極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

バイキングの船舶隧道計画

2017年03月13日 | 時事書評

  

    

         48  清水をたたえる井戸 / 水風井(すいふせい) 

 

 

                                          

         ※ 井とは井戸のこと。卦象は水(坎)の下に木(巽)があり、井戸に
          釣瓶を入れた形である。
井戸はそのたたずまいはひっそりとしてい
          るが、汲めども尽きぬ生命を持つ。人間生活に欠くことの
できない
          ものでありながら、ふだんはその有難味が忘れられている。あらゆ
          る人間に開放されており、
行きずりの旅人もその恩恵を受ける。井
          戸はまた時々さらわねばならぬ。新陳代謝が必要である。井
戸には
          釣瓶がなければならない。せっかくの清水も汲み上げられず、空し
          く腐ってしまう。井戸は移
動することもない。ジッと居場所を守っ
          ている。これらの性質を人事にあてはめて考えさせるのがこ
の卦で
          ある。

 Mar. 12, 2017

世界初!ノルウェイに船舶隧道計画

数年後、ユニークな体験ができる山の中の1.7キロメートルのトンネルを横断し、航行できるかも
しれない。
世初の船舶隧道(トンネル)が発達することはノルウェーの次の大きな観光資源となるだ
ろう。"
Stad Ship Tunnel"は、フィヨルド・ノルウェーで開催予定のメガ・プロジェクトの名称です。
ノルウェー沿岸局は、有名な建築デザインスタジオ"Snøhetta"により描かれたプロジェクトから新しい
理念提案図を公表。

この船舶隧道は、長さ1.7キロメートル、高さ49メートル(底から天井)、幅36メートル、建
設費は300億円。こ
の事業で、新たなフィヨルド観光スポットを創出する。また、ノルウェー沿岸
を航行する Hurtigruten
フッティルーテン)級型船(下写真ダブクリ)が、厳しい天候で有名な
"Stadhavet
" を安全航行できるように設計されており、また、経済的効果だけでなく、繊細な風景
に融和し
高い美的価値を付加する設計となっている。計画どおりに進めば、一日あたり70~120
隻の船舶が通過できる。隧道は"" Moldefjord"の
南アクセスから北アクセス"Selje" に渡り建設され、観
光客は隧道を通過する船舶を見ることができる

 Hurtigruten

このような船舶隧道建設案は、最初の計画は1870年代の早い時期に行われ、1世紀以上にわたって議
論されてきたが、"Stad"は老朽化した面倒な地域として知られてい。
歴史家はバイキングが"Stadhavet" 
の航海の危険回避に海岸沿いに牽引していたことを記録を残している。建設開始は2019年ごろの予定。
スケール大きな話なのだが、隧道掘削技術からみれば、運河開発事業に大きなインパクトを与える話
題である。これは面白い!
 

  
                                          Stad Ship Tunnel       

  Feb. 22, 2017   

Australian consortium launches world-first digital energy marketplace for rooftop solar

【RE100倶楽部:分散エネルギー取引所とは何か】

● 市場価格に応じて自主的に「売電」


石炭大国オーストラリアは、再生可能エネルギーへと急速に舵を切っている。太陽発電システム(太
陽光)の導入量が急増している。今後は発電した電力の融通について世界初の取り組みを始めるという。
太陽光と蓄電池を導入した家庭や企業が自由に参加する分散エネルギー取引所deX(Decentralised
Energy Exchange
)」が6月に開設がする。これは、固定価格買取制度(FIT)、自家消費、さらにそ
の次を実現する形となる(「FITの二歩先を行く、世界初の分散太陽光市場」スマートジャパン、
2017.03.10)。6月からパイロットプログラムを開始、主導するのは系統内で電力資源をどのように
利用するか、ソフトウェアによって最適化を進める企業GreenSync
同社によればdeXの開設によって、
再生可能エネルギーへのより効果的な投資が促されるため、インフラへの不必要な数十億ドルの投資
を避け
ることを可能にする。同社の発表資料の中で、オーストラリアの屋根の15%以上に太陽光発
電設備が載っている。これら全てが協働して系統を補うことができれば、再生可能エネルギーがより
一層普及する。エネルギーミックスを進める際、再生可能エネルギーの信頼性が高まり、不規則な発
電が問題にならなくなるという。

