極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

因果報応の季節風 Ⅱ

2015年08月29日 | 時事書評

 

             
                      原因と結果は、空間的にも時間的にもかけはなれている。病気
                        や死亡の原因をつきとめようと思えば、見た目には関係もない、
                        いろんな分野の研究成果を集めて、はじめてわかることが多い。
                       
                                            レイチェル・カーソン 


  January 6, 2015

● シェールガス採掘禍!? 地震多発と健康被害

カナダ西部ブリティッシュコロンビア州当局は、州内フォートセントジョンで14年8月に観測さ
れたマグニチュード(M)4.4の地震について、シェールガスの採掘で用いられる「水圧破砕法(
フラッキング)」によって引き起こされたとの見解を示した(時事通信 2015.08.27)。 水圧破砕
法による地震として世界最大級だった(下写真クリック)。同
州の石油・ガス委員会は、採掘して
いたのはマレーシア国営石油会社ペトロナスのカナダ子会社プログレス・エナジー。現地では14
年7月にもM3.9
の地震が起きている。 水圧破砕法は、砂や化学物質を混ぜた超高圧の水を地下
の岩盤に吹き付けて砕き、中にあるガスを抽出する方法。米国では広く用いられている。環境保護
団体は地下水汚染や地震発生につながる恐れがあると主張、欧州の一部諸国では禁止されている。 

   Aug 27, 2015

また、米ペンシルベニア大学などのチームは、シェールガスの採掘に用いる「水圧破砕法(フラッ
キング)」により、近隣住民の入院率が高まり、がんの発症リスクも増加するとの研究結果を報告
している(2015.04.17)。2007~11年、米北東部ペンシルベニア州で坑井の集積度と健康リ
スクの関連性について検証。フラッキングが行われている場所の近くでは、掘削作業が全く実施さ
れていない場所より心臓病、神経疾患、皮膚の異常やがんなどで入院する人の割合が高いことが判
明したとするものである(下グラフをクリック)

  2015.07.15

これに対し、米国・環境保護庁の調査報告で健康被害は認められないとしたため、シェールガス採
掘推進サイドと環境保護サイドとの対立が激化する模様だ(下グラフをクリック→記事が批判する
「フォーブス」にはなぜかオノ・ヨウコの名前が掲載されている。黒幕に英米系金融資本?)。

 2015.08.28

 ● 人食いバクテリア・新型ノロウイルス・手足口病旋風?!

 


彼女が、最近 知り合いの旦那さんが 「人食いバクテリア」と呼ばれ、手足の壊死(えし)や意
識障害を起こして死に至ることもある「劇症型溶血性レンサ球菌感染症」で切断した片足を焼却し
墓入れしたと話すのでなるほど人ごとでないだと驚き下調べする。そすると上のグラフをみて11
年の震災以降増加していることが気になった。放射能汚染で、ウイルスやバクテリアなどの微生物
に異変が起きているのではないか、あるいは、食物連連鎖による内部被爆禍が静かに進行し免疫力
抵抗力が低下てきているのでは老婆心がもたげる。

「劇症型溶血性レンサ球菌感染症」に話を戻そう。一通り目を通してみたが、菌そのものはペニシ
リン系抗生物質(アレルギーのある患者さんに対しては、マクロライド系薬)を10日間程投与す
ればおさまり、予防には、手洗い・うがいの励行で防げるというのだが、「感染して発症すると、
筋肉や脂肪を短時間で浸食して、死に至らしめる(高率)」 というのがピンとこない。風邪の初期
状に似ているというから、わたしなら「ベンザブロックL」を2錠飲み諸症状緩和させているか
ら、緩和しない場合以降の2・3次アクションが遅れれば致命傷となる。さて、どうすればいいの
か?過剰プロテクトしか手がない。怖い話だ。

2015.07.06

しかし、これだけではない。昨冬にアジアで流行したノロウイルスが世界的に流行しつつあるもよ
うであることが、日本の国立感染症研究所などの研究員らがまとめた調査で明らかになったという。
 中国南部で検出された新型ノロウイルス「GII.17」は、まだ免疫を持つ人がいないと思わ
れ、広く流行する恐れがある。米国でのノロウイルスによる死亡者は年間で平均約800人。食品や人
を経由し感染力が高く、世界中で数億人規模に広がる可能性があるという(上図クリック)。



