極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

米国で太陽はまた昇る

2015年12月25日 | デジタル革命渦論

  

 

 

     入相の鐘は去りゆく日を悼んで鳴る。    トマス・グレイ 『墓畔悲歌』

                

           The curfew tolls the knell of parting day.            Thomass Gray 

                                                  

● 北海道に18万枚のシャープ製パネル「苫東の森太陽光発電所」

 

【百%水素で発電するガスタービンの実現か】

“水素専焼”ガスタービンの実現には、まだ複数の課題が残る。その1つである燃焼
時にお
ける窒素酸化物(NOx)の発生量を抑える燃焼技術を川崎重工が開発した。百
%の水素を
燃料とした水素専焼ガスタービンについて、従来不可欠であった水や蒸気
を用いずに低
NOx燃焼が可能な水素専焼ドライ・ロー・エミッション(DLE) 燃焼技術を
開発し、ドイツで実施した燃焼試験において低NOx性能を確認。

ガスタービンでの水素燃焼は、水素の燃焼速度が速いことから燃焼が不安定になりや
すく
加え火炎温度が高くなることから、NOxの発生量が天然ガス燃焼時の2倍近く
になることが課題
であった。これらの課題を解決するため、微小な水素火炎を用いる
ことで逆火等の不安定燃
焼を抑制し、かつ低NOx燃焼を可能とするDLE燃焼の基
礎研究を実施してきた。さらに昨年
度からは、内閣府の総合科学技術・イノベーショ
ン会議による戦略的イノベーション創造プロ
グラムの1つである「エネルギーキャリ
ア」を所掌する国立研究開発法人科学技術振興機構
から委託を受け、この微小な水素
火炎を用いたガスタービン燃焼器の開発に取り組んでいる。



このたび、アーヘン工科大学(ドイツ・アーヘン市)の高温/高圧燃焼試験設備にて
水素燃
試験(水素100%)を行い、NOx発生量が大気汚染防止法のNOx規制
値84ppm
(O2=15%換算)を大きく下回る40ppm以下になることを確認。
今後、研究開発を進め、17年を目標として燃焼器の完成を目指すとともに、ガスタービンに
搭載しての技術確立にも取り組む。将来の水素エネルギーの普及を見据え、水素のサプラ
イチェーンの要所を担う様々な製品開発に取り組んでいるが、なかでも水素ガスタービンは、
将来の社会において、水素を燃料とする環境に優しいエネルギー供給システムを構築する
ための重要な製品と位置付けてきた。 

 

 

 

 

 ● 折々の読書 『法然の編集力』 3  松岡 正剛 著 

 【目次】

   第一部 法然の選択思想をよむ

    忘れられた仏教者
    六字名号の伴/宗教は「編集」されてきた法然に吹く風

    専修念仏への道
   父の遺言/浄土思想との出会い/末法を生きる/法然の読暦法ノ専修念仏の確
   信/山か
ら町へ/乱想の凡夫として

    法然のパサージュ
    兼実の「仰せ/「選択」とは何か/法然のブラウザトプリテラシーとオラリティ

    「選択」の波紋
    南都北嶺の逆襲/浄土でつながる……多重な相互選択/親鸞と空也


   第二部 絵伝と写真が語る法然ドラマ

    法然誕の地ノ突然の夜討ちノ時田の遺言/比叡山入山∠宝ヶ池越しに比叡山
    を望む/
18歳での遁世/浄土信仰の象徴/一向念仏則に帰す/吉水での説
    法/念仏宛洋の地/善導
との夢中対面/大原問答/大原問答の地/九条兼実
    の帰依ノ朗婉の計画ご弟fの死罪/
遊女教化/法然の臨終/法然の眠る場所


   第三部 特別対談 松岡正則×町田宗鳳

    大震災を経て/辺境から生まれる希望/仏教の土着化/日本仏教の系譜/仏
    教とイメー
ジ/法然の引き算/仏教を再読/「悪人」とは誰か/仏教におけ
    る死



