極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

スクリューボールという魔球

2014年04月03日 | 政策論

 

 



●スクリューボールという魔球

阪神のドラフト6位左腕・岩崎優投手(22)が、プロ初登板初先発で5回3安打無失点。初勝利を挙げ
て最下位脱出の立役者になったという。1965年のドラフト制導入後、同3位以下選手の開幕5戦目まで
の初登板初勝利は球団初。雑草ルーキーの好投に刺激され、開幕4試合で3度の2ケタ失点を喫してい
たチームが、今季初の零封勝利を飾った。当初、開幕ローテ5番手は岩田だったところが、ウエスタン・
リーグ、中日戦(ナゴヤ)で4回155安打10失点と炎上。急きょ代役として抜てきされ、チャンスをも
のにする。開幕5戦目までに初登板初勝利を挙げた新人は、07年の3戦目(4月1日・対広島)で希望
枠入団の小嶋が記録して以来、球団2人目。ドラフト3位以下では初の快挙だという。試合のテレビ観
戦はワン・インニングだけで試合結果を彼女から聞かされ知るが、その観戦中、彼の持ち玉にスクリュ
ーボール(落ちるシュート)があることをはじめて知る。そこで、スクリューボールの投法と理論をネ
ットで下調べしておいたが、そこで一言、彼の持ち味は、投球術と制球力になる、と。

 

 



天候の変化による太陽光発電の出力変動を安定化

日立情報制御ソリューションズは、天候の変化による太陽光発電の出力変動を安定化する技術を開発。そ
れによ
ると、太陽光発電の出力変動は、さまざまな天候の変化が要因となって発生するが、数秒間程度の
短時間で太陽
光発電の出力が大きく変動する現象は、雲による太陽光の遮蔽が主要因。そこで、雲による
太陽光の遮蔽と発電
出力の検証に、既設の太陽光パネル上空を数秒間隔で撮影する装置を開発し、撮影し
た太陽光パネル上空の空
画像と出力実績値を照らし合わせ、雲による太陽光の遮蔽が短時間で太陽光発電
の出力が大きく変動する現象
の主要因であることを確認する。



次に、雲が太陽光を遮蔽するタイミングを予測するために、数秒間隔で撮影した空画像から雲の移動を予
測するアルゴリズムを開発しました。空画像を画像処理によって太陽と雲の領域に分割し、雲領域の時系
列での変化から移動方向と移動速度を求めることで数秒後の雲の位置を計算し、雲が太陽光を遮蔽するタ
イミングを予測。また、本アルゴリズムを実データに適用することで、複雑な雲の動きへの対応が必要で
あるなどいくつか課題の抽出もできまたとのこと(なお、本開発内容は、2014年電気学会全国大会で発表
済)。 そこで一言、本件のシステムの有無での効率アップの比較実績データが欲しいなぁ~、と。

  

End of the water bottle? Edible algae 'balloon' could cut plastic waste  

 1999.09 

【アベノミクス第三の矢 僕ならこうするぞ!】 

 
●『異形の心的現象』を二度読む

  2009.11.25

●里山資本主義で経済成長 Ⅲ

いましばらくこの本の対話章を読み続けていこう。前回のレーニンの唯物論に対する西欧の近代の観念
論と仏教でいわれる観念論の差異が正直、難解で、蟠ったままである。そのことを保留にして、ここで
問われている-人間に限らず、有機体が「心」を持つ、「精神」を持つということ、
それ自体がある意
味では危機的な疎外の表現ということになるのではないか、ですから人間の「精神」というのは、人類
が始まって以来ずっと、危機的であり続けている
-「原生的疎外」について吉本は「(キリスト教に対
し)
仏教、特に親鸞教の考え方 は、祖先まで遡っていけば全ての責任を自分で負うことになるけれども、一代
だったら自分の責任ではない、ということが言えてしまう考え方の方が、僕にはぴったりとくる」「もしかすると、ヘ
ーゲル、マルクス流の近代的な発想は認識の有効性を喪失したのではないか(段階論というのはこれは捨
て難いのでは
ないかと、矛盾してしまうのですけれど)、自分の実感に則している。でも、これはなか
なか論理にはならないという矛盾を抱えている」と答え、ここでのは「解決がつかない問題になってい
る」と中途半端であることを吐露している。

