極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

ビートルズ・ラブ・ソングス Ⅲ

2016年06月11日 | 時事書評

 

    


  


               踊りなんて、(誰も)見てくれなきゃ何の意味で踊ってるんだ、ということに
               なっちゃうんだけど、ほんとうに大切なのは、踊ってる人そのものです。
           

 

                                  

                                             Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924 - 16 Mar, 2012  

  

 

【ビートルズ・ラブ・ソングス Ⅲ】

 ● エニー・タイム・アット・オール 

この極は64年に発表された英国盤公式オリジナル・アルバム『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』の
B面1曲目に収録された楽曲。レノン=マッカートニーの作。実質的にはジョン・レノンの作品。レコーディン
グに
入った時点では未完成であったためレコーディング中に完成されたという。冒頭の「バン」というドラム音
はリンゴ・
スターによる、スネア・ドラムとバス・ドラムを同時に叩き出した音が印象的な仕上がりとなり、続
くタイトル・コ
ールは最初にジョン・レノンが、続くリフレンはポール・マッカートニーが歌っている。ジョン・
レノンは後年、セカンドアルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』A面1曲目の「イット・ウォント・ビー・ロング」
に感化して作曲したと語っているという。米国盤『サムシング・ニュー』のモノラル盤ヴァージョンでは間奏の
ピアノが遅れてフェード・インしているとか(Wikipedia)。「どんな時も/どんな時も/どんな時だって/君が
するべきことは/電話だけ/そしたら僕は君の元へ行く/誰か屍すべき人が必要なら/ただ僕の目を見てみなよ
/そしたら僕は君の元へ/君を楽しませるよ/君が辛くて/悲しい気持ちなら/僕も本当に共感するだろう/悲
しんでねいで/今夜僕に電話してきてよ/太陽が霞んでしまっても/僕がそれを輝かせるよ・・・」と歌い世界
の女性たちを魅了していたっけ。 ^^;


The Beatles - "Something New" Full Album

 

 【おしまいの断片・考 Ⅱ】 

   ひとつくらい

   空か興奮の色に染まったその朝、一刻も早く机に向かいたくて

   早いうちから彼は目を覚ました。トーストと卵を食べ、煙草をふかし

   コーヒーを飲みながら、これからとりかかる仕事についてずっと考えていた。

   森を通り技ける険しい道のり。風が空の雲を

   吹き飛ばし、窓の外の彼にわずかに残った本の葉を

   ぱたぱたとふるわせた。彼らに残されているのはあと数日。

   数日ののちには、本の葉は消えてしまう。モこにはひとつの詩があるな、たぶん。

   そのことを考えてみなくては。彼は机の前に

   座り、長いあいだ迷っていたのだが、やがてひとつの

   決断をした。それは結局、その目に彼がなした

   もっとも重要な決断であった。彼の欠陥だらけの人生が彼のために用意した

   何ものか。彼は詩の収められた紙ばさみをわぎに押しやった。

   とくにその中のひとつの詩は、寝つかれぬ夜を過ごしたあとでも、彼の心をまだ

   しっかりとつかんでいたのだけれど(でも結局のところ、ひとつくらい増えても

   減っても、なんていうことないだろう。どうせまだしばらく日にちはかかる

   んだものな)。彼の前には手つかずの一日が広がっていた。

   まずは周辺を整理しておいた方がいいな。現実の用事をいくつか片づけて

   しまおう。長いあいだほったらかしにしていた家の雑用もすませて

   おこう。さあやるぞ。その日一日、彼は必死に働いた。

   そこには愛憎乱れる感情が入り込み、憐れみの心が少し(ほんの少し)あり、

   仲間意識があり、絶望と喜びさえあった。

   彼の人生の遥か彼方にいる人々とか、これまでに会ったこともなければ

   これから会うこともないであろう人々に向かって手紙を書いていると、

   そして「イエス」とか「ノオ」とか「ことと次第によって」とか返事をし

   許諾の、拒絶の理由をいちいち説明していると、時折憤怒の念が勢いよく
  
   燃え上がったが、それもやがてすうっと消えていった。こんなことって

   果たして大事なのかな? 何かそこに意味があるのかな?