  忘れられた仏教者
                                    法然に吹く風
 
  法然というと、漠然としたイメージでおとなしい人物として語られることが多い
 ように思います。しかし、たったひとりの「編集で日本仏教の流れを大転換させ
 てしまうような人物ですから、かなりのラディカル・ウィルを持ち合わせた人物だ
 ったはずです。
  明治近代以降、神仏分離令を受けた仏教分離令では、この苫難を超える仏教者の
 探究
が始まりました。歴史上の仏教者に注目が集まったのです。空海や最澄が再発
 見さ
れ、親鸞や道元や日蓮にも光があてられました。しかし、法然の革新性を論じ
 る仏
教者や思想家の登場には、しばらく時間を要することになります。

  むろんのこと、浄土宗の各宗派やその周辺では、宗祖たる法然は長く熱く詰られ
 てきましたし、生身の親鸞をはじめて小説として描いた『出家とその弟子』で知ら
 れる倉田百三などは、早くに「法然と親鸞の信仰」を書いています。けれども昭和
 の戦前戦後を通じても、法然思想はなかなか浮上してこなかったのです。例外はあ
 ります。田村圓澄さんや大橋俊雄さんなど、すぐれた研究者もいらっしやいました。
 とくに大橋俊雄は一貫して法然を研究し、日本の浄土思想と念仏思想をほぼ独力で
 渉猟(しょうりょう)しています。

  しかし、だからといって、法然が日本仏教史や日本思想史の中央ステージに躍り

 出ることは、なかなか見られなかったのです。やはり、どうにも親鸞に引っぱられ
 ていってしまうのです。
  ところが、近年はやっと風向きが変わってきたようです。私の感じた印象でいえ
 ば、一九八九年に宗教学者の阿満利麿さんが『法然の衝撃――日本仏教のラディカ
 
ル』(人丈書院)を発表したあたりからのことでしょうか。阿満さんは、日本では
 じ
めて「宗教的価値の絶対化」をはたした点に法然の革命性を見るのですが、この
 本
でとくに強調されているのは、法然の本願念仏とは「死者の冥福」を祈るための
 も
のではなく、「死」の本質を見据えた「普遍宗教がもつ救済原理」を根本的に提
 
するものである、という卓見でした。

  さらに10年ほどたつと、新しい風が法然に向かっていることがはっきりとして
 
きます。一部の思想界で、法然こそが革命的な宗教者であり、真のアヴアンギャル
 ドであったと評価されるようになってきたのです。とくにプリンストン大学で日本
 仏教を教えていた仏教界のアウトサイダー、町田宗鳳さんによる法然諭はかなり新
 鮮でした。日本仏教は、法然の登場をもってはじめて、現世的な「生の宗教」から
 本格的な「死の宗教」に向かって革命的転換をはかったという議論が展開されたの
 です。

  さらにこの時期になると、町田さんの登場とほぼ時を同じくして東京堂出版の『
 法然辞典』なども刊行され、日本思想大系に収録されていた大橋俊雄校注の『選択
 
願念仏集』も入手しやすい岩波文庫に入りました。近年では、「太陽」の別冊や
 「図
解雑学」のような入門シリーズでも法然をテーマにした本が出版されてきた。
 こう
して見てくると、法然戦線が出揃ってきたのはつい最近だったというべきです。

  それにしても、です。なぜ鎌倉新仏教をりードした法然という偉大な仏教者の再

 発見に、これはどの月日を要したのでしょうか。それはやはり「念仏とは何か」「
 な
ぜ念仏で往生できるのか」「法然はどうやって念仏を選択したのか」ということ
 が
わかりにくいためだったと思います。

  さて、これから私なりに法然を語っていこうと思うのですが、結論の一端を先に
 申し上げておくと、法然という人はきわめて編集的にインターフェースする能力に
 すぐれていた、ということです。そうでなければ、専修念仏という革新には至らな
 かったでしょうし、浄土宗の根本聖典たるぷ心択本願念仏集』は成立しなかったと
 思います。
  
  どういうことか。編集的仏教諭とでもいうべきハ選択本願念仏集』における法然

 の主張は、念仏で往生することができるのは、ほかならぬ阿弥陀仏がそのように「
 選
択」なされたからだということですが、その境地にたどり着くまでには法然自信
 の
「選択」も多重にはたらいていました。私はその「多重さ」に注目したいのです。