そうかと思えば、過去10年で2番目の大きな流行となっている――手や足、それに口の中に発疹
ができるウイルス性の感染症で、幼い子どもを中心に感染し、まれに脳炎などの重い症状を引き起
こす「手足口病」もある。ただ直近の1週間の患者数が1万8千人と、2週続けて減少し、国立感
染症研究所は流行はピークを過ぎたとみられるが、依然、半数以上の自治体が警報レベルを上回っ
ていて、引き続き注意が必要だというのだが(上写真クリック)
、これも劇症型溶血性レンサ球菌感
染症とおなじく、大人が感染した場合には子供よりも症状――大人が罹患すると、3割ほどの方が
40度近い高熱になり、さらに指先へ発疹やかゆみが生じることで、1~2ヶ月後に爪が剥がれて
しまう――が重くなる場合がある。さらに、手足口病には治療薬や予防薬が存在しないため明確な
治療法は存在せず、基本的には症状を抑える対症療法を行い、自然治癒しかないのだとある。

やれやれ、心配事がつきないようが、これでも因果報応の季節が吹き込んでいるというのだろうか。

 2015.07.09

 

 

【超高齢社会論 Ⅸ: 下流老人とはなにか】 
 

秋葉原通り魔事件が "ワーキングプアー" に 象徴される、過剰競争と自己責任の原理がもたらす
格差拡大社会の歪みとして発生したように、まもなく、日本の高齢者の9割が下流化する。本書で
いう下流老人とは、「生活保護基準相当で暮らす高齢者、およびその恐れがある高齢者」である。
そして今、日本に「下流老人」が大量に生まれている。この存在が、日本に与えるインパクトは計
り知れないと指摘したように、神奈川県小田原市を走行中の東海道新幹線で焼身自殺した事件――
71歳の林崎春生容疑者による「下流老人の反デフレテロ」ではないかとブログ掲載(極東極楽 
2015.07.02 )。『下流老人』の著者である藤田孝典は、「東京都杉並区の生活保護基準は、144,
430円(生活扶助費74,630円+住宅扶助費69,800円 【特別基準における家賃上限】)
である。資産の状況やその他の要素も検討しなければならないが、報道が事実だとすれば、年金支
給額だけでは暮らしが成り立たないことが明白だといえる。要するに、生活保護を福祉課で申請す
れば、支給決定がされて、足りない生活保護費と各種減免が受けられた可能性がある。月額2万円
程度、生活費が足りない(家賃や医療費などの支出の内訳にもよる)。生活に不安を抱えどうした
らいいか途方に暮れる男性の姿が思い浮かぶ」と語っている(YAHOO!ニュース「新幹線火災事件
と高齢者の貧困問題ー再発防止策は 「貧困対策」ではないか!?」2015.07.02)を受け、藤田 孝
典著『下流老人』の感想を掲載していく。    

  目 次     

  はじめに
  第1章 下流老人とは何か
  第2章 下流老人の現実
  第3章 誰もがなり得る下流老人―「普通」から「下流」への典型パターン
  第4章 「努力論」「自己責任論」があなたを殺す日
  第5章  制度疲労と無策が生む下流老人―個人に依存する政府
  第6章 自分でできる自己防衛策―どうすれば安らかな老後を迎えられるのか
  第7章 一億総老後崩壊を防ぐために
  おわりに   

 第4章 「努力論」「自己責任論」があなたを殺す日  

                     ひっそりと死んでいく下流老人たち

  下流老人や生活困窮者に対する批判がなくならない背景には、多くの人が貧困に対して現実
 感を伴ったイメージができていないこともある。

  それは第3章で述べたように、大多数の人がいまだ中流のイメージを引きずっていることか
 らも明らかだし、日本社会の貧困そのものが見えに
くい(見えにくくされている)こともある。
  たしかに日本は物質的には豊かな国だ。それは間違いない。だがそれは世界規模のマスで見
 た場合の話だ。


  たとえば、少しアンテナを張って、周囲を見渡してみてほしい。あな
たの家の隣の住人はど
 うだろうか。隣の隣の家のおじいちゃんは孤立死
していないだろうか。向かいにあるアパート
 や公営住宅で一人暮らしを
している高齢者はいないだろうか。ゴミ屋敷化している家はないだ
 ろう
か,昔お世話になったおじいちゃんやおばあちゃんを最近見かけたことはあるだろうか。こ
 これら身近な人の状況を現実感として自分の中に取り
込むことが、まず必要なのだと思う。
 