●精神医療における霊性と呪術的世界

Q:国連のWHO(世界保健機関)ですこし前、精神の健康をめぐって大論争がありました。もとも
  とはWHOの定義では、健康というのはフィジカルな健康、つまり身体の健康ということだけを
  言っていたのですが、それだけでは不十分だということになってメンタルというのが付け加えら
  れたのです。ところがそれでもまだ不十分だということで、さらにソーシャルというのが、つま
  り社会的にも健康でなくてはいけないというのが加えられて、言ってみれば、バイオ(bio)・
  サイコ(psycho)・ソシアル(scial)という視点から健康をとらえることが大事だということに
    なったのです。ところが今、大きな論争になっているのは、さらにそこにスピリチュアル(spir-
    itua)という言葉を付けるかどうかということなのです。そういった事態をどう考えられるか、
  うかがいたいのですが。

A:それは日本語で言うと?
Q:これも吉本さんのご意見をお聞きしたいと思っているのですが、これをどう訳すかというのも問
  題になっていまして、「霊性」と訳すのか、「霊的」とか「魂」と訳すのか、困っているのです
  ね。
   というのは、近代以降、精神医学や心理学は魂とかスピリチュアルの問題はずっと削ぎ落とし
  ていくなかで成立してきたものですから、逆に今の心理学なり、精神医学にスピリチュアルをど
  う付け加えていくのかが大きな問題となってきます。そうしますと、特に日本の場合はそもそも
  それをどう訳すのかから始めなくてはならないのですね。僕の語感から言いますと、「魂」で良
  いのかなと思いますけれども、鈴水天拙さんの「霊性」という訳が良いという人もいますし、私
  もよく分かりません。でも、世界的に大論争になっていて、最終的な結論が出ていなくて、まだ
  お預けになっているのですが、国連のWHOの会議の席上で日本の代表は態度を保留にしたとい
  うことです。でも大勢はスピリチュアルというものを取り入れていこうという方向であるようで
  す。
   一方で、従来の宗派宗教が衰えてきていて、それこそ人間の宗軟性や「霊性」や「魂」という
  スピリチュアルな次元の問題を宗教が衰退する中で、改めて自分たちの生活の中で見直してゆか
  なくてはならないという現実があります。そういうことの現れとしてこういうことが問題となっ
  てきているのかな、と考えたりもするのですが、その辺りの問題でご意見を伺いたいと思います。
A:僕は実態的なことが大きな要因ですが、何となく歳を取って生きてきて、五~六年位前から身体
  のことを改めて考えるようになりました。
   実感から言いますと、内臓器官の病気とか、手足がだんだん不自由になるとか、筋肉が衰えて
  くるとかということも全部含めて、病気として残るのは、スピリチュアルということでもいい
  し、精神ということでも心ということでもいいんですが、そういうスピリチュアルなものと生理
  的な肉体、身体とはどうしても切り離せない、そういうものだけしか病気としては残らないので
  はないか、ということが実感としてあるのです。逆に言いますと、病気を治すということでした
  ら、精神的に治しても内臓を医学的に治しても、どちらから治しても同じことになるのではない
  かと思います。身体だけの病気とか、肉体だけの病気とか、精神だけの病気というのは、歳を取
  ったときには残らないのではないかという感じが何となくするのです。本当かと言われても分か
  りませんが、ただそう感じられるな、と思うのです。
   お年寄りの場合は、今まで魚が嫌いだったけれど、魚がおかずに出てきても美味しくはなくて
  も食べられるようになったとか、それだけで老人が持っている病気が快復するとか、そうでなく
  ても、「あなた、今日は少し顔色が良くなったね」と言われるだけで、身体的な病状が消えてし
  まうということはあり得る、と実感からするとそう思えるのです。そうすると、心身の健康とい
  うのは、完璧で典型だというのは、一歳未満までの赤ん坊だけではないかと思えるのです
   母親が上手く育てたと仮定して、心身健全というのは一歳未満までの赤ん坊が典型ではないか
  と思いますね。心身健全ということは逆に言うと、赤ん坊というのは何か精神で、何か肉体だと
  は区別できない段階だと思いますけれども、それが一番健康なのではないかと思いますし、それ
  が健康のモデルなのではないかと思えるのです。