   大事な場合もあるにはある。彼は電話を受け、電話をかけた。おかけで

   追加の電話をかける必要ができてしまった。誰々さんに電話をかけると、

   すみません今は話せないんです。明日こちらからかけますから、という答えが返ってきた。

   日が落ちる頃にはもうくたべた、一目かけてまっとうな労働に似た

   ようなことをしたという手応え(でももちろんそいつは錯覚)を感じつつ

   一服して目録を作り、もし物事をおろそかにしたくなかったなら、

   そしてもうこれ以上手紙を書きたくなかったら

   ――書きたくなかった――明朝かけなくてはならない

   二、三の電話をメモした。そうこうするうちに、

   やれやれこんなこともううんざりだな、と彼はふと思った。でもとにかく最後まで

   やっちまおう。数週間前から延ばし延ばしにしていた手紙の返事をひとつ

   書いてしまうのだ。それから彼はふと顔を上げた。外はもう暗い。

   風はやんだ。木々も――今ではもうしんとしている。木の葉はあらかた

   もぎとられてしまった。でもこれでようやく、一件落着。

   彼が目をそらしつづけている詩の紙ばさみをべつにすればという

   ことだが。彼はとうとう紙ばさみを引き出しに入れて、目につかない

   ようにする。うん、これでよし。引き出しの中なら安全だし、その気になれば

   すぐに取り出せる。すべては明日だ。今日できることは洗いざらいすませた。

   あと何人かに電話しなくちゃならないし、

   よくわからない誰かから電話がかかってくるはずだ。電話のおかけで

   短い手紙を何通が書くことになった。

   でもやれやれ、やっと片づいた。これでなんとか森の中からは技け出せた。

   お疲れさま。これで枕を高くして寝られるというものだ。

   やらなくてぱとずっと気になっていたことなのだ。彼の義務感は満たされる。

   彼は誰をも失望させなかった。

   でも整頓された机に向かっているそのときに

   朝のうち書こうとしていた詩の記憶がさわさわと

   彼の心を悩ませた。それにもうひとつそこには、置き去りに

   してしまった詩かあるのだ。

   大事なのはそいつじゃないか。それ以外のあれこれなんて実に

   取るにもたりないことだ。なのにこの男は一日じゅう電話でべらべら

   お喋りをしたり、阿呆な手紙を書いたりしていて、そのあいだ

   ずっと彼の詩は投げ出され、放りだされ、見捨てられ――

   それどころじゃない、試みられてさえいない。この男には詩なんてもったいないぞ。

   こんなやつに仮にも詩心と名のつくものが宿ってよいものか。

       この男の詩が、もしこれ以上この世に生み出されるとしたら、

   そんなもの鼠にでも食われてしかるべきだな。
                                    Once more

 

   イントロダクション


                                          テス・ギャラガー
                                           村上春樹 訳 

  チェーホフの文章をそこに加えるようにしようと我々はきめていた。チェーホフの小説は我々の精神のサ
 ヴァイヴァルにはあまりにも不可欠なものだったので、ちょうどミウォシュがホイットマソの詩を自分の本
 に入れたときのように、チェーホフは我々にとって共に進む仲間のように思えたのだ。あたかも、レイが終
 生チェーホフの作品を深く敬愛していたからこそ、その大胆なばかりの愛によって、彼の作品を取り上げる
 許可を勝ち得たかのようでもあった。

  ある夜に私はレイと二人で、ある作曲家がテレビでインタヴューされるのを見ていた。その作曲家はチャ
 イコフスキーがあるときベートーヴェンのいくつかの楽節をまるごと自分の作品に流用して使ったことを話
 した。そのことで誰かに詰問されたとき、チャイコフスキーは臆することなくこう言った。「私にはそうす
 る権利がある。私は彼を愛しているのだから」と。レイはそのやりとりをメモした。この「愛すればこそ権
 利がある」というくだりは、自分の作品とチェーホフをかくも大胆に結びつけてしまおうという彼の決定に
 大きな影響を及ぼしたと私は思っている。それらチェーホフのパッセージは、レイの詩を彼の短篇小説に結
 びつけることにもなった。