  貧困と関連する出来事や事件は、今も身近で起こっている。にもかかわらず、貧困は見えに
 くい。それはメディアが積極的に報じようとしな
いという面もあるが、何より下流老人たち当
 事者が、自分からは声を上
げられない状況にあると考えてほしい。「助けてくれ」と、声を上
 げる
人々が身近にたくさんいたら、政治や政策の優先課題として議会や町の会合でも話題とな
 り、今よりももっと対策を講じやすい土壌が生まれて
いくことだろう。しかし、そうなってい
 ない。


  基本的に、貧困状態にある高齢者は「静か」だ。「こんな老後を迎え
たのはやっぱり自分に
 も責任がある」と自分を責める人々が多く、それ
ゆえに本人や周囲の一部の問題として貧困が
 内在化されてしまう。ま
た、本人が今の状況を恥ずかしいと思う気持ちも強い。そして誰にも
 相
談できないまま、周囲が気づいたときには手遅れになっているケースがどれだけ多いことか。
  わたしたちが貧困の存在を認識し、身近な下流老
人に気づかない限り、支援や制度的な救済
 には結びつかないのが現状な
のだ。

  先述したが、わたしたちが暮らす資本主義社会は、そもそも一定の貧困層を生み出すしくみ
 になっている。失業者がいない国もないし、貧困に’占しむ人がいない国もない。だからこそ、
 あらかじめ失業や貧困に至る人々がいることを想定して、社会保障制度などを確立してきた。
  豊かに暮らせる人々がいる一方、貧困に苦しむ人も一定水準いるのなら、後者に対しては救
 済を行い、助け合いながら社会を維持・存続させていこうという意識があったはずだ。

  だから、下流老人の問題は、そもそも社会保障制度や社会システムの不備であり、周囲のわ
 たしたちがどう手を差し仲べるか、という問題でもある。繰り返しになるが、この問題は、本
 人や家族だけの問題ではないのだ。

                     言われなければ助けないという制度設計

  とはいえ、下流老人の問題に対応する社会保障や社会福祉制度がまったく整っていないわけ
 ではない。日本の社会保障制度は使いにくいものが多いが、それでも本人が声を上げれば使え
 るるものがある。少子高齢化社会に伴い、支援してくれる公的機関や福祉関係者も増えている。
  全国的に公務員削減の潮流にありながら、福祉事務所のケースワーカーなどは、貧困の拡大
 とともに急増中である。声さえ上げれば、助けてくれる人々はたくさんいるのだ。

  ただ、問題はそう単純ではない,先述したとおり下流老人が見えにくい原因には、下流老人
 の側も姿を見せない上うにして隠れているという理由がある。とくに一定の年代より上の人々
 は「オカミの世話になりたくない」という意識が根強くある。実際に、わたしも相談を受ける
 なかでよく聞く旨菓だ。支援が必要にもかかわらず、自ら積極的に救済を求めないという特徴
 が下流老人にはある。

  これを聞いて「じゃあほっとけば?」と思われるだろうか。本人が支援を受けたくないと言
 っているのだから、救う必要はないのだろうか。
  わたしは、そうは思わない。下流老人たちが支援を拒むのは、いわば、"結果論"なのだ。そ
 の上うな考えに至ってしまった過程にこそ目を向けなければ、問題の本質を見誤ったままであ
 る。

  事態をより悪化させている原因のひとつに、支援施策のほぼすべてが「申請主義」を採用し

 ている点がある。申請主義とは、本人が相談や申請の意思をもって、所管する窓口に現れなけ
 れば、その施策を利用できないというものだ。行政がこの申請主義を採用する理由として、国
 民には社会福祉制度を利用する権利があるのと同時に、利用したくないという権利にも配盧し
 なければならないという説明がある。つまり制度を半ば押しつけることで、国民の選択の自由
 を奪わないようにしようというわけだ。

  だが、はっきり言ってこれは脆弁であろう。なぜならほとんどの高齢者が、選択肢があるこ
 とすら知らないからだ,社会福祉制度は専門家ですら全容を把握しきれないほど、広範かつ複
 雑にできているが、国民に対してそれを知らせたり、学習機会を与えることを国はしていない。
 「ホームページを見れば潜いてある」というのは知らせることにならないし、その情報にたど
 り着けるほどITリテラシーの高い高齢者がどれほどいるだろうか。

