極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

乗馬と城郭田園都市のデザイン

2014年01月20日 | 滋賀のパワースポット

 






 


【城郭田園都市と乗馬施設】

未来型田園都市構想』で掲載したことにつながるのだが、以前から彦根市は
日本でも珍しく、山紫水明の後背に恵まれ、ヨーロッパの田園城郭都市の条件
が当てはまりやすく、それを反映した都市計画をデザインすべきじゃないかと
書いてきた(『転石の巡礼の明日』『アゴニスト巡礼の明日』『五人巡礼の明
』『ビブリア古書堂の事件手帖』)。現実は国宝彦根城をコアとして再開発
されすぎて独自の構想力に欠けていることに漠然と疑問に思ってきた。また、
時代背景としても、平安時代から江戸時代にかけての合戦や城郭の遺跡も多く
あり、それらを組み込こんだ乗馬振興の施設が市民に開放されていてもおかし
くないじゃないかと思い乗馬の歴史や現状をネットで下調べする。

尚、下表のごとく滋賀県下には8つの乗馬クラブがある。

施設名 郵便番号住所電話HP
全国乗馬倶楽部振興会 詳細 〒158-0098 東京都世田谷区上用賀2-1-1 馬事公苑内 03-3427-0117
琵琶湖乗馬クラブ 詳細 〒520-0062 滋賀県大津市大谷町1-1 077-524-4277
M&S乗馬クラブ 詳細 〒527-0001 滋賀県東近江市建部下野町16-1 0748-25-5940 M&S乗馬クラブ ホームページ
水口乗馬クラブ 詳細 〒528-0005 滋賀県甲賀市水口町水口6382 0748-62-9568 水口乗馬クラブ ホームページ
甲賀乗馬クラブ 詳細 〒520-3413 滋賀県甲賀市甲賀町油日2144 0748-88-3385 -
湖南馬事センター 詳細 〒520-3311 滋賀県甲賀市甲南町竜法師1818 0748-86-5510 -
栗東ホース具楽部 詳細 〒520-3003 滋賀県栗東市荒張1373-30 077-558-4030 栗東ホース具楽部 ホームページ
三田馬事公苑 詳細 〒526-0242 滋賀県長浜市三田町786 0749-74-0200 -

 


●乗馬の歴史

日本に馬が渡来したのは古くても弥生時代末期ではないかといわれているが、
4世紀末から5世紀の初頭には乗馬の風習が伝わる。馬は、軍事・輸送・農耕
の3つを目的とされるが、当初は軍事(儀礼用を含む)が中心で、首長が死ぬ
とその愛馬を殉葬する風習もあり、後になるとその代わりに土人形の馬(埴輪)
を葬るようになる。大化の改新以降、駅馬・伝馬の制度がつくられ、公的通信
手段としての馬の利用が制度化されている。669年、百済救援のために朝鮮半島
に出兵し、新羅と唐の連合軍に大敗したことを契機として馬の軍事的利用が政
策課題となる。これ以降、日本では、第2次大戦終結に至るまで、馬政は軍事
と密接不可分の関係がつづく。ところで、8世紀初頭には国営牧場である官牧
や、国衙(律令制下で諸国に置かれた役所)が管轄する国牧も設置されていた。

奈良時代になると兵部省に馬寮が設けられ、さらに武士階級が成立する平安時
代には、馬寮は左馬寮と右馬寮に改組されている。武士は本来「弓馬の道」を
専らとする職能集団であり、その主たる技能は騎射である。騎射に適した装備
としての大鎧が発達。源平争乱の時代になると、弓馬の道に熟練した武士以外
の人々も戦闘に参加してくる。出土する骨から推定される当時の馬の体高は120
センチから140センチ程度で、現在の競走馬と比べるとかなり小柄。『平家物語』
に登場する「池月(いけづき)」や「摺墨(するすみ)」などの名馬は比較的
大柄であったというが、それでも体高150センチ程度と小さかった。



