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枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

旧暦の訓え

2010年07月15日 | Weblog
 暦の上での入梅が、晴れと雨では、その梅雨時の仕様が違う。というのは強ち違ってはいない。当たっているというよりも、違わずの方が正しい。そういった年度や時期に、家屋や建築物を施行すると、やや愚の悪いことが起きる。先ずは、土がいけない。次には材木がいけない。夏の時期には、生命が大きく転じる時であり、建造・建築には向かない。事が成就しないで、ひび割れが生じる。

 反対に、冬場の建築には、手抜きが出来ない。狂いが生じないないので、誤魔化しが効かない。気持ちも弦を張っているようなので、連呼・連動する気迫がある。加えて、程好い緩みが生じて、心の余裕を持たせる。従って家屋の建築は、寒さの折が佳い。 もし、これらに異を唱える者あらば、穢れを祓い、悪しき物を避け、心の平らな者に祈祷させるべし。

 集中豪雨で、被害が大きくなっているが、家を建てたりする時には、方位や無論、方角や時期も大切な要因。また、建物の材質も、住居年数を計算して、安く値切らない。こういった物をケチらないことだろう。今、古民家を再生して住まうのが流行だが、できれば手を加えず、そのままに生かせるのがいい。昔の大工の棟梁は、腕も半端でないが、土地の感や、何故其処に、その家屋を建てたか、知り抜いているからだ。

 旧暦を見ていると、何やら理解不能のことが書いてある。けれども、祖母のしていたことを、思い起こせば納得する。三隣亡、の日には、決して山には入らなった。言葉の持つ意味を知っており、事を荒立てるのを好まなかったのだ。人間にではない。神に対する畏怖の念である。祖母のすることは、朝のご先祖さまへの灯明に始まり、太陽が昇ってくれば、頭を垂れ、両手を組んで祈り、月が輝くと、見上げて天気を窺っていた。

 祖母のしていたことは、四季折々に触れ、自然を愛でる心の豊かさがあった。大らかさとも言う。今にして、祖母の偉大な存在を想う。墓掃除に行くのも、自分の至らなさを詫びるため。許しを請うことだ。同じするのにも、意味合いを考えて行なう。見掛けだけの行いを慎む訓えあり。祖母は、命を受け継ぎ、受け渡す役目を知っていた。祖母の使命であったのか。生きること報われずとも、死せる時潔し。

 相手の立場をよむことは、自分の方が一歩下がっていることでもあり、同時に一段上でもある。即ち、遙か四方を見渡せることなり。敢えて多言せず。この世のことだけではなく、あの世のことも前世のことも皆全て、神の意思なり。即ち、是宇宙の摂理なり。私は、新興宗教の教祖ではないので、詳しくは知らないが、形を創る者の意思はわかる。不思議だが伝わってくる。

 苗を買って来たサルビア。今年は、種が零れて発芽。1本、すくすくと育っている。
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