百歳に向かってもう一度世界一周

百歳に向かってもう一度「歩いて世界一周」に挑戦したい。日中友好董存瑞育英基金を充実したい。富士登拝・・・

ミュンヘン到着

2011-11-25 17:27:51 | ウオーキング

11月25日(金) 平成17年1月1日より 2,529日目
               歩いた歩数          その距離
本日      1 2,976歩          9,083m
総計 35,266,195歩  24,686,337m

イタリヤ・オーストリヤ・ドイツミュンヘンを経てベルリンに向かう。後559,534m

              ミ ュ ン ヘ ン 到 着
  

 遂にドイツ ミュンヘンに着いた。ミュンヘンは人口130万余り、ドイツ第3の都市。「ミュンヘン・札幌・ミルウォーキー」のキャッチコピーで日本人にも馴染みのビールの産地であり、北緯43度と同じ緯度であり、札幌が冬季のオリンピックを開催したが、ミュンヘンは夏季のオリンピックをやっている事もあって、札幌とは姉妹都市の協定をしている

 ビールの他に有名なのが、自動車産業も隆盛を誇っている。世界有数の自動車メーカーBMWの本社が有り、メルセデス・ベンツやフォルクスワーゲンと共に自動車王国ドイツを牽引している。

 また音楽では、ドイツを代表するオーケストラーのバイエルン放送交響楽団やミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地だ。

 私は夏の暑さを避けるために午前5時起床、5:30出発でAコースを歩くことを基本としてきたが、彼岸を過ぎて夜明けが遅くなってきて、今は真っ暗で歩道と車道の段差や仕切りの障害物が見え難く、躓いたり危険な目に遭うことがしばしば出て来たので、12月は30分遅らすことにしようと考えて居る。

 

 

 

 


私は潔癖症

2011-11-24 11:05:59 | 自分史

11月24日(木) 平成17年1月1日より 2,528日目

         歩いた歩数         その距離

本日      1 5,575歩        10,903m

総計 35,253,219歩  24,677,253m

墺・伊国境ブレンナー峠を越えてミュンヘンに向かう。後1,161m

 

自分史の骨組みは昭和54年まで来た。この年、わが家の前の小沢さん区長を引き受け、私に副区長を要請されたので引き受けたり、新潟県の取引先の倅の結婚の仲人を引き受けたり、会社の「長印新聞」の編集に参加したり、渋谷の西友デパートの盆栽展に出品、川本賞を頂いたり結構楽しい日々を送ったが、唾をひっかけてやりたいような気分の悪い思いもした。

 高校時代から【怪物江川】と評判の高かった江川卓は1977年、法大4年のドラフト会議でライオンズから一位指名を受けながら遠隔地を理由に入団を拒否、アメリカに留学。翌78年の秋、ドラフト会議の2日前に帰国。ドラフト会議の前日に巨人と電撃契約した。

 当時の野球協約では、指名球団に与えられる交渉権は翌年のドラフト会議の前々日までと書かれていて、ドラフトの前日にはどのチームも交渉権は持って居ないという「空白の一日」が有った。その抜け穴を巨人は突いたのだ。

これが問題となり、セントラル事務局は即時、この契約を 無効として江川の選手登録を却下したが、これに抗議した巨人はドラフト会議をボイコット。残る4球団が江川を一位指名、阪神タイガースが交渉権を獲得した。しかし、江川が阪神への入団を拒否したため、大騒動となった。

 最後は、59年正月、コミッショナーの「江川は阪神に一度入団してから巨人へトレードする」という強引な要請で、阪神は巨人のエース小林繁と江川をトレードして決着した。

 私はこの抜け穴を利用してまで江川を獲得した巨人のやり方と何が何でも巨人でなければという江川の強引さ、そして中に入ったコミッショナーの【足して2で割る】裁定が気に入らず、以来私はプロ野球を見限った。奇しくもまた巨人の内紛で江川の顔がチラチラ、そして今日馘になった代表の反論記者会見が行われるという。やれやれ!