 Jul. 18, 2016

固定価格買取制度(FIT)や再生可能エネルギー利用割合基準(RPS)など、再生可能エネルギー導入
を促す政策は国ごとにさまざま。
例えばFITによって太陽光の導入量が十分増えたとしよう。現在の
日本のような状況だ。その後、計画的にFITの買取価格が下がっていき、最終的にはゼロになる。FIT
を導入した全ての国がこのような流れをたどる。
その後は発電した電力を家庭や企業が自家消費する
ことになる。買取期間中に導入コストを償却しているため、系統から電力を購入するよりも安く付く)。
しかし、
自家消費だけでは太陽光の能力を十分に生かしてはいない、さらにもう一歩前進できるので
はないかという発想が、deXを生み出す。

太陽光の発電能力は時刻や季節によって規則的に変化し、天候によって不規則に変わる。電力需要も
同じ。こ
のような状況に対応する手法は大きく2つある。全ての発電設備を中央で制御するというもの。
もう1つは全てを分散処理すること。
deXが狙うのは後者。市場で電力が余っているとき(電力の価
格が下がっているとき)は蓄電し、不足したとき(上がったとき)に放出する。これをdeXに参加す
る家庭や企業が、deXの提示する価格に従って個別に判断する。一方的に売電するFITとは全く異なる。
このような処理にソフトウェア技術を利用し、設定に応じて自動処理することもdeXの特徴だ。手動
で切り替える必要はない。各家庭や企業が能力に応じて発電し、必要に応じて電力を受け取る形にな
る。
 

● deXが必要なのはオーストラリアだけなのか

deXの取り組みは不必要なインフラへの投資を避ける結果につながるというのがGreenSyncの狙い。
在のオーストラリアでは、太陽光発電設備や蓄電池などのリソースが、エネルギー市場へ積極的に参
加することができない。電力の需給とはいわば無関係であり、系統の信頼性維持には役立っていない
分散型の再生可能エネルギーをdeXによって調整し、取引すること。これによってエネルギーミックス
を進め、再生可能エネルギーを高い割合で用いた場合の信頼性や安定性、電力コストの課題を解決で
きる可能性がある。
電力会社の指令に従って送電(売電)を停止する取り組みは短期的に必要だ。だ
が、deXのような取り組みを参考にして、その次を考える必要があるだろうとこの記事は結んでいるが、
当然といえば当然で誰が考えてもそうなるだろうが、最初に考え行動したこのグループに感謝の次第。

 

 

   1.もし表面が曇っているようであれば

  その次に関係を持ったもう一人の人妻は、幸福な家庭生活を送っていた。少なくともどことい
 って不足のない家庭生活を送っているように見えた。そのとき四十一歳で(だったと記憶してい
 る)、私より五歳ほど年上だった。小柄で顔立ちが整っていて、いつも趣味の良い服装をしてい
 た。一日おきにジムに通ってョガをしているせいで、腹の贅肉もまったくついていなかった。そ
 して赤いミニ・クーパーを運転していた。まだ買ったばかりの新車で、晴れた日には遠くからで
 もきらきらと光って見えた。娘が二人いて、どちらも湘南にあるお金のかかる私立校に通ってい
 た。彼女自身もその学校を卒業していた。夫はなにかの会社を経営していたが、どんな会社かま
 では聞かなかった(もちろんとくに知りたいとも思わなかった)。

  彼女がどうして私のあつかましい性的な誘いをあっさりことわらなかったのか、その理由はよ
 くわからない。あるいはその時期の私は、特殊な磁気のようなものを身に帯びていたのかもしれ
 ない。それが彼女の精神を(言うなれば)素朴な鉄片として引き寄せることになったのかもしれ
 ない。それとも精神とか磁気とかなんてまったく関係なく、彼女はたまたま純粋に肉体的な刺激
 をよそに求めており、そして私は「たまたま手近にいた男」というだけだったのかもしれない。
  いずれにせよそのときの私には、相手の求めているものを、それがたとえ何であれ、ごく当た
 り前のこととして迷いなく差し出すことができた。最初のうちは彼女も、私とのそのような関係
 をきわめて自然に享受しているように見えた。肉体的な領域について話るなら(それ以外に語る
 べき領域はあまりなかったとしても)、私と彼女との関係はきわめて円滑に運んでいた。我々は
 そのような行為を率直に、混じりけなくこなし、その混じりけのなさはほとんど抽象的なレベル
 にまで達していた。私は途中でそのことに思い当たって、いささか驚きの念に打たれたものだ。
 でもきっと途中で正気に戻ったのだろう。光の鈍い初冬の朝に彼女はうちに電話をかけてきて、
 まるで文書を読み上げるような声で言った。「もうこの先、私たちは会わないほうがいいと思う。
 会っていても先はないから」と。あるいはそういう意味のことを。