室町時代には明との貿易が盛んになるが、このとき馬の輸出入も若干おこなわ
れている。また、南蛮貿易では洋種馬も輸入されるようになっていた。薩摩の
島津貴久は天文年間(16世紀中頃)にペルシャ馬を輸入したと伝えられている。
享徳年間(1530年頃)に奥州田名部の領主・蠣崎氏がロシア・モンゴルから数
百頭の馬を輸入したという伝説もある。八代将軍吉宗はペルシャ馬を輸入した
というが、馬匹改良に資するところはあまりなかったという。また、戦国時代
も馬は重要な武器であった。甲斐武田氏の騎馬軍団は特に有名であり、長篠合
戦で織田信長の鉄砲隊が武田氏の騎馬軍団を打ち破ったことはよく知られてい
が、近年の研究によると、槍を持った武田方の騎馬武者を三段構えの鉄砲隊が
撃退したというのは史実と異なり。実際には、合戦場までは騎乗するが、戦場
では徒歩で槍をもって突撃していたようである。ちなみに、鉄砲の三段撃ちも
史実ではない。さらに、幕末期、幕府の軍事指導に当たっていたフランスから
アラブ種の馬が寄贈されたが、幕府陸軍の軍馬改良に使用されることはなかっ
た。

1900年の北清事変や1904年の日露戦争で欧米にくらべ日本の軍馬が貧弱なこと
を認識した政府は馬政局を設置、第1次馬政計画を策定して馬匹改良に取り組
むことになった。洋種の種牡馬導入に加え、去勢の強制や種牡馬の国家管理に
よって強力に馬匹改良が推し進められたが、このことにより在来馬は激減する。
民間での馬匹改良もおこなわれた。神八三郎を中心とする釧路畜産組合ではペ
リシュロン種とアングロノルマン種を交配した小格重輓馬である日本釧路種(
1932年発表)や奏上釧路種(1938年発表)などの品種を創出。
明治から昭和初
期まで、馬の用途は農耕が主であった。明治期になると乾田馬耕(いわゆる明
治農法)が発達し、耕耘に加えて厩肥の生産も農耕馬の重要な役割となる。




●馬術のスポーツ化と楽しみ方

人と馬との共同作業は、中国やエジプト、ペルシャといった多くの古代文明に
遡るが、
馬を用いた競技は古代オリンピックに戦車競技(シャリオ・レース)
があり、近代オリンピック第2回パリ大会で馬術はオリンピック競技になった
が、その時の競技は障害飛越1競技のみで、1921年に開催された国際会議の結
果、オリンピックでは馬場馬術(ドレッサージュ)、障害飛越(ジャンピング)、
総合馬術(イベンティング)の3競技で構成することが決められたが、この競
技は、馬場(調教審査)、クロスカントリー、障害飛越の3つの競技を3
日間
かけて行うこともあり、まさに人馬ともに体力、精神力が必要な競技とされる。

競技以外にもレクレーションとしても人気がある。特に、芝騎乗は、広い緑の
中で悠々と騎乗することでストレスを解消し心の癒して健康増進としの効果を
高めることができる。より強く、より正確に馬をコントロールする技術を
追求する障害飛越や馬場馬術なども競技よりも、楽しく自由に乗馬を楽しみた
い、という方、日常を忘れて日頃の疲れを乗馬でリフレッシュしたい、という
方に最適。また、ビーチライディングという乗馬の楽しみ方もある。


  

さて、乗馬クラブ活動事業は億単位の投資が必要とされるが、ケースによれば、 専門
家のコンサルタントを受け、ゴルフ場を経営する地主からゴルフ場に隣接する土地を安
い賃料で借り、クラブの建物は建設会社が残した現場事務所を流用。什器は会社の統
廃合で不用になったオフィス家具を,廉価で譲ってもらい、自己資金と融資資金三千万
円の計五千万円程度で事業を行っている例もある。個人事業としてでなく、公的資金を
利用し、クロスカントリー、ビーチ乗馬、野外騎乗ができるスケールの事業を行うのも良
いのではないだろうか。

   

 

 

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