    

   最近、子どもが読んでみたらというから、読んだのですが、未開、野蛮の呪術師の翻訳書で
  『呪術師と私』(カルロス・カスタネダ著/真崎義博訳、二見書房)と『無限の本質-呪術師と
  の訣別』(カルロス・カスタネダ著/結城山和夫訳、二見書房)という本です。この本を読んで
  感じたことですが、人類の歴史で言えば、野蛮、未開という段階が典型的だと思うのですけれど、
  その段階だと仏教よりももっと呪術的なのですね。祈るだけという感じで、析れば人間の病気も
  天然自然も良くなると考えられていたのですね。例えば、旱魅で雨が降らないときに、雨乞いを
  すると雨が降ってくることもあり得るのだという段階ですね。野蛮、未開の段階は、ヘーゲル、
  マルクス流に言うと、つまり近代西欧的理念に基づいて言うと、「未開、野蛮の段階は世界史に
  入れなくてもいいのだ」ということになりますし、それがヘーゲルの歴史哲学ですね。
   ヘーゲルは、未開、野蛮の段階では人間は自然に棲息する動植物を食べていて、他の動物と一
  向に変わらない生活をしている、これは歴史哲学の問題外で世界史の中に入れなくて良いという
    考え方だと思いますけれども、僕はこの翻訳書を読んで「そんなことないよ」と思えるところが
    ありましたね。
   呪術師に聞いて記録したというこの本を読むと、例えば、人間というのはだんだん衰えてきて
  この世とおさらばするときがくる。そうすると、仏教では浄土へ行くのだ、キリスト教では天国
  へ行くのだ、となるわけですけれども、そうは言わないで、スピリチュアルといいましょうか、
  要するに「霊魂」でしょうけれども、「魂」というのは今まで連続してきたのだけれど、そこで
  ヒョイと跳躍するのだ、どこに行くかは判らないが、とにかく跳躍する、と言うのですね。そう
  すると、肉体の中にあって区別も何もつかなかった「魂」と言われる部分が、生粋に跳躍して次
  の命があるところに行く、と書いてあるのです。
   凄いことを言うな、と思いましたね。そういう考え方を基準にすると、死んだら浄土へ行くの
  だとか天国へ行くのだというのは、嘘臭い、それは比喩だよ、ということになるのですね。これ
  をヒョイと魂だけが身体から抜け出て跳躍してどこか違うところへ行くのだ、そしてまたそこで
  生が続くのだ、という言い方の方が凄いことを言っているなと思いますね。分類したり、比喩で
  言わなかった以前の時代の一つの考え方の方が本質的ではないかと思えたりするのですね。
   そうすると、ヘーゲル、マルクス流の近代主義的な発想は薄っぺらい感じがしないではないの
  です。呪術師の方がもっと根本的なことを全体的に言えているのではないかという気がするので
  すね。へーゲル、マルクス流の考え方が僕には捨て難いと思えるのは、地域によって人種的違い
  や特徴、風俗や習慣も違う、考え方も少しづつ違ってくるのは、どの歴史段階にもあるのでしょ
  