  たしかに彼女の言うとおりだった。我々には実際、先ところが根もとだってほとんどなかった。
 美大に通っていた時代、私はおおむね抽象圃を描いていた。ひとくちに抽象圃といっても範囲も
 し表面が曇っているようであればはずいぶん広いし、その形式や内容をどのように説明すればい
 いのか私にもよくわからないが、とにかく「具象的ではないイメージを、束縛なく自由に描いた
 絵画」だ。展覧会で何度か小さな賞をとったこともある。美術雑誌に掲載されたこともある。私
 の絵を評価し、励ましてくれる教師や仲間も少しはいた。将来を嘱望されるというほどではない
 にせよ、絵描きとしての才能はまずまずあったと思う。しかし私の描く油絵は、多くの場合大き
 なキャンバスを必要としたし、大量の絵の具を使用することを要求した。当然ながら制作費も嵩
 む。そしてあえて言うまでもないことだが、無名の画家の号数の大きな抽象画を購入し、自宅の
 壁に飾ってくれるような奇特な人が出現する可能性はとこまでもゼロに近い。

  もちろん好きな絵を描くだけでは生活していけなかったので、大学を卒業してからは生活の糧
 を得るために、注文を受けて肖像画を描くようになった。つまり会社の社長とか、学会の大物と
 か、議会の議員とか、地方の名士とか、そのような「社会の注」とでも呼ぶべき人々の要を(注
 の大さに多少の差こそあれ)、あくまで具象的に描くわけだ。そこではリアリスティックで重厚
 で、落ち着きのある作風が求められる。応接間や社長室の壁にかけておくための、どこまでも実
 用的な絵画なのだ。つまり私が両家として個人的に目指していたのとはまったく対極に位置する
 絵画を、仕事として描かなくてはならなかったわけだ。心ならずもと付け加えても、それは決し
 て芸術家的傲慢にはならないはずだ。

  肖像画の依頼を専門に引き受ける小さな会社が四谷にあり、美大時代の先生の個人的な紹介で、
 そこの専属契約画家のようなかたちになった。固定絵が支払われるわけではないが、ある程度数
 をこなせば若い独身の男が一人生き延びていけるくらいの収入にはなった。西武国分寺線沿線の
 淡いアパートの家賃を支払い、一目にできれば三度食事をとり、ときどき安いワインを買って、
 たまに女友だちと一緒に映画を観に行く程度のつつましい生活だった。時期を定めて集中して肖
 像画の仕事をこなし、ある程度の生活費を確保すると、そのあとしばらくは自分の描きたい緒を
 まとめて描くという暮らしを何年か続けた。もちろん当時の私にとって肖像画を描くのは、とり
 あえず食いつなぐための方便であり、その仕事をいつまでも続けていくつもりはなかった。

  ただ純粋に労働としてみれば、いわゆる肖像画を描くのはけっこう楽な仕事だった。大学時代
 しばらく引っ越し会社の仕事をしたことがある。コンビニエンス・ストアの店員をしたこともあ
 る。それらに比べれば肖像画を描くことの負担は、肉体的にも精神的にもずっと軽いものだった。
 いったん要領さえ呑み込んでしまえば、あとは同じひとつのプロセスを反復していくだけのこと
 だ。やがて一枚の肖像画を仕上げるのにそれほど長い時間はかからないようになった。オート・
 パイロットで飛行機を操縦しているのと変わりない。

