旧暦で粽を戴くのも菖蒲湯に浸るのも本日です。季節の廻りにはそれなりの意味も有、この時期の汗ばむことや気持ちの切り替えには欠かせないこと。それが近年はカレンダーの新暦で行うから違和感が強く、身体は馴染まず拒否してしまう。決して病ではありませぬ、余りにも早く速くと急かすから身体が付いて行かなくなって倒れるのです。
以前のわたくしは身体中ばかりか、心の平静を失って暗闇の中で過ごす状態でした。奈落の底に落ちていく時には止められません。でも落ちて仕舞えばそこから這い上がるだけで、無理にしなくても好いし頑張らなくてもいいと思えた。何で皆がと云うのだろう?わたしは私であり、他の誰でもないのだと気づくまでが長かった。急がないの。
枇杷葉と廻り遇えて、あのやさしい香りに包まれ癒された時間は必要だった。知識も何も無くても、心が落ち着いてきて我視えた。哀し過ぎたら涙も出ないが、生きていることの存在を感じ取れた瞬間に堰を切ったように溢れ止ず。それでも居場所が無かった時に、やさしい手が伸びて来てわたくしを掴んでくれた。枇杷葉に守られて感謝だけ。
他者のブログ訪問に際して、文字の間に心の襞が視えてくることがある。そういうのに捉われてしまうと引き込まれてしまうのだが、波長が合うというのか気持ちが判るというのか入って来る。無論、相手の方も同じような感性が無くては通じない。PC上でのやり取りなので、何を何処まで信用するかは難しいことで基本は避けてしまう無難。
元が根暗でめんどくさがりな上に横着者であるから、自分から何かを仕様とかは更にない。枇杷葉・猫・花には反応するが、心理的な講釈は苦手だ。従って、神さまを冒瀆はしていないが信じるまでには至らず、宇宙の森羅万象こそがと疑わず。自然治癒能力のことも、自分の力を援けてくれる故で枇杷葉が媒体なのだと信じている偏屈者ね。
自分以外の人からの知識には尊敬をするが、物事の不足や文句を書かれると詰まらなくなる。或いは、遣って置いて後で何タラというのも敬遠。わたくしだって、という主義主張は金銭的にも精神的にも余裕があればこそ。何もなければその日を生きるのが精一杯で、他のことなど考えることすらなく過している。神の与しもので満足が現状だ。
わたくしは医者嫌いだが、罹らないように心がけて過ごしておりそれが自然と納得も。年齢と共に身体は衰え体力も低下してはいるが、地球に棲む生き物の端くれとして命を終えたくその為には、生かされていることを何かの誰かの役に立てば尚好だ。枇杷葉がそれで活用されれば、これ以上の歓びもなく有難い。これはね、自然からの贈り物。
あの人も、この人にさえも伝えたい。それが成就されればわたくしはあちらに逝けるから、待っていてくれる人が居るからね。わたくしのしたことを、今度はあなたが誰かに出来るとうれしい。輪廻転生とも云いますが、神さまにも仏さまへも願いはしてはならないのだわ。祈り・感謝することで、きっと援けて貰えて安らげるのではないのか。
以前のわたくしは身体中ばかりか、心の平静を失って暗闇の中で過ごす状態でした。奈落の底に落ちていく時には止められません。でも落ちて仕舞えばそこから這い上がるだけで、無理にしなくても好いし頑張らなくてもいいと思えた。何で皆がと云うのだろう?わたしは私であり、他の誰でもないのだと気づくまでが長かった。急がないの。
枇杷葉と廻り遇えて、あのやさしい香りに包まれ癒された時間は必要だった。知識も何も無くても、心が落ち着いてきて我視えた。哀し過ぎたら涙も出ないが、生きていることの存在を感じ取れた瞬間に堰を切ったように溢れ止ず。それでも居場所が無かった時に、やさしい手が伸びて来てわたくしを掴んでくれた。枇杷葉に守られて感謝だけ。
他者のブログ訪問に際して、文字の間に心の襞が視えてくることがある。そういうのに捉われてしまうと引き込まれてしまうのだが、波長が合うというのか気持ちが判るというのか入って来る。無論、相手の方も同じような感性が無くては通じない。PC上でのやり取りなので、何を何処まで信用するかは難しいことで基本は避けてしまう無難。
元が根暗でめんどくさがりな上に横着者であるから、自分から何かを仕様とかは更にない。枇杷葉・猫・花には反応するが、心理的な講釈は苦手だ。従って、神さまを冒瀆はしていないが信じるまでには至らず、宇宙の森羅万象こそがと疑わず。自然治癒能力のことも、自分の力を援けてくれる故で枇杷葉が媒体なのだと信じている偏屈者ね。
自分以外の人からの知識には尊敬をするが、物事の不足や文句を書かれると詰まらなくなる。或いは、遣って置いて後で何タラというのも敬遠。わたくしだって、という主義主張は金銭的にも精神的にも余裕があればこそ。何もなければその日を生きるのが精一杯で、他のことなど考えることすらなく過している。神の与しもので満足が現状だ。
わたくしは医者嫌いだが、罹らないように心がけて過ごしておりそれが自然と納得も。年齢と共に身体は衰え体力も低下してはいるが、地球に棲む生き物の端くれとして命を終えたくその為には、生かされていることを何かの誰かの役に立てば尚好だ。枇杷葉がそれで活用されれば、これ以上の歓びもなく有難い。これはね、自然からの贈り物。
あの人も、この人にさえも伝えたい。それが成就されればわたくしはあちらに逝けるから、待っていてくれる人が居るからね。わたくしのしたことを、今度はあなたが誰かに出来るとうれしい。輪廻転生とも云いますが、神さまにも仏さまへも願いはしてはならないのだわ。祈り・感謝することで、きっと援けて貰えて安らげるのではないのか。