  法然の「選択」の重ね方は、ちょっと真似のできないような芸当でして、私は、
 中
世日本におきた仏教改革は、法然の「選択」する力、いうなれば「法然の編集力」
 によってなしとげられたものであると見ています。
  その編集術を垣間見るには、やはり『選択本願念仏集』をひもとくことがなによ
 り重要であろうと思います。しかし、まずは上人の生涯をたどっていくことから始
 めたい。法然の行状にはその思想をのちに決定づけるような場面がいくつも見てと
 れるからです。

  

   専修念仏への道 

                                                  父の遺言

  法然は幼名を勢至丸といい、美作(岡山県)の稲岡荘に生まれています。長承二
 年(1133)のことですから、末法の世に入ってからハ○年。世の中はすっかり
 濁世に染まっていました。時代のイニシアティブをめぐる勢力図も大きく変化しつ
 つある。鳥羽上皇の院政が始まって、平氏が台頭しつつあったころで、平忠盛が院
 の昇殿を許された時期でした。

  子宝に恵まれなかった父母が仏神に析った末に生まれた子どもであるとか、偉人
 伝によくあるような誕生時の逸話や幼年期の話は、ここでは省くことにします。し
 かし、わずか九歳のときに父を失ってしまったことは、法然の思想を読み解くうえ
 でとても重要です。

  父は押領使の漆間時国です。在地の任官としてそれなりに力をもっていたようで
 すが、稲岡荘の預所・明石定明と衝突してしまったらしく、夜襲をかけられます。
 保延七年(1141)のことです。自分の生家にとつぜん弓や刀をもった武者たち
 が襲撃してくるわけですから、九歳の少年にとってかなりのショツクだったことで
 しょう。現在でいう小学校三、四年生くらいの男の子が、目の前で父親の死を見て
 しまったわけです。しかも惨殺に近かった。

  この事件でもうひとつ目立つことは、武者が襲ったということです。のちに天台
 座主になった慈円は『愚管抄』のなかで、「鳥羽院ウセサセ給ヒテ後、日本国ノ乱
 逆ト云コトハヲコリテ後、ムサノ世ニナリニケル也ケリ」と、保元元年(1156)
 におきた保元の乱をもって「武者の世」に変わったのだと記しましたが、時国が襲
 われた1141年といえば、まだ源氏と平氏のどちらが武家の棟梁になるかもわか
 らない、公家社会から武家社会へと移りゆくことの予感が漂いはじめた時期です。

 ですから、実際にはまだ貴族中心の公家社会に近く、父の時国はそういう社会の地

 方役人として美作の地に赴いていたのです。そのなかにあってこの襲撃は新たな武
 家社会の到来を告げるようなもので、勢至丸に「時代の死」を意識させるに十分な
 ものでした。

  時国には、自らの最期を予感しているようなところがありました。少年勢至丸に
 対して「自分の死はいつ来てもおかしくない」と言い聞かせていたとともに、「怨
 親平等」や「自他不二」という考え方をわかりやすく語り聞かせていたようです。
 法然の一代を描いた『法然上人行状託図』によれば、「敵を恨むことなく、私の菩
 提を弔ってほしい」という遺言をのこしたともいいます。

 父親の死が、九歳の勢至丸の心に何をもたらしたのか。勢至丸はのちに出家して
 法然となり、ゆくゆくは浄土門に目が間かれていくわけですが、そのきっかけが父
 の死にあろうことは想像に難くありません。この事件において勢至丸は、父の死、
 時代の死、そして自分の生と死というご二つの死〃を引き受けざるをえなかったの
 です。

  勢至丸の母親は渡来県の秦氏の家系といわれています。その母は当然ながら、遺
 された一人息子の将来を案じます。ふたたび武者たちが討ち入ってくることも考え
 られる。そこで、弟の観覚が院主をしている高円の菩提寺というところに勢至丸を
 あずけることにします。こうしてすぐに仏門に入ったのは、時国の遺言が念頭にあ
 ったためだったと思います。