 うけれど、「段階」という考え方がヘーゲル、マルクス流の考え方の良い所だと思えますね。
  宗教は、段階的に言えば、ある「段階」を過ぎれば、あらゆる宗教は「段階」のいずれかに入っ
  てしまいますから、「段階」という考え方はヘーゲル、マルクス流の良いところだと思いますけ
  れども、野蛮、未開段階のものの考え方と西欧近代を頂点とした文明観とを考えると、野蛮、未
  開段階のものの考え方の方が根本的なことは言いえているような気がするのですね
   ですから、未開、野蛮段階の呪術師の考え方と、完全な健康は赤ん坊にしかないのではないか
  という二つの問題を考えてみると、少し考えさせて欲しい、という感じになるのですね。どうい
  う結論が出るとかというわけではないのですけれども、考えさせて欲しいという感じがしてしょ
  うがないのですね。

Q:随分と時間がオーバーしてお疲れだとは思いますが、そろそろまとめたいと思います。もう一つ
  だけお聞きして終わりにしたいと思います。
A:どうぞ、僕はかまいません。遠慮なくどうぞ間いてください。だいたい僕が抱く疑問符というの
  は、少しも解決はつかないのですけれども、しょっちゅう考えさせられてしまうというところで
  すね。

●「原生的疎外」をめぐって

Q:最後に敢えてお聞きしたいのは「原生的疎外」のことです。吉本さんの「心的現象論」で一番根
  っこにあるのが「原生的疎外」ということだと思います。つまり有機体として環界の中にあるこ
  と自体からくる疎外、あるいは違和というのが「心」なのだという主張だと理解しました。
  ということは人間に限らず、有機体が「心」を持つ、「精神」を持つということそれ自体がある
  意味では危機的な疎外の表現ということになるのではないか、ですから人間の「精神」というの
  は、人類が始まって以来ずっと、危機的であり続けたのではないかとも思います
   それから、最近ライフサイクルということが言われてきまして、例えば思春期の危機とか、中
  高年の危機とか、初老期、老年期の危機とか言われています。けれども、人間が産まれ落ちてか
  ら一歳未満までのころは、勿論問題はあるのでしょうけれども、まだまだそれ程顕在化していな
  い、でも物心がついてからはある意味では人間はずっと危機に生きざるを得ないのかなという思
  いもあります。だからこそ宗教性の必要性も出てくるのではないかとも考えられますが、その根
  っこにある「原生的疎外」ということについて、吉本さんのその後の展開を、今のメンタルヘル
  スの危機ということとの関係でお間きしたいと思います。あるいはまた、はっきり言って私もそ
  うですが、吉本さんも老いて死に直面していくという時期にあたって、何かお考えがおありかと
  思いますので、最後に伺って終わりにしたいと思います。
A:「原生的疎外」というときに、そういう言葉を使うと問題の領域を包摂できるのかなと思ってそ
  の言葉で済ましてしまったのです。
Q:それはマルクスの疎外論をずっと深めていったという中で、と考えてもよろしいでしょうか?
A:そうですね。言葉をそのように使って、疑いを持たなかったというか、これは便利な言葉だと思
  ってきたわけです。今は、少し違うことは、「原生的疎外」ということに則して考えるとすれば、
  その「原生的疎外」というものの構造の中で、これは芹沢(俊介)さんが一番気にしていた問題
  ですけれども、こういう問題があります。
   つまり、僕は実感としてはあるのですが、例えば、親子というものを考える場合に、一代だけ
  の親子関係を考えると、生まれてきた子どもには何の責任もないし、産んでくれと言った覚えも
  ない、ということになります。もっと皮肉を言えば、昔、辻潤という人が「子はサンガーのミス
  テイク」(Margaret Sanger :アメリカの産児制限運動家)という歌留多を作ったことがあるの
  です。つまり親子の関係は、親が勝手に子どもを産んだだけで、子どもはこの世に生まれたとき
  には意志を持って生まれてきたわけではないのだ、ということしか存在しない、ということにな
  ります。そうすると生まれてきた方には責任がないではないか、責任が存在すること自体が既に
  疎外ではないか、ということになります。このことは、疎外という言葉を使っても、責任という
  言葉を使ってもいいのですが、あるいは言葉(言語)と同じように自己表出と言ってもいいので
  すけれど、そういうものは最大限見積もっても半分しかない。後の半分では、自分がこの世界に