 彼の最後の短篇集はチェーホフに捧げられた『使い走り』という短篇で終わって
いるからだ。選ばれたチェ
 ーホフの文章は、レイの原稿の中に実にこのうえなく自然に落ち着いたように見
えた。それらは響きの上か
 らも、情感の上からも、それまでにレイが書いてきた詩にうまく調和を与え、ま
たそれを増幅させていた。
 折に触れてレイは、チェーホフの引用を通して、自分自身に向かって、また他者
に向かって、敗北に終わる
 しかない状況の中でがんばりつづけるという厳しい仕事を遂行するすべを伝える
ことを可能にしたり(『下
 流に』)、あるいは癌との持久戦において相手に取り込まれてしまわないために
自分の中にかくしとおすし
 かなかった恐怖の存在をはっきりと言葉にして認めることができた(『虫のしら
せ』『雀の夜』)。

  私のアレンジしたものを二人で検討して、本は最終的には六つのセクションに分かれることになった。本
 書の最初のセクションには、以前に出版された旧作が収められている。それらは、さまざまな理由によって、
 最近の作品と一緒に並ぶ機会のなかった一群の詩である。それによってレイは、ちょうど自分の作品にチェ
 ーホフの時代を持ち込み、根づかせたのと同じように、自らのかつての人生をもそこに運び入れたわけだ。
 そしておそらくそれらを想像力を介してとりこむことで、彼は双方の人生を変容させたのだろう。そういう
 点においては、ミウォシュの『到達されざる大地』の中の、彼がしるしをつけたパッセージがレイの密かな
 目的を説明しているかもしれない。


  カール・ヤスパースの弟子であるジャンヌが、私に自由の哲学というものを教えてくれた。それは今現
  在、今日なされているひとつの選択は、過去に向けて自らを投射し、我々の過去の行動を変化させるこ
  とになるのだと認識することによって成立している。


  詩であれ小説であれ、レイの書くものにはひとつの強い衝動がある。それは、いまだに心をかき立てる過
 去の光景や人物を再訪することであり、そこから解放されるとまではいわずとも、少なくともその状況の効
 果的な分析を引き出すことである。本書における初期の恋愛詩は暗い要素をうっすらとほのめかしているが、
 その要素はもっとあとの『奇跡』『不埓な鰻』あるいは『目覚めよ』といった作品においてより明確に現実
 化することになる。かつての詩や、『象』や『コンパートメント』に現れた抑圧するものとしての息子は、
 『私の息子の古い写真について』に再び現れる。その傷はいまだ生々しいが、それでも詩の最後には「もっ
 と先になれば、我々はうまくやっていけるさ」という回復の認知がある。『ささやかだけれど、役にたつこ
 と』で胸苦しいまでに追求された「死んだ子供」というテーマは、詩『レモネード』の中に再び現れてくる。
 その詩の中では、父親に言いつけられてレモネードの入った魔法瓶を取りにいった男の子が川で溺れて死ぬ
 ことになる。

  ふたつめのセクションでは、アイデンティティーの喪失を扱ったトマス・トランシュトレマーの『名前
 という詩に着想を得た一群の詩が紹介されている。おそらくこれらの詩はそれぞれの「疾患」によって、あ
 るいはまた荒らぶれたもの、異形なるものが吹き出し、我々をもう後戻りすることのできない不条理の領域
 へと運びこんでいくその方式によって、性格づけられることになるだろう。『親密さ』において言語的攻撃
 をかける女性は、『奇跡』において肉体的攻撃をかける女性に出会うことになる。彼の最初の結婚生活を扱
  った詩において、飲酒はあいかわらず崩壊の儀式に結びついている。そして彼はそれが引き起こした深い傷
  痕を、まるでつい昨日起こったことのようにひとつひとつ列挙した。

 

 I feel sleepy during the car and drive into the trees at the side of the road.
 Curl me in the back seat and sleep. How long? Hours. The darkness could fall.