  勢至丸をあずかった観覚は仏教の基本を教えていくわけですが、この少年の一途
 で優しい人柄と卓越した才能を見て、美作の小さな寺にいるよりも比叡山で学ばせ
 たほうがいいと判断します。観賞もかつて比叡山で学んだ人物でした。そこで、旧
 知の間柄だった比叡山西塔の北呑に住か持宝房源光に勢至丸を託します。それが天
 養二年(1145)、勢至丸が十三歳のときのことです。遠く叡山の地へと移るこ
 とは心許なかったはずですが、叔父の観覚がうまく言って聞かせたのでしょう。か
 つて空海が伯父の阿刀大足によって学道に専かれ、精神的にも行動的にも鍛えられ
 ていったように、当時は代父のような器量と能力をもつ叔父が多かったですし、そ
 ういう慣わしが強かったのです。”変なおじさん”ではなくて、”大きなな叔父さ
 ん”の時代です。

  観賞の紹介で勢至丸を引き受けた源光は、この少年に『法華経」をはじめとした
 天台仏教の基礎をみっちり教えると、二年ほどしてから東塔西谷の皇円のもとで受
 戒させました。皇円という人物は、「粟田の関白」ともいわれた藤原道兼の五代目
 で、のちに歴史書『扶桑略記』三〇巻を著したことでも知られる碩学の学僧です。
 だいたい延暦寺というのは当時すでにして日本最大の宗教センターであって、かつ
 現在の東京大学と京都大学をあわせた総合大学のようなところですから、そういっ
 たごつい学僧がどんどん輩出するのです。そうでなければ暴れん坊の荒法師たち、
 すなわち「僧兵」とよばれる集団ばかりでした。

  延暦寺の授戒は戒壇院で執行されます。「山」の授戒です。もとはといえば、最
 澄が大乗菩薩戒(附睨が)のために始めたシステムでヽ六年の予備教育を経てから
 ようやく受けられるものでした。また、ひとたび受戒すれば、それから十に年間は
 山を下りてはいけないという決まりがありました。それほどまでに厳しいものだっ
 たのです。

  とはいえ、勢至丸もそれが当然のことだと思っていました。授戒の戒師は西塔の
 黒谷にいた慈眼房叡空が当たります。叡空がいた黒谷は当時は「別所」とよばれて
 います。叡空は融通念仏宗を興した良忍の弟子で、一説には太政大臣藤原伊通の子
 とも伝えられ、黒谷のリーダーでした。法然もこの黒谷と縁を深めていくのですが、
 それは受戒の機縁と無関係ではありませんでした。

                           浄土思想との出会い    

   さて、よろこんで受戒出家した勢至丸がなすべきことは、叡山においてはただひ
 とつしかありません。天台三太郎をひたすら読みこむことでした。天台三太郎とい
 うのは『法華玄義』『法華文句』『摩河止観』のことをさしますが、いずれも中国
 南
北朝時代の天台智頭が著したもので、天台法華のバイブル中のバイブルといって
 い
い経典です。
  とくに『摩詞止観』は智頭の重要な著作で、日本仏教思想史において特異な位置
 を占める天台本覚思想を知るためにも必要不可欠な文献です。私も二〇代のころか
 ら『摩阿止観」の大ファンで、かつて「遊』というすこし変わった雑誌を編集して
 いたときには、いろんなスタッフに岩波文庫三冊本の『摩訶止観』をぜひとも読む
 ように勧めたものでした。「空・仮・中」の三観をめぐる思考法がたいへん刺激的
 なのです。中国の天台止観にはこのようなて七三観のほか、一念三千、十乗観法、
 三諦円融といったイデアルな思想の動かし方が明示されていて、私もいっとき凝っ
 たのですが、これがやや柔らかくなって日本に入ってきたわけです。また『摩阿止
 観』は和歌の歌論を読むのにも必須の本です。

  天台三大部の次はその注釈書に進みます。これは智頭直系の湛然が著した注釈書
 が中心になりますが、これもまたひたすら読むだけ。儒学や朱子学で四書五経を注
 釈書とともに学ぶのと似ていますが、これこぞが比叡山の学問の王道だったのです。
 どんな学問だったのかというと、一言でいえば「悟り」の教えです。自覚の哲学で
 す。天台思想独自の深遠さをもっていましたが、そこには「救い」の教えまでは言
 及されていなかったのです。

