日本の少子化が今後も進行すること、まずこれは疑う余地のない事実。
そして、減少した人口を補うために、移民の受け入れを行わなければならない、という意見も、半ば常識化しているようだ。
小生は、人口が減れば、そのぶん食料も資源もエネルギーも必要量が減少するので、その規模に見合った経済活動を行っていればいいのではないかと思うのだが、ある種の、進歩主義の思想に取り憑かれた人々にとっては、経済活動とは、常に発展させねばならないもの――最悪でも現状維持、後退という選択肢はハナから存在しないもの――であるらしい。
労働人口に反比例して(労働人口が支えねばならない)高齢者が増えているから問題なんだ、とも言われるが、そもそも、今現在の経済的豊かさの水準は、未来永劫維持しなければならないものだろうか。
田口ランディがどこかに書いていたのだが、以前知り合ったホームレスが、「昔は食べるために働いていたが、今は働くために食べている」と話していたらしい。真理だと思う。では、食べるためではない労働は、何のために行われているのか。それはもちろん、過剰な豊かさのためだろう。
留まることなく改良される家電製品、世界中から食材を取り寄せて展開される食文化、格安で行ける海外旅行。ファッションやケータイやパソコンにおいて、「モノは壊れるまで使う」という振る舞いは、既に非常識になっている。(今思いついた「日本人の贅沢」を挙げたが、これ以外にも様々な贅沢がある。特定の分野だけ敵視しているわけではありませんので念のため)
これらの豊かさは、本当に必要不可欠なものなのだろうか。生活レベルを落とすのは、そんなに耐え難いことなのだろうか。今現在の日本の発展は、歴史的に見れば例外的な状態であって、生活レベルが落ちたとしても、もともとの普通の水準に戻るだけだと思うのだが。
でも、進歩主義者には何を言っても無駄というか、経済発展のためなら手段は選んでられないらしい。
小生は必ずしも移民の受け入れに反対というわけではないのだが、日本の人口減少分を補うための受け入れには反対である。なぜなら、移民を、経済維持のための駒としか捉えてないからだ。
移民には移民なりの都合や希望がある。日本で働きたいと考えていたとしても、この職種がいいとか、家族も一緒に連れて行きたいとか、一人一人希望があるだろう。
だが、自国の経済のことしか勘案していない者が、それらに配慮できるだろうか。
現在行われている外国人実習生制度の中でも、相手が外国人で、かつ実習生という曖昧な立場であるのをいいことに、労働力の搾取が公然とまかり通っていると聞く。今ですらそのような有様なのに、本格的な移民の受け入れなど、まともに行えるのだろうか。
そして、そのような移民受け入れが進展してのち、もしも日本の出生率が上昇に転じ、日本人だけで経済発展することが可能になったとしたら、どうなるか。
その時は、逆に移民排斥論が噴出しかねない。
なにせ、経済維持のための駒でしかないのだ。駒を使わずとも経済を維持できるのであれば、「駒なんかいらない」となるだろう。
移民受け入れ政策には、一定の公的資金を投じねばならないだろうから、その点考え合わせると、むしろ移民は経済にとってマイナスだとの指摘を受けかねない。移民が日本人から職を奪っているとの声も上がるだろうし、他にも、日本文化を破壊しているとか、治安を悪化させているといった、経済面以外の批判も出てくるだろう(それらの指摘が事実に反していたとしても、移民排斥の気運が高まっていれば、人々は無条件で信じるだろう)。
カネのことだけを考えて移民を受け入れる者は、カネの都合だけで移民を排斥するようになるはずだ。だから反対なのである。
世界には、戦争や紛争で生活の基盤を失った人達がいる。貧しい国に住んでいるため、定職に就けない人もいるし、野心はあっても、それを叶えるチャンスに恵まれない人もいる。どうせ行うのであれば、日本側の都合だけを考えるのではなく、それらの人々に機会を与える形での受け入れが望ましいだろう。
もちろん、人道的な観点だけで受け入れればいい、というわけではない。国が赤字を垂れ流してまで受け入れるべきだとまでは言えない(カネよりも人道的配慮の方が優先されるべきだから、多少アカが出るくらいは容認していいと思うけど)。上記の都合を抱えた移民を受け入れることが、日本のGDPに繋がるような、「利害の一致」による受け入れこそが、あるべき形だと思う。
さらに言えば、移民を駒と見做す受け入れ政策に潜む問題点は、これだけに留まらない。それは、日本人にも跳ね返ってくる問題をも孕んでいる。