 Suddenly I'm awake and do not recognize me. Wide awake, but it does not help.
 Where am I? Who am I? I'm something that wakes up in a rear seat, twisting
 around in panic as a cat in a sack. Who?

 At last my life back. My name is like an angel. Outside the walls blowing
  a trumpet (as in Leonorauvertyren) and saving steps will quickly quickly down
 the stairs too long. That's me! That's me!

 But impossible to forget the fifteen-second fight in oblivion hell, a few meters
  from the main road where traffic passes by with the lights turned on.
 

 

                      Tomas Tranströmer – "The name"



  第Ⅲ部に含まれた『キッチン』(これは『サマー・スティールヘッド』の世界を思い出させる)では、少
 年期のイノセソスが出し抜けに断ち切られることになる。『ちょうざめ』や『もうひとつのミステリー』の
 ような、わけのわからないものが、まったくわけのわからないままに放置されることになる詩もある。『サ
 スペンダー』におけるワーキング・クラスの家庭における暴力性は、農民たちの生活や、少年たちの感受性
 の破壊ぶりを扱ったチェーホフの文章に呼応している。

  第Ⅳ部の冒頭に収められた『一八八〇年、クラクフに戻る』においてミウォシュが問いかける回答困難な
 問いは――「勝ったり、負けたり、そんなことはノもし世界が私たちを結局 忘れてしまうのなら、いった
 い何だというのだ?」――記憶とは自分のそのまま委託された 作ものなのだという詩人の意識に、まっこ
 うから挑みかかる。そしていうまでもないことだが、自らの死に直面したレイの頭には、自分の書いたもの
 が肉体の死を超えて生き残ったときに、そこに含まれた自分の記憶も果たしてまた重要なものとして存続す
 るのだろうか、という自問もあった。ひとりの芸術家のオブセッションなりしるしなりは、たとえ断片的な
 ものであれ断続的なものであれ、それが誰か他の人間に必要とされているかどうかに関係なく、欠くことの
 できぬものとして存在するのだということを彼の詩は静かに示している。またそれと同時に『ひとつくらい
 とか『メモでふくらんだ彼のバスロトフのポケット』といった詩は、創作の持つ気まぐれな側面をユーモラ
 スに明かして見せる。そして何らかの意味のあるものはすべからく、このようないわば「盲撃ち」のプロセ
 スによって蓄積されていくのだというまさに驚嘆すべき事実を我々に知らしめてくれる。

 このセクションにはまた、レイと文学人 生との最初の触れ合いを散文体で記録したものが収められている。
 彼は配達係としてある家に荷物を届けにいくのだが、そこでひとりの老人から「ポエトリー」という雑誌を
 貰うことになる。『使い走り』と同じように、ここに描かれているのは、きわめて特別な物事を明るく照ら
 しだすごくありきたりの瞬間である。ひとつの手からひとりの若い青年、将来作家になる青年に手渡された
 一冊の雑誌は、詩を読んだり書いたりすることが立派な営みであると信じられているひとつの世界の存在を
 彼に教えることになる。それは彼にとっては驚き以外の何ものでもなかった。

  『不埓な鰻』における騎士道の時代と現代との併置は、これまでに『爰について語るときに我々の語るこ
 と』や、あるいはもっと最近の『フラックバード・パイ』においても我々が目にしてきたところのものであ
 る。このような対位法によって、現代の素材に新鮮なバーバリズムを纏わせることが可能になっているよう
 に見える。第V部の冒頭にあるローウェルからの引用(「しかし、何がおこったかを語ってもいいじゃない
 か」)の光の下で、我々はあかあかと容赦なくあばきたてられた「真実なるもの」の偏執的なマグネティズ
 ムを、その罠と暴力性を、しっかり覗き込むことになるのだ。