  およそ三〇年後、法然は比叡山を後にして京の町へと下りていくのですが、この
 「救い」の欠如が大きな問題意識にあっただろうと思います。また、突然の夜討ち
 で父親を失った法然にとって、はやく仏性に目覚めなくてはならないという思いと、
 膨大な天台の経典を読みこむということが、自分のなかでうまく重ならなかったの
 ではないかと推測します。

  しかし、それでもこの青年の才能は際立っていたようで、皇円は勢至九に「円宗
 の棟梁となり給へ」とまで言っています。円宗は円教ともいって、天台宗では『法
 華経』をベースに菩薩道を究めることです。皇円はその円宗のリーダーになるとい
 いと勧めたのだから、これはいずれ衷台座主になりなさいと言ったわけです。たい
 へんな推挙です。しかし勢至丸はそんな栄達の道に入ることを固辞し、受戒の戒師
 をつとめた黒谷の叡空のもとに移ります。

                               この項つづく

 Wikipedia

 

 

【米国で太陽はまた昇る】

12月18日。米国で「Investment Tax Credit(ITC)」と呼ばれる「再生可能エネルギ
ー導入投資税控除」の延長法案が、米連邦議会の土壇場で可決された。「ITC」はこれ
までも米国太陽光発電市場の重要なドリブンとして貢献してきた。実際、太陽光発電
システムの急速な価格削減で、州政府などによる補助金制度がなくなっていくなか、
ITCの市場への貢献度は大きく、米国太陽光発電産業のITCへの“依存度”も極めて高
くなっていく。

ITCは、06年から始まった連邦レベルの制度で、太陽光発電システムを含む、再生可
能エネルギーの設備投資に適用される。太陽光発電システムの購入者であるホームオ
ーナー、発電所所有者、システムリースを提供するプロジェクトデベロッパーは、シ
ステム設置にかかった投資額の30%を税額控除できる。

同制度は08年にブッシュ政権下で延長・拡大されたが、16年末に住宅用について
は終了し、非住宅用(商業、産業、そして発電事業用)は現在の30%から17年1
月1日から10%に下がる――国内外の太陽光発電市場のプレーヤーが恩恵を得るに
は、16年までに建設完了する必要があり、16年は駆け込みによる建設ラッシュが
すすみ、その後17年以降、市場は急速に冷え込む(下図参照)。

 

可決された法案の中身は、延長期間は「5年間」となった。ただ、これまでと違い、
控除される比率が段階的に下がるようになっている。17年から19年の3年間は現
在と同じ30%、20年には26%、21年には22%、そして22年以後は10
%(住宅用は0%になる)に漸減する仕組みになっている。ITC延長可決は、5年延
長により、20年までに太陽光発電産業は1330億米ドル以上の民間投資を米国経
済に呼び起こすとし、さらに、20年までにこの国の太陽光発電は3倍以上の百ギガ
ワット相当し、一般家庭約2千万世帯分の年間使用電力量、または米国の全電力発電
量の3.5%に匹敵――GTMは、ITC延長により、17年から21年の5年の間に25
ギガワットの新たな設置容量をもたらす予測を早々に公表し、米国太陽光発電市は2
0年には20ギガワットに達すると大きく上方修正している(下図参照)。

野党・共和党側は、数年前から「原油の輸出解禁」を目指す動きを強めていた。一方
で与党・民主党は、解禁により、「フラッキング(水圧破砕法)」と呼ぶ、シェール
オイルを採掘する方法が引き起こす環境破壊や地球温暖化を問題視していた。こうし
た対立の打開を模索するなか、歳出法案に民主党が求める「ITC延長」を盛り込むこと
で、折り合いがついた。
つまり、フラッキングまたは石油消費によって増加するであ
ろう二酸化炭素の排出量を、ITC延長で導入が拡大される再生可能エネルギーで「カー
ボンオフセット」するようなイメージが背景にあるが、結果的に、過去何十年もの間
太陽光発電市場の右肩上がりを維持している先進国は、世界で米国だけである(中国
は?)。

 

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