  存在するということは自分の責任ではないということになります。
   このことは自分でもこの頃問題にするようになったし、実際の事態としても起こると考えるよ
  うになったのです。例えば、親と子の関係が二代、三代、四代というように、子どもが父親や母
  親になって、老人になって亡くなって、親鸞流に言えば、亡くなって仏になって、またその子ど
  もが子どもを産んで、年寄りになって、というふうに心身ともに遡っていくと、その代々のなか
  に自分もまた同じように存在するわけですから、人間の原生的な自分の意志というのは少しも関
  わっていないと思える人間存在の仕方というのは、心身共に自分の責任だ、といえるようになっ
  てしまうところが、遡っていけばいく程あるのではないかと思えるようになったのです。
  ですから、「原生的疎外」という言い方をしても、責任問題という言い方をしてもいいのですけ
  れども、そのことをもう少し構造まで遡って考えていけば、自分のもの(原生的な意志)はどこ
  にもない、という言い方もできるし、自分の心身は、お猿さんの時代から代々繋がってきて全部
  自分の責任だよ、自分の責任で生まれてきたのだよ、という言い方をしてもいいのだと思うので
  す。
  疎外という言い方をするならば、「原生的疎外」には、全く自分の責任ではない、と言える言い
  方と、自分のもの(原生的な意志)は何もない、という言い方の両方があって、それは心身とも
  に何代にもわたって遡っていくと、自分の責任だよ、ということと同じことなのだ、ということ
  が言えるということを考えないといけないのではないかと思うのですね。
   それは宗教性のようなものを考えると分かるのですが、仏教では浄土教のなかでも、親鸞教と
  キリスト教だけが親子の関係、家族の関係と宗軟性との違いは何か、同じなのは何か、というこ
  とを説いています。キリスト教は聖書にあるように、信仰を同じくする者だけが親子兄弟(姉妹
  )なのだという言い方をしますね。キリスト教の人はみんなそうです。僕が一番身近に感じてい
  る新興宗教として生まれてきたキリスト教系というと、「イエスの方舟」がそうです。千石さん
  う人ですが、家族を乗り越えないと本当の宗放心は持てない、と疑っていないですね。
   「イエスの方舟」はもの凄く自由ですけど、家族だけは越えないと本当の宗放心を持てないと
  言っています。それはキリスト教も同じで、信仰が同じなのが親子兄弟(姉妹)であって、肉体
  的な血縁的な繋がりとしての親子兄弟(姉妹)というのは問題にならない、と聖書は言っていま
  す。千石さんも忠実にそれに近い言い方をしているのですね。仏教は、特に親鸞教だけは違って
  いて、そうではないのです。
  芹沢さんが言うように、一代の親子だけでしたら「私の責任じゃないよ」、「私は生まれてきた
  いと思ったこともないし、生まれてきたのは私の責任じゃない、私の意志は入っていないよ」と
  いうのは、非常に重要な特徴ですね。それが親鸞だと「歎異抄」に書いてあるのですが、キリス
  ト教と同じように、親に対する孝養のために念仏したことは一度もない、信仰が同じ者は親子兄
  弟(姉妹)なのだ、という言い方は同じですけど、論理の付け方は違っています。親鸞の言い方
  だと、親子兄弟(姉妹)は一代でなくて、二代、三代、四代と遡ればさかのぼるほど、自分のも
  のは何もなくて、みんな親のものであり、親の親のものであり、となっていきますと、自分もま
  た親の存在になり得るわけですから、そのように考えると、今度は逆に、その責任は全部自分に
  かぶってきてしまいますから、全面的に自分の責任になります。また、霊性的にもそれは存在し
  得るのだ、そういう言い方をしていますね。
   僕は何となく、親鸞の方が気心が知れるというか、親しみが持てる気がします。戦後、教会に
  行って説教を聞いたことがあるのですが、キリスト教は何か自分の実感に則して合わないかと言
  というと、言うことが大したことないじゃないか、天国を存在するかのように言うじゃないか、
  疑わしいことしか言わないじゃないか、ということもありますけれども、一番怖かったし、敬遠
  すべきだと思ったのは何かと言うと、宗教というのは家族関係や親子関係は違う問題だから宗教
  では家族は問題にならないのだ、家族を乗り越えなければ信仰者にはなれないのだ、というとこ
  ろが物凄く怖かったですし、僕はどうしても受け入れられないなと思いました。