  同じセクションに収められた『夏の霧』は、レイがこの詩をちょっと読んでみてくれないかと私に手渡し
 たときにロにした言葉のために、私にとってはいっそう特別な意味を持つものとなっている。レイはそのと
 き私にこう言った。こんな事情のせいで僕には、君が僕のために今してくれていることのお返しを君に対し
 てしてあげられなくて、そのことについてはほんとうに済まないと思っているんだよ、と。「それで、僕は
 この詩の中でちょっとしたことを試してみたんだ」と彼は言った。「うまくいっているかどうか、自分では
 よくわからないんだけどね」彼がそこで試みたのは、やがてくるであろう私自身の孤独に対抗するひとつの
 贈り物として、私の死を想定し、彼がそのときに感じるであろう哀しみを想像することだった。この詩が書
 かれた時期には、彼自身の死が私たちニ人にとって――彼の詩の中の言葉を借りれば「途方もない哀しみ」
 となっていたのだという事実を考えれば、これはひとしお感動的である。


      の霧

   眠って、数時間のあいだすべてを忘れてしまうこと……
   七月の霧笛を耳にして目覚めること。
   重い心をいだいて窓の外に目をむけ、梨の本にかかった
   霧を見ること。交差点の流れを緩慢にし、まるで
   健康なからだを蝕んでいく病のようにあたり一帯をつつんでいる
   霧を。彼女が生きることをやめたあとも生きつづけること……
   ライトをつけた自動車がゆっくりと通りすぎていく。そして時計は
   五日前に逆戻りする。電話が何度も何度も鳴って、僕をこちらの世界につれ戻し、
   あの人の死のニュースを僕にもたらした。彼女は何気なく家を出ていった。
   マーケットで罷いっぱいのキイチゴを買って、その
   帰りを待っていたのに。(今日この目から僕はこれまでとは
   ちがった生きかたをするつもりだ。たとえばもう二度と、
   朝の五時にかかってきた電話に答えたりはすまい。でもわかってはいても、それでも
   やはり僕はつい受話器をとって、その運命的な言葉をロにしてしまったのだ、
    「もしもし」。これからはベルなんかずっと鳴らしっぱなしにしておくぞ)
   でもなにぱともあれ、僕はあの人の葬儀に出なくてはならない。今日、それも
   数時間のうちに葬儀がある。でも葬列がこの霧の中を墓地までのそのそと
   進んでいくというのは、なんだか空恐ろしいし、滑稽だ。町の人間はみんな
   どうせライトを対して運転するし、観光客だって……
   この霧が午後の三時までには消えてしまいますように!
   晴れあがった空の下であの人を葬ることができますように。陽光をなにより
   彼女ぱだいじにしていたのだから。だれだって知っている。この暗い仮面劇に
   あの人が加わっているのは、ただたんに選択権がなかったせいだということを。
   選択する力を彼女は失った! きっとそんなことに本人は我慢ならない
   はずだ! 四月にスイートピーを植えようと決意することを愛し、
   まだ蔓ののびる前からせっせと支柱の用意をしていた
   あの人には。


書くことと頭で了解することの間でこれほど手間取るというか、詳細まで深く理解することへの難しさを思い

知らされる。従って、このテーマを終えるまで相当時間が必要だと反省する。

                                          この項つづく                                    

   ● レイも愛した渓流釣り

● 舛添都知事のミカタ

女性って、枝葉末節になぜもこだわるのかなと思う。ご主人が亡くなられていくばくも経ずして生前の悪態を
突く
シーンにしばしば出会ってきた。今朝も、桝添都知事の不正出費疑惑について彼女は許されないと強い口
調でまくし立てるので、確かにそうだけれど、一通り弁明しているようだし許してあげたらどうなのだと言う
が彼女は?「聞いとらん!」。そんこともあり、ANNの『正義のミカタ』の放送でもこの問題を取り上げて
いた。某政治評論家が解説していたが、コメンテイターの高橋洋一嘉悦大学教授が、米国の政治家の支出科目
は、ネガティブ・ルールで禁止科目を決めており、それと適用すると違法となるが、日本では株投資の支出は
禁止されているが「違法」ではない。米国などの先進例を参考に政治資金規正法を改正すれば問題ない。改
に反対する政治家を選挙民がリーコールすれば良くなると指摘
。夏の参議院選挙は、野党がそろって国民に
案すればこの件は落着する
。これが正道であろう。

    


 

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