  しかし一年ばかり淡々とその仕事を続けているうちに、私の描く肖像画が思いもよらず高い評
 価を受けているらしいことがわかってきた。顧客の満足度も申し分ないということだった。肖像
 画の出来に関して顧客からちょくちょく文句が出るようであれば、当然のことながら仕事はあま
 りまわってこなくなる。あるいははっきり専属契約を打ち切られてしまう。逆に評判がよければ
 仕事も増えるし、一点一点の報酬もいくらか上がる。肖像画の世界はそれなりにシリアスな職域
 なのだ。しかしまだ新人同然だというのに、私のところには次から次へと仕事がまわってきた。
 報酬もそこそこ上がった。担当者も私の作品の出来に感心してくれた。依頼主の中には「ここに
 は特別なタッチかおる」と評価してくれる人もいた。

  私の描く肖像画がなぜそのように高く評価されるのか、自分では思い当たる節がなかった。私
 としてはそれはどの熱意も込めず、与えられた仕事をただ次から次へとこなしていただけなのだ。
 正直なところ、自分かこれまでどんな人々を描いてきたのか、今となってはただの一人も顔が思
 い出せない。とはいえ私は仮にも画家を志したものであり、いったん絵筆をとってキャンバスに
 向かうからには、それがどんな種類の絵であれ、まったく価値のない絵を描くことはできない。

 そんなことをしたら自分白身の絵心を汚し、自らの志した職業を貶めることになる。誇りに思え
 るような作品にはならないにせよ、そんなものを描いたことを恥ずかしく思うような絵だけは描
 かないように心がけた。それを職業的倫理と呼ぶこともあるいは可能かもしれない。私としては
 ただ「そうしないわけにはいかなかった」というだけのことなのだが。

  もうひとつ、肖像画を描くにあたって、拡は最初から一貫して自分のやり方を貫いた。まずだ
 いいちに、私は実物の人間をモデルにして絵を描くということをしなかった。依頼を受けると、
 最初にクライアント(肖像画に描かれる人物だ)と面談することにしていた。一時間ばかり時間
 をとってもらい、二人きりで差し向かいで話をする。ただ話をするだけだ。デッサンみたいなこ
 ともしない。拡がいろんな質問をし、相手がそれに答える。いつどこでどんな家庭に生まれ、ど
 んな少年時代を送り、どんな学校に行って、どんな仕事に就き、どんな家庭を持ち、どのように
 して現在の地位にまでたどり着いたか、そういう話を聴く。日々の生活や趣味についても話をす
 る。だいたいの人は進んで自分について語ってくれる。それもかなり熱心に(たぶんほかの誰も
 そんな話を間きたがらないからだろう)。一時間の約束の面談が二時間になり、三時間になるこ
 ともあった。そのあと本人の写ったスナップ写真を五、六枚借りる。普段の生活の中で自然に撮
 影された、普通のスナップ写真だ。それから場合によっては(いつもではない)自分の小型カメ
 ラを使って、いくつかの角度から錫杖か顔の写真を撮らせてもらう。それだけでいい。

 「ポーズをとって、じっと座っている必要はないのですか?」と多くの人は心配そうに私に尋ね
 る。彼らは誰しも肖像画を描かれると決まった時点から、そういう目に遭わされることを覚悟し
 ていたのだ。両家が――まさか今ときベレー帽まではかぶっていないだろうがむずかしい顔つき
 で絵筆を手にキャンバスに向かい、その前でモデルがじっとかしこまっている。身動きしてはな
 らない。そういう映圃なんかでお馴染みの情景を想像していたわけだ。

 「あなたはそういうことをなさりたいのですか?」と私は逆に質問する。「絵のモデルになるの
 は、馴れない方にはかなりの重労働になります。長い時間ひとつの姿勢を保たなくてはならない
 から、退屈もしますし、けっこ立居だって凝ります。もしそれがお望みであるのなら、もちろん
 そうさせていただきますが」

  当たり前の話だが、九十九パーセントのクライアントはそんなことをしたいとは望んではいな
 い。彼らはほとんどみんな働き盛りの多忙な人たちだ。あるいは引退した高齢の人々だ。できる
 ことならそんな無意味な苦行は抜きにしたい。

 「こうしてお会いしてお話をうかがうだけでもう十分です」と拡は言って相手を安心させた。
 「生身のモデルになっていただいても、いただかなくても、作品の出来映えにはまったく変わり
 ありません。もしご不満があれば、責任を持って描き直させていただきます」

