子と精子の受精によって生命が誕生する」と明確な説明がなされてきました。とうとう民話が生まれない時代に入ってしまったということです。

 司馬遼太郎氏は、『この国のかたち』(華厳)の中で次のような話をしています。『仏教には、啓示がない。解脱(悟り)だけを目的としている。解脱とは煩悩から解き放たれることで、本来の仏教というのは、極端にいえば解脱の必要と、そのための多少の方法しか説いていない(釈迦の在世中は、その教説は文字として表現されなかった。仏教は、本来不立文字が本質だったのである)』

       

『かぐや姫』や『鶴の恩返し』のラストシーンこそ、<解脱>の気持ちではないだろうか。そして、その想いは<無常>そのものではないか。<想いの温度差>を受け止めるのも<解脱>の気持ちを持ってすればクリアーできるような気がしています。