                                     -中略-

   これは特異な家族の在り方だな、と思っていたのですけれども、そういう家族関係の延長線か
  もしれないのですが、キリスト教の家族を捨てないと真の信仰者とは言えない、ということにな
  ると、僕は、それが一番怖いことのように思えたことが随分あります。
   そう考えると、親鸞の言い方の方が怖さがないのです。ですから、仏教、特に親鸞教の考え方
  は、祖先まで遡っていけば全ての責任を自分で負うことになるけれども、一代だったら自分の責
  任ではない、ということが言えてしまう考え方の方が、僕にはぴったりとくるわけですね。自分
  の実感からすれば、一番良いと思うのです。そうすると、小川国夫のようにヨーロッパ型の典型
  的な文学者は、「吉本さんは親孝行だからなあ」と言うのですけど、僕はそういう気持ちでは全
  然ないのです。九州という地域の風俗習慣がそうなっているのです。それはもの凄く僕の考え方
  に影響を与えていて、そういうことを芹沢さんが気付かせてくれた、と思っているのです。
  そういうふうに考えると、「原生的疎外」と考えたものの中身をよく考えてみると、これは一般
   論として言えば、マルクスの言葉を使ったけれども、全然違うかもしれないな、という感じが
  します。近代西洋が問題にもしなかった未開、野蛮のことをもう一度考えると、相当凄いことを

  言っているのではないかと思えたりします。
  僕は、「原生的疎外」にしてもそうですけれども、もしかすると、ヘーゲル、マルクス流の近代
  的な発想は認識の有効性を喪失したのではないか、ただ段階論というのはこれは捨て難いのでは
  ないかと、矛盾してしまうのですけれど、僕はそう考えることが自分の実感に則しているのでは
   ないかと思っているのです。でも、これはなかなか論理にはならないという矛盾を抱えていま
  すね。
   アメリカの9・11のテロ事件がありましたが、僕はテロリストが悪い、と言えるとすれば一
  
つだけだと思います。それは旅客機をハイジャックして、旅客を降ろさないで何も言わないで
  緒に自爆してしまうというのはおかしいと思うのです。それは「原生的疎外」ということで言

  ば、もし、テロリストたちが親子代々の倫理性としての責任を負うものとすれば、彼らの宗教

  その責任を少しも負っていない宗教であり、そういう宗数的な考え方ではないかということです
  ね。

   この間、突っ込まれて、「それじゃ、吉本さん、その旅客機に自分が乗っていたらどうします
  か」という議論になりました。そう言われると困ってしまうのですけれど、感覚で言えば、僕も
  黙って知らん振りしているだろうと思うけれども、いざ、そこに壁が見えて、あそこへ突っ込む
  ということが分かったら何かするかもしれないし、それだけの間もなくて、そのままお陀仏かも
  しれない。何とも言えないけれども、結局はそういうことになるのではないですか、と言った
ら、
  「それなら世界貿易センター・ビルにいた日本人や、たまたま客としてビルに入っていた人た

  は、一緒に死んじやった、というのと同じじやないですか」と言うから、「いや、僕は違うと思

  」と答えましたけどね。
   違うという根拠は、「原生的疎外」という言葉に、もし代々の親子兄弟(姉妹)の血縁関係に
  責任性や関連性や倫理性を負わせるとすれば、やはり旅客を降ろさないテロリストの方が不当だ
  けれど、たまたま世界貿易センタービルに居た人も一緒に死んでしまったというのは、テロリス
  トと一緒に自爆してしまった旅客とは本質的に違っていて、日常のなかでさまざまに起きる争い
  事の中で極端に言うとそういう偶発事故だってあり得ることだから、旅客とは違うのではないか、
  という弁解をしてその場を済ませましたけど、本当はよく分からないですね。

   僕は直感で思ったのですが、これは旅客を降ろさないテロリストの方が悪い。でも本当に喧嘩
  しているのなら、ああしたことだってやることがあり得るのだから、他の犠牲になった人たちに
  対しては少しも悪いところはないのではないか。テロリストが悪いとまわりの人が思うだけで、
  テロリストたちは悪いとは思わないだろうし、ただ、旅客を降ろさなかったというのは、いかな
  る意味でも「原生的疎外」の倫理に反する、という論理で言い訳はしたのですけれどね。
  本当を言うと、自分でも良く分からないのですが、そのことについて、「原生的疎外」に少し構
  造を付けてみたというか、みる羽目に陥ったというか、考えをまとめて書いたのです。それは、
  つい最近、白山(文京区)の向丘に親鸞教で言えば、東本願寺派の人が親鸞仏教センターを作っ
  ので、そのセンターが雑誌を出すので何か書いてくれないかと言うから、そこに書いたのです。
   そのとき、自分が9・11テロ事件のことに理屈をつけるとすればこういうことではないか、
  と思って、「歎異抄」のなかの「父母の孝養のために念仏を唱えることはない」と親鸞が言って
  いる問題に理屈を付けて書いたのです。依頼者の方は不満でしたが、僕は宗教が好きだけど信じ
  ていないからそういう書き方になってしまうのですけど、それは親鸞の中にもあって、自分の中
  の信仰心と不信の感じ方をどうやって調和させるか、ということが「父母の孝養のために念仏を
  唱えることはない」という言い方になるわけですね
   親鸞は上手い言葉を使っていて、「順序生」を考えると言っているのです。僕はなるほど、そ
  ういう考え方をするのかと思って、僕の聖書の理解と結論は同じことですけれども、親鸞の方が
  ピンとくるなという感じを持ったのです。そのことを考えると「原生的疎外」に少しは新たな意
  味を付け加えられたかな、と思えることと、「原生的疎外」ということにちゃんとした意味を付
  与しようとすると、文明の発達と言われているものは、人間精神の退化と同じことなのではない
  かということになるのですね。つまり、どちらが良いのだということになります。
   僕らは整合的なものの見方、考え方に明治近代以降慣れていますから、野蛮とか未開というの
  は問題にならない、動物と同じだと言われると、それはその通りだろうと思ってしまう。そうい
  う考え方を認めて習ってきたのだから、その考え方を変えようとしても、すべてを放り出してし
  まうようなことはできないわけです。整合的なものの見方、考え方の中に既に入ってしまってい
  るような部分が沢山ありますから簡単にはできないわけです。そうすると、文明の発達は人間精
  神の退化だというきっぱりした理屈はないわけです。これはエコロジストと同じで、燃料がない  
  なら何もいらない、牛の糞でいいんだという、そこまで言うだけのものは僕にはないですから、
  そうは言えないとすると、結局、どう考えればいいのかという問題になりますね。要するに、ど
  う考えても同じだよ、進歩と考えても、退化と考えても同じだよ、ということだとすると、それ
  では調和する考え方は何かあるのかと言われると、分からない、ということになってしまいます
  ね。ですから、その辺りの問題は幼稚ですけど、悩む程のことではないのですけれども、今、考
  えていることですね。
Q:それは永遠の問題ですね。
A:解決がつかないという問題になっていますね。

                              『異形の心的現象』、pp.184-198


さしあたり、この「補章1」とつぎの「補章2」まで読み進めた後、本題である「ぼくならこうするぞ
!」(政策論)をまとめていくことにする。


                                      この項つづく 

 
※ NHK『里山のチカラ』:http://www.nhk.or.jp/eco-channel/jp/satoyama/interview/motani01.html

  

 

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