枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

風情にも・・・

2019年02月28日 | Weblog

 雨が降っている。天気の日には気づかなかったことが、雨粒を見ながら、分かることもある。庭の花々が、しっとりとして似つかわしい。クリスマスローズを移植したり、八換えしたので、何となくほっとする。やはり天水の力は凄い。枇杷葉も、先日の水遣りよりも、心なしか潤っている。

 すばるも、少しばかりの暖かさに、蒲団を這い出して何処にか。暖房でなく、自分の体温での居心地を探している。今も以前の寝床に入り込んで、様子を窺っている。出窓の所に置いていたのを、部屋の出入りに持って来て、隙間を作るのに使っているが、そこに入り込んだ。お利巧さんだ。

 年金だけの暮しも、何某かの気を使わなくていいのだが、何となく辞めることも言いそびれている。身体が動く間は、勤めをするべきか。まあ、勤務は月の半分程にしているが、年齢的な衰えは隠せないな。とため息交じりに思うばかりだ。贅沢をしたいためでもないが、試行錯誤の日々でも。

 江戸時代のように、食べることで精一杯の野民であれば、機も織っただろうし、工夫もあったろう。物々交換も常日頃で、細々とした賄いで暮らしが保てていた。機械の普及と共に、心が貧しくなり、文明は退化し、権利や主張が横行する。一国のトップの一言の重みは大きい。口は厄の元だ。

 子どもでも、知っているし分かっている、他人の物は盗らない。嘘をつかない。騙さない。その言葉の持つ意味を、悪に解釈しての横暴振り。それを誰も諫言しない。更なるあおりを加えて、嘘八百を並べ吐く。自分達に都合のいい人数が集まっていれば、何をしてもいいのか。更なる疑問を。

 葉室麟著作 紫匂う を一気に読む。人間の本質かも知れぬし、この時代に、こういった男がいたのか、と眩しかった。真実、剣の使い手は、普段は黙して静かだが、大切な者を守ろうとする時、本領が発揮される。二人の子どもの純真さと、信じて疑わぬ心に教えられた。小さな道端の花に。

 枇杷葉も、そうかもしれない。個々の想いで用途は変化するが、何も感じなければ邪魔な木に過ぎない。祈り感謝する心があればこそ、効果も違ってくるのだろう。大切に思い育てて、自然からの恩恵を胸に留めたい。さすれば枇杷葉が応えてくれるし教えても。命ある物に代わりはないのだ。

 友人が花苗店で買った。随分と高い鉢だったようだが、車から下ろす時に折れた枝が付いた。

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