  これは選択の自由以前の問題だ,いわばルールを教えずにワンサイドゲームを行うようなも
 ので、申請主義の本質は社会福祉制度の利用抑制にあると指摘する専門家もいる。これを個人
 の「無知」で片づけるのは、到底承認できない。生活保護に対する偏見や差別、無理解は、こ
 うした行政の「言わなければ何も教えないし、助けないIというスタンスが招いていると言っ
 ても過言ではないだろう。

                          絶対的貧困と相対的貧困の違い

  先ほど「下流老人が支援を拒むのは結果論である」と述べたが、その理由もここから説明で
 きる。つまり下流老人は「声を上げてくれない」のではなく、「声を上げられない」のだ。
  それは下流老人が社会に助けを求めるという発想自体を持てないということでもあるし、生
 活保護に対する無理解から声を上げにくい雰囲気が醸成されてしまっていることもある。実際、
 貧困に対する社会的な理解は、日本では相当に遅れている。貧困の構造理解が足りないため、
 なぜ貧困に陥る人々がいるのか、正直わからないという人々が多い。

  たとえば、アフリカのいくつかの国や発展途上国、内戦を経験した国々においては、子ども
 たちが飢餓に苦しむなど、救済の必要性が非常にはっきりとした形で目に見える。メディアが
 報じる彼らの姿を見て、わたしたちが「かわいそうだから何とかしなければならない」と思う
 のは当たり前の感情だろう。これは「絶対的貧困」と呼ばれ、誰がどう見ても肉体や生命の維
 持に必要な状態が欠けていると理解されやすい。

  一方で下流老人の問題は、絶対的貧困も含むが、相対的貧困が主体であるため、貧困が見え
 にくい,第1章でも触れたが、相対的貧困は、共
同体の大多数と比べて著しく生活水準が低く
 必要なものが足りないと
いうことだ。この「共同体」という枠組みが大切で、国が違えば、物
 価
も貨幣価値も、生活に必要な物量もまるで違う。そのあたりの理解がないと、相対的貧困に
 苦しむ下流老人に対しても、「雨風をしのげる家が
あるだけマシ」と過度な我慢を強いてしま
 ったり、「2食でも食事がと
れているなら充分」と問題を安usにしか捉えられなくなる。
  しかし本来、絶対的貧困と相対的貧困は比べようがないはずだ。世界
の難民や孤児のような
 次元の異なる貧困をもち出して、下流老人を「大
丈夫」というのは見当違いであろう。


             生活保護パッシングに見る「甘え」を許さない社会

  このようなわたしたちの貧困に対する無理解を象徴するものとして「甘え」というキーワー
 ドが挙げられる。目本では、他者や制度に依存
することは「甘え」であり、それを罪悪と捉え
 る風潮がある。

  この「甘え」というワードは、インターネット掲示板の書き込みなどを中心に現在でも頻繁
 に見られる,たとえば「就職できないのは甘え」
{会社が辛いというのは甘え」「貧乏なのは
 甘え」という具合だ。ネット
胆界において、なかばぶ直行り言葉〃化している向きはあるが、
  しかし
この落葉には日本独特の横並び意識が色濃く反映されているように思う。

  では、貧困になるのは甘え、なのだろうか。生活保護を利用するのはぼえ、なのだろうか。
  もし本当に甘えなのだとしたら、食事も満足にと
らず、病院にも行かず、日に日に衰弱しな
 がらそれでも歯をくいしばっ
て何も診わずに死を迎えることが、人間として立派な姿とでも言
 うのだ
ろうか。
  実際に生活保護を利用している人は、今の日本にどれくらいいるのだろう。それを示す指標
 として、「捕捉率」という数値が発表されてい
る。これは保護が必要な人々が実際に生活保護
 を利用している割合を示
すものだ.