  それから二週間ほどで肖像画は仕上がる(絵の具が乾ききるまでに数ケ月はかかるが)。拡が
 もし表面が曇っているようであれば必要とするのは目の前の本人よりは、その鮮やかな記憶だっ
 た(本人の存在はむしろ圃作の邪魔になることさえあった)。立体的なたたずまいとしての記憶
 だ。それをそのまま両面に移行していくだけでよかった。どうやら私にはそのような視覚的記憶
 能力が生まれつきかなり豊かに具わっていたようだ。そしてその能力特殊技能と言ってしまって
 いいかもしれないが職業的肖像画家としての私にとってずいぶん有効な武器になった。

  そのような作業の中でひとつ大事なのは、私がクライアントに対して少しなりとも親愛の情
 持つということだった。だから私は一時間ほどの最初の面談の中で、自分か共感を抱けそうな要
 素を、クライアントの中にひとつでも多く見いだすように努めた。もちろん中にはとてもそんな
 ものを抱けそうにない人物もいる。これからずっと個人的につきあえと言われたら、尻込みした
 くなる相手だっている。しかし限定された場所で一時的な関わりを持つだけの「訪問客」として
 なら、クライアントの中に愛すべき資質をひとつかふたつ見いだすのは、さして困難なことでは
 ない。ずっと奥の方までのぞき込めば、どんな人間の中にも必ず何かしらきらりと光るものはあ
 る。それをうまく見つけて、もし表面が曇っているようであれば(曇っている場合の方が多いか
 もしれない)、布で磨いて曇りをとる。なぜならそういった気持ちは作品に自然に撒み出てくる
 からだ。



  そのようにして私はいつの間にか、肖像画を専門とする画家になっていた。その特殊な挟い世
 界ではいくらか名前を知られるようにもなった。私は結婚するのを機に、その四谷の会社との専
 属契約を打ち切って独立し、絵画ビジネスを専門とするエージェンシーを介し、より有利な条件
 で肖像画の依頼を引き受けるようになった。担当者は私より十歳ほど上で、有能で意欲的な人物
 だった。独立して、もっと大事に仕事をするようにと技が私に勧めてくれたのだ。以来、私は多
 くの人の肖像画を描き(多くは財界と政界の人々だった。その分野では著名人だということだが、
 私はほとんど誰の名前も知らなかった)、悪くない収入を得るようになった。しかしその分野に
 おける「大家」になったというわけではない。肖像画の世界はいわゆる「芸術絵画」の世界とは
 成り立ちがまるで違う。写真家の世界とも違う。ポートレイト専門の写真家が世間的な評価を受
 け、名前を知られることは少なからずあるが、肖像両家にはそんなことは起こらない。描いた作
 品が外の世界に出ていくこともきわめて希だ。美術雑誌に載ることもなければ、画廊に飾られる
 こともない。どこかの応接間の壁にかけられ、あとはただはこりをかよって忘れられていくだけ
 だ。その絵をたまたまじっくり眺める人がいたとしても(おそらくは暇を持て余して)、画家の
 名前を尋ねるようなことはまずあるまい。

  ときどき自分が、絵画界における高級娼婦のように思えることがあった。私は技術を駆使して、
 可能な限り良心的に、定められたプロセスを抜かりなくこなす。そして顧客を満足させることが
 できる。私にはそういう才能が具わっている。高度にプロフェッショナルではあるが、かといっ
 て機械的に手順をこなしているだけではない。それなりに気持ちは込めている。料金は決して安
 くはないが、顧客たちは文句ひとつ言わずそれを支払う。私か相手にするのはそもそも、支払い
 頼など気にもしない人々だから。そして私の手腕はロコミで人から人へと伝わる。おかけで顧客
 の来訪は絶えない。予約帳はいつも埋まっている。しかし私自身の側には欲望というものが見当
 たらない。ただのひとかけらも
        

                                 村上春樹 『騎士団長殺し』Ⅰ部 顕れるイデア編

今夜も丹念に書かれた文書を、さほど丹念に読むことなく流す。これからワクワクするような、あるいは、バァ
ァアーッとくる出会いを楽しみにして読み進めていこう。

 

   

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