 


盆栽から日記へ

2011-11-23 14:37:52 | 自分史

11月23日(水) 平成17年1月1日より 2,527日目

         歩いた歩数          その距離

本日      1 5,614歩        10,930m

総計 35,237,644歩  24,666,351m

墺・伊国境ブレンナー峠を越えてミュンヘンに向かう。後12,063m

 妻が病院に隔離されて手持無沙汰になった私は盆栽教室に通い始め、その奥の深さに魅せられて次第にのめり込んで行った。行き着いた先は盆栽日記をつける事だった。植え替えは何時が適期か?剪定は何時がよいか?肥料は何を何時やるのか?昨年の今日は何をした。何年前の今日は何をしたと判れば作業の目標もつけ易いだろうと思い、日付毎に、年度を書いて差し込んで行くことにした。

 盆栽に熱が入って居た時は、大変役に立ったし、タケノコやきのこ狩りにも参考になって、便利に利用出来た。ところが【歩いて世界一周】をすることになって、これまでの方式では具合が悪いことになって、70歳の誕生日から切り替えた。そして歩行記録をブログに書き込む事にしてからは、重複を避けて今はブログ一本に絞った。ブログを休むと日記に穴が開くので休めなくなってしまった。題材のない日は頭が痛い。

 昭和52年は1月1日から日記があるから、自分史は楽に正確に書けると一安心してページを捲ってみて驚いた。一年分の資料は、月毎に綴じてあるので12冊6000頁を超える量に目を通さなければならない。これは大変な作業だ。顎が出そうだ。

 1月3日 新町の初道陸神で由樹君に書初め書いた。夜は謡の新年会。
 5月2日 妻が退院。
 6月12日 しげる会のタケノコ狩り  の記事が見つかった。

 

 

 


昭和51年の思い出

2011-11-22 17:13:59 | 自分史

11月22日(火) 平成17年1月1日より 2,526日目

         歩いた歩数          その距離

本日      1 5,272歩        10,690m

総計 35,222,030歩  24,655,421m

墺・伊国境ブレンナー峠を越えてミュンヘンに向かう。後22,993m

 今朝、メールを開いたところ肖さんからのメールが来ていた。私のブログで「中国から母親の死を悼むメールが来た」を見て驚いたこと。承徳市の名誉市民の児玉さんのお母さんの死を外事弁に知らせたのに、承徳市の外事弁のスタッフは私の母親の死と誤解して私の所にメールを送ったのだとのメールだった。承徳市の名誉市民と間違えられるなんて、光栄の至りだ。これにて一件落着!

 自分史の骨組みは昭和51年まで進んだ。この年は私にとって大きな節目の年であったが、わが家や経営する山果市場にとっても重要な節目の年となった。残念なことに、私が一念発起して日記をつけ始めたのは翌年からなので、未だ記憶の範囲内で、断片的なものが大部分だ。

 ところで、5月妻は肺結核と診断されて長野東病院に隔離されてしまった。娘の結婚式は6月16日で夫婦揃って出席しているから、結婚式を済ませてから入院したのではないかと思って居たが、娘は病院から抜け出して来て出席してくれたのだと言っている。

 結婚式は上倉の正受庵で盤山和尚にお願いし、披露宴は城山の市民会館で国鉄の主導で盛大に行われたと記憶している。

 山果市場と長印の合併話は新年役員会で田村社長から話が出て、市場統合を推進する国の方針に副って正月以来両者の協議を進めて5月目出度く合併調印の運びとなり、私は常務取締役で支社の総務を担当することとなった。

 新婚の二人は国鉄の宿舎に愛の巣を構え、妻は長期入院のため、わが家は私と末娘の二人きりで、新町のおばばの応援で過ごすことになってしまった。我が家は鉄街のど真ん中で、男盛りの私には誘惑の多い場所なので、心の置き所に「盆栽教室」を選んだ。

 妻の病院は長期療養患者ばかりで、労働組合ばりの患者会があって、県や病院と団体交渉するなどして、極楽に住んで居るような暮らしをして過ごしていた。相撲が始まると、夫々の患者は四股名をもって、その日の星取表をつけてその成績で番付表を張り出したりしていた。妻は【千曲錦】だったと思う。入院は11か月になり、翌年の5月、丸々と太って退院したほどだ

 私は、中野支社の勤務が終わると、三才にの妻を見舞い、夕食の後長野の盆栽教室に通うのを日課とした。お蔭ですっかり盆栽通になった。また国鉄の人達に誘われて秋には葵謡会に入って謡曲も習い始めた。昭和51年は夫々に動きはあったが良い方向に向かう節目の年になった。


中国から母親の死を悼むメールが来た

2011-11-21 17:13:10 | 自分史

11月21日(月) 平成17年1月1日より 2,525日目

         歩いた歩数          その距離

本日      1 4,857歩        10,400m

総計 35,206,758歩  24,644,731m

墺・伊国境ブレンナー峠を越えてミュンヘンに向かう。後33,683m

 今日は第3月曜日で【26パソコン同好会】の日。寄る年波で落伍者が出て当たり前な同好会に一人の新人が入会された。何処かで見た人と思って居たが思い出せない。自己紹介で中野のS・Kさんで、老人大学の同期生で3班に居た事が判って、大歓迎。同好会の会員が早速【年賀状の作成】で入れ替わり、立ち替わり親切に教えて呉れていた。有り難い。

 午後は中国から来たメールの翻訳を中国語の堪能なOさんに頼んで置いたので、メールを開いて見た。実は承徳市外事弁の傅主任からのメールだが、私は中国語は判らないのだが、「貴方のお母さんが亡くなったと肖さんから聞いた」という意味の事が書いてあるのではないかと判断したが、若しかすると肖さんのお母さんが亡くなったことを知らせるメールであれば、肖さんにお悔やみの言葉を送らなくてはならない。迷った末Oさんに翻訳を頼んだのだ。その返事が来ていた。

 拝啓

本日肖振岭さんから貴殿のご母堂が逝去されたと聞きました。ここに深い哀悼の意を表します。 また貴殿におかれましてもお体をお大事にしてください。

ここ数年来、貴方及び日本の友人の皆様から承徳隆化へのご寄付により、多くの貧困な少年児童の学業に対する援助をいただき、同時に日中両国人民の友好のよしみを促進されましたことに対し、再度感謝申し上げます。機会がありましたら承徳への再訪をお待ち申し上げております。
 
丁重なお悔やみの言葉にすっかり感謝したが、立派な翻訳文には何時も敬意をもって見ているが、これでホッとした。 実は私の母親は今から81年前、私が5歳の時になくなったのだ。私は申し訳ないが、母の葬儀のことは記憶に無いし、親戚の古老の話では大勢の人が田舎から来たので、たいへん喜んではしゃいでいたそうだ。その後、片腕をもがれた父の苦労は想像以上に大変だったし、私達一家の貧乏生活もそこから始まったという話をブログに載せたことがある。
 
  そのブログを見た肖さんが、外事弁の傅主任に話をした。肖さんが、何時ごろ母親の亡くなったと言わなかったのか、傅主任が早合点したか判らないが、傅主任は最近私の母親が亡くなったと解釈して、直ぐにメールを送って呉れたものだと思った。遠く離れた中国の要人から私の母親の死を悼んで哀悼のメールを頂けるなんて私は感謝感激だ。
 
 日本と中国の夫々の国民感情が、些細な(実は大きな)事柄から感情的にいきり立って居るのは残念なことだ。今こそ、福田総理と胡錦濤国家主席が調印した「戦略的互恵関係」の真意を理解して、これを守って行くことが日中両国の国益を増進し、アジアの安定と世界の平和と繁栄に寄与することを認識して、お互いに心の絆を繋ぎ合い、信じあって行くこそこ大切であると確認する。