  時明によっても差があるが、厚生労働省などの調査によると、現在の捕捉率は概ね15~3
 0%前後であると言われている。捕捉率の実態が30%
だと仮定しても、全体の3分の1程度
 しかいない。このことは下流老人のなかにも生活保護で救われる人々がまだ大量に残されてい
 ることを物語っている。

  少し海外に目を向けてみよう。他の先進諸国では、生活保護やそれに準じる制度の捕捉率は、
 日本よりも高い,たとえば、ドイツでは60・6%、フランスでは91・6%であり、日本と
 は比較にならないくらい多くの人々が、ごく当たり前に生活保護を受けている(生活保護問題
 対策全国会議監修『
生活保護「改革]ここが焦点だ!』あけび書房、2011)。一概には言
 えないだろうが、他の先進諸国では社会保障を受けることが甘えではなく、「権利」として浸
 透していることも大きく影響しているだろう
  権利として社会保障を受けるべきだという意識が広がっていれば、貧困に陥っても死に至る
 確率は小さくできるし、自分や周囲を責めずにすむ,

  もちろん、「生活保護には頼らない」というブライドがあってもいいと思うが、それが邪魔
 をして、必要な保護を受けられない日本の下流老人の姿は、どこか異様に思えてしまう。そこ
 までの忍耐や我慢をして命を削ることを美徳として捉えるわけにはいかない。そしてまた、そ
 のような忍耐の美徳を他の生活保護受給者や下流老人に押しつけて、「甘えはダメだ」と思わ
 せてもいけない,

                            自己責任諭の矛盾と危うさ

  そしてこのような甘えとセットで論じられるのが「自己責任論」だ生活保護 に関して言え
 ば、「貧困に陥ったのは自己責任。だから生活保護を受給するのは「甘ええ」という論調だ。
  この「自己責任」というワードも、あらゆる問題の原因を包括してしまうじつに不思議な魔
 力を持っている。2015年初めに起こったIS(イスラム国)による日本人人質殺害事件で
 も、自己責任論が大きく取り沙汰された,「勝手に危ない地域に行ったやつのために、なんで
 自分たちの税金を使われないといけないのか」という主張もあった。冷静に考えれば、拉致さ
 れた「被害者」であることは明らかなのに、なぜか「日本国民に迷惑をかけた]と批判の矛先
 が弱者に集中してしまう。

  この理屈が、生活保護批判と類似していることは言うまでもない。結局、下流老人を含めた
 貧困も「自己責任だ」で片づけられ、社会的な解決策を講じることを否定する人は、周囲にた
 くさんいる。
  それならばわたしたちが支払っている税金とは、一体何のためにあるのだろうか。税金を、
 株式か何かの投資と同様に捉えてはいないだろうか。つまり、たくさん納税をしている人(株
 式をたくさん買っている人)こそ、より多くの利益を還元されるべきだし、納税をしていない
 人やまして国(会社)に損害を与える人間は死んで然るべきだ、といった恐るべき思考に陥っ
 てはいないだろうか。

  端的に言えば税金とは、「国民の「健康で豊かな生活』を実現するために、国や地方公共団
 体が行う活動の財源となるもの」である,それに照らせば、生活保護による国民の救済は、ま
 さに税金の使い道として本義といえよう。
  先に挙げたような思考は、応益課税方式(公共サービスの受益量に応じて課税を行う方式)
 の逆転的発想といえる。税による公共サービスを消費活動と同じ次元で捉えているため、どう
 しても資本主義的な自己責任諭が出てきてしまう。しかし、税の第一義的役割として富の再分
 配が掲げられているとおり、税金を多く支払ったからより手厚い公共サービスが受けられるわ
 けではないし、最低限の税金しか払っていないから最低限の公共サービスしか利用してはなら
 ないという考え方は、そもそもおかしいのだ。

  本来「責任」と「権利」は別次元のものである。たくさん働いて金持ちになるか、ほどほど
 の生活でいいのかは、個人の責任に応じた自由だ。しかし「健康で文化的な最低限度の生活を
 営むこと」や「個人の生命が守られること」は、すべての人に与えられた「権利」である。そ
 れを守るために税金の存在意義があるということを、わたしたちは理解しなければならない。
 わたしたちの税金をたくさん使う者は「悪」であり、容認しがたいという意識を根本から変え
 なければ、社会保障の意義自体を失うと言ってもいいだろう。

当面、もって回った言い方が続きそうだ。差別意識にからむ人権問題のその心根は、洋の東西を
問わずつきまとうものだが、欧米では上図のように規制(=法制)――裏を返せばそれほど厳し
い現実が存在する社会諸国という証でもある――が進んでいるように、権利意識が日本より高い
ということになる。つまりは、個々人の独立心(寛容さ・器量)の大きさにかかわる問題と考え
ている。


                                     この項つづく

  

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする