百歳に向かってもう一度世界一周

百歳に向かってもう一度「歩いて世界一周」に挑戦したい。日中友好董存瑞育英基金を充実したい。富士登拝・・・

昭和51年の思い出

2011-11-22 17:13:59 | 自分史

11月22日(火) 平成17年1月1日より 2,526日目

         歩いた歩数          その距離

本日      1 5,272歩        10,690m

総計 35,222,030歩  24,655,421m

墺・伊国境ブレンナー峠を越えてミュンヘンに向かう。後22,993m

 今朝、メールを開いたところ肖さんからのメールが来ていた。私のブログで「中国から母親の死を悼むメールが来た」を見て驚いたこと。承徳市の名誉市民の児玉さんのお母さんの死を外事弁に知らせたのに、承徳市の外事弁のスタッフは私の母親の死と誤解して私の所にメールを送ったのだとのメールだった。承徳市の名誉市民と間違えられるなんて、光栄の至りだ。これにて一件落着!

 自分史の骨組みは昭和51年まで進んだ。この年は私にとって大きな節目の年であったが、わが家や経営する山果市場にとっても重要な節目の年となった。残念なことに、私が一念発起して日記をつけ始めたのは翌年からなので、未だ記憶の範囲内で、断片的なものが大部分だ。

 ところで、5月妻は肺結核と診断されて長野東病院に隔離されてしまった。娘の結婚式は6月16日で夫婦揃って出席しているから、結婚式を済ませてから入院したのではないかと思って居たが、娘は病院から抜け出して来て出席してくれたのだと言っている。

 結婚式は上倉の正受庵で盤山和尚にお願いし、披露宴は城山の市民会館で国鉄の主導で盛大に行われたと記憶している。

 山果市場と長印の合併話は新年役員会で田村社長から話が出て、市場統合を推進する国の方針に副って正月以来両者の協議を進めて5月目出度く合併調印の運びとなり、私は常務取締役で支社の総務を担当することとなった。

 新婚の二人は国鉄の宿舎に愛の巣を構え、妻は長期入院のため、わが家は私と末娘の二人きりで、新町のおばばの応援で過ごすことになってしまった。我が家は鉄街のど真ん中で、男盛りの私には誘惑の多い場所なので、心の置き所に「盆栽教室」を選んだ。

 妻の病院は長期療養患者ばかりで、労働組合ばりの患者会があって、県や病院と団体交渉するなどして、極楽に住んで居るような暮らしをして過ごしていた。相撲が始まると、夫々の患者は四股名をもって、その日の星取表をつけてその成績で番付表を張り出したりしていた。妻は【千曲錦】だったと思う。入院は11か月になり、翌年の5月、丸々と太って退院したほどだ

 私は、中野支社の勤務が終わると、三才にの妻を見舞い、夕食の後長野の盆栽教室に通うのを日課とした。お蔭ですっかり盆栽通になった。また国鉄の人達に誘われて秋には葵謡会に入って謡曲も習い始めた。昭和51年は夫々に動きはあったが良い方向に向かう節目の年になった。