なぜなら、「移民は経済のための駒である」という発想には、「日本人もまた、広い意味で経済のための駒である」という含意も含まれているからだ。
「移民よりは権利を保証するし、福利厚生や社会保障もできるだけ受けさせてあげるけど、駒であることは一緒」
経済維持だけを考えた移民受け入れに同意署名することは、自分達日本人もまた駒に過ぎないという認識に首肯することを意味する。
では、経済維持だけを考えた移民受け入れに反対すれば、それで万事解決かというと、そうではない。日本人を経済の駒と見做す思想は、既にして存在し、社会の至る所で猛威を振るっているのだ。長時間残業の強要、ワーキングプア、ブラック企業…全てこの思想の産物である。
だから、問題を移民受け入れだけに限定してはいけない。労働の現場を広く包括して捉える視点が必要である。その上で、人間を経済の駒と見做す思想全体に、否を突きつけねばならない。
「我々は経済の駒ではない。人間は経済に尽くすためだけに生きているわけではない」
我々が主張すべきことを要約すると、この一言につきる。
それと、もうひとつ注意しなくてはならないことがある。
この手の社会問題には、「悪辣な支配階級が、善良な市民を陥れようとしている」というフレームワークが存するが、事はそれほど単純ではないのだ。「善対悪」という、わかり易い二項対立の図式に還元できる問題ではない。
我々は、自分で気づかないうちに、自らを経済の駒と見做す思想に、同意署名してしまっているのだ。それが自身の首を絞めることになるとは思わず、むしろ良きものをもたらしてくれると信じて、その思想を受容してしまっている。
だから、社会のどこかに排撃すべき敵がいる、などと考えてはいけない。敵は、我々の内側にいる。
誰かを悪に仕立て上げて、攻撃を加えてはいけない。知らず知らずのうちに取り入れていた思考のフレームワークを、反省的に捉え直さねばならない。
話が随分拡がってしまったが、視点を広くとらねば見えてこないものもある。
移民問題は、捉え方次第で、経済と労働における我々のあり方を改める奇貨となるだろう。
オススメ関連本・阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男――伝説とその世界』ちくま文庫
そして、減少した人口を補うために、移民の受け入れを行わなければならない、という意見も、半ば常識化しているようだ。
小生は、人口が減れば、そのぶん食料も資源もエネルギーも必要量が減少するので、その規模に見合った経済活動を行っていればいいのではないかと思うのだが、ある種の、進歩主義の思想に取り憑かれた人々にとっては、経済活動とは、常に発展させねばならないもの――最悪でも現状維持、後退という選択肢はハナから存在しないもの――であるらしい。
労働人口に反比例して(労働人口が支えねばならない)高齢者が増えているから問題なんだ、とも言われるが、そもそも、今現在の経済的豊かさの水準は、未来永劫維持しなければならないものだろうか。
田口ランディがどこかに書いていたのだが、以前知り合ったホームレスが、「昔は食べるために働いていたが、今は働くために食べている」と話していたらしい。真理だと思う。では、食べるためではない労働は、何のために行われているのか。それはもちろん、過剰な豊かさのためだろう。
留まることなく改良される家電製品、世界中から食材を取り寄せて展開される食文化、格安で行ける海外旅行。ファッションやケータイやパソコンにおいて、「モノは壊れるまで使う」という振る舞いは、既に非常識になっている。(今思いついた「日本人の贅沢」を挙げたが、これ以外にも様々な贅沢がある。特定の分野だけ敵視しているわけではありませんので念のため)
これらの豊かさは、本当に必要不可欠なものなのだろうか。生活レベルを落とすのは、そんなに耐え難いことなのだろうか。今現在の日本の発展は、歴史的に見れば例外的な状態であって、生活レベルが落ちたとしても、もともとの普通の水準に戻るだけだと思うのだが。
でも、進歩主義者には何を言っても無駄というか、経済発展のためなら手段は選んでられないらしい。
小生は必ずしも移民の受け入れに反対というわけではないのだが、日本の人口減少分を補うための受け入れには反対である。なぜなら、移民を、経済維持のための駒としか捉えてないからだ。
移民には移民なりの都合や希望がある。日本で働きたいと考えていたとしても、この職種がいいとか、家族も一緒に連れて行きたいとか、一人一人希望があるだろう。
だが、自国の経済のことしか勘案していない者が、それらに配慮できるだろうか。
現在行われている外国人実習生制度の中でも、相手が外国人で、かつ実習生という曖昧な立場であるのをいいことに、労働力の搾取が公然とまかり通っていると聞く。今ですらそのような有様なのに、本格的な移民の受け入れなど、まともに行えるのだろうか。
そして、そのような移民受け入れが進展してのち、もしも日本の出生率が上昇に転じ、日本人だけで経済発展することが可能になったとしたら、どうなるか。
その時は、逆に移民排斥論が噴出しかねない。
なにせ、経済維持のための駒でしかないのだ。駒を使わずとも経済を維持できるのであれば、「駒なんかいらない」となるだろう。
移民受け入れ政策には、一定の公的資金を投じねばならないだろうから、その点考え合わせると、むしろ移民は経済にとってマイナスだとの指摘を受けかねない。移民が日本人から職を奪っているとの声も上がるだろうし、他にも、日本文化を破壊しているとか、治安を悪化させているといった、経済面以外の批判も出てくるだろう(それらの指摘が事実に反していたとしても、移民排斥の気運が高まっていれば、人々は無条件で信じるだろう)。
カネのことだけを考えて移民を受け入れる者は、カネの都合だけで移民を排斥するようになるはずだ。だから反対なのである。
世界には、戦争や紛争で生活の基盤を失った人達がいる。貧しい国に住んでいるため、定職に就けない人もいるし、野心はあっても、それを叶えるチャンスに恵まれない人もいる。どうせ行うのであれば、日本側の都合だけを考えるのではなく、それらの人々に機会を与える形での受け入れが望ましいだろう。
もちろん、人道的な観点だけで受け入れればいい、というわけではない。国が赤字を垂れ流してまで受け入れるべきだとまでは言えない(カネよりも人道的配慮の方が優先されるべきだから、多少アカが出るくらいは容認していいと思うけど)。上記の都合を抱えた移民を受け入れることが、日本のGDPに繋がるような、「利害の一致」による受け入れこそが、あるべき形だと思う。
さらに言えば、移民を駒と見做す受け入れ政策に潜む問題点は、これだけに留まらない。それは、日本人にも跳ね返ってくる問題をも孕んでいる。
なぜなら、「移民は経済のための駒である」という発想には、「日本人もまた、広い意味で経済のための駒である」という含意も含まれているからだ。
「移民よりは権利を保証するし、福利厚生や社会保障もできるだけ受けさせてあげるけど、駒であることは一緒」
経済維持だけを考えた移民受け入れに同意署名することは、自分達日本人もまた駒に過ぎないという認識に首肯することを意味する。
では、経済維持だけを考えた移民受け入れに反対すれば、それで万事解決かというと、そうではない。日本人を経済の駒と見做す思想は、既にして存在し、社会の至る所で猛威を振るっているのだ。長時間残業の強要、ワーキングプア、ブラック企業…全てこの思想の産物である。
だから、問題を移民受け入れだけに限定してはいけない。労働の現場を広く包括して捉える視点が必要である。その上で、人間を経済の駒と見做す思想全体に、否を突きつけねばならない。
「我々は経済の駒ではない。人間は経済に尽くすためだけに生きているわけではない」
我々が主張すべきことを要約すると、この一言につきる。
それと、もうひとつ注意しなくてはならないことがある。
この手の社会問題には、「悪辣な支配階級が、善良な市民を陥れようとしている」というフレームワークが存するが、事はそれほど単純ではないのだ。「善対悪」という、わかり易い二項対立の図式に還元できる問題ではない。
我々は、自分で気づかないうちに、自らを経済の駒と見做す思想に、同意署名してしまっているのだ。それが自身の首を絞めることになるとは思わず、むしろ良きものをもたらしてくれると信じて、その思想を受容してしまっている。
だから、社会のどこかに排撃すべき敵がいる、などと考えてはいけない。敵は、我々の内側にいる。
誰かを悪に仕立て上げて、攻撃を加えてはいけない。知らず知らずのうちに取り入れていた思考のフレームワークを、反省的に捉え直さねばならない。
話が随分拡がってしまったが、視点を広くとらねば見えてこないものもある。
移民問題は、捉え方次第で、経済と労働における我々のあり方を改める奇貨となるだろう。
オススメ関連本・阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男――伝説とその世界』ちくま文庫
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます