■『涜神』
“魔術とはまさに、幸福にあたいする者は誰もいないことを意味している。古代人たちが知っていたように、人間に釣り合う幸福はつねにヒュブリスであり、つねに傲慢と過剰であることを意味している。”——「魔術と幸福」
“すなわち、幸福は、その主体と逆説的な関係をもっているのだ。幸せな者は自分が幸せであることを知りえず、幸福の主体は主体ではなく、意識の形式をもっていない。たとえそれが最良の意識であっても。”
〈統治することは、かなえることを意味しない。それは、かなえられないものが残っているものであることを意味する。〉——「助手たち」
〈失われたものが要求するものは、記憶され、かなえられることではなく、わたしたちのなかに忘れられたものとして、失われたものとして残ることである。ただそのことによってのみ忘れえぬものになるのだから。〉
《神聖なものと神聖を汚すものを隔てる閾を、性から愛、低俗から崇高を区別する閾を混乱させ、永続的に識別できなくしているのである。》——「パロディ」
〈……個人的なものにかんしては、使用も享受もありえず、ありうるのは所有と嫉妬だけである。〉
《倫理的であるのは、単純に道徳律に従う生ではなく、その身振りにおいて取り消しがたく留保することなく自らを賭けることを受け入れる生である。たとえ、このようにして、その幸福と不幸が一度かぎり永遠に決定されてしまうという危険を冒してもである。》——「身振りとしての作者」
《ひとつの主体性が生み出されるのは、生きているものが言語活動と出会い、そのなかに留保なく自らを賭けながら、ある身振りのなかでそれへの自らの解消不可能性を提示するところにおいてである。それ以外のすべては心理学である。そして、心理学のなかでは、どこからもわたしたちは、倫理的主体のようなもの、生の形式のようなものに出会うことはないのである。》
“遊びと儀礼のこの関係を分析したエミール・バンヴェニストは、遊びが神聖なものから派生するだけでなく、なんらかの仕方で転倒を表象していることを証明した。”——「涜神礼賛」
“もはや見守られずに遊ばれるレリギオー〔配慮〕が使用の門を開くように、経済と法と政治の力は、遊びによって無力化され、新しい幸福の門となるのである。”
“遊びを純粋に涜神的なその使命に返すことは、ひとつの政治的な課題である。”
《この意味においては世俗化と涜神を区別する必要がある。世俗化はひとつの排除の形式であり、もろもろの力に手を触れることはせず、ある場所から別の場所へと移し換えるにとどまる。こうして、神学的概念(主権のパラダイムとしての神の超越)の世俗化は、天上の君主制を地上の君主制に転位することしかせず、その権力は手つかずのまま残す。
逆に、涜神は、神聖を汚すものの中和を含意している。使用できずに分離されていたものは、ひとたび神聖を汚されれば、そのアウラを失い、使用へと返還される。どちらも政治的な操作である。しかし、世俗化は、それを神聖なモデルに関係させることによって保証する権力の行使とかかわっている。涜神は、権力の諸装置を無力化し、権力が剥奪していた空間を共通の使用へと返還するのである。》
「もし神聖を汚すことが神聖なものの領域のうちに分離されていたものを共通の使用へと返還することを意味するなら、資本主義という宗教は、その究極の段階においては、絶対的に《神聖を汚すことのできないもの Improfanabile》の創造をめざすのである。」
《もし今日、大衆社会の消費者たちが不幸であるとするならば、その理由は、自らの使用不可能性を自らのうちに組み込んだ対象を彼らが消費していることだけに求められるのではない。それはまた、とりわけ、それらの対象にたいする彼らの所有権を彼らが行使していると信じているからなのである。というのも、彼らにはそれらの神聖さを汚すことができなくなってしまっているからである。》
“すなわち、新しい使用の創造は、人間にとっては、古い使用を無力化し、それを不活性化することによってのみ、可能となるのだ。”
《というのは、神聖を汚すということは、たんに分離を廃棄し、消去することではなく、それらから新しい使用を作り、それらと遊ぶすべを学ぶことを意味するからだ。階級なき社会というのは、階級的格差の記憶すべてを廃棄してそれを失った社会ではなく、階級的格差の諸装置を無力化して、新しい使用を可能にし、階級的格差を純粋な手段に変えることのできた社会である。》
「《神聖を汚すことのできないもの》の神聖を汚すことは、来たるべき世代の政治的課題である。」
□雑多なアガンベン語録
《善悪の彼岸にあるのは、生成の無垢ではない。罪をともなわないだけでなく、いわばもはや時間もともなわない恥ずかしさである》——『アウシュヴィッツの残りもの』
《生きものは、自分の内に自分固有の声を除去しつつ保存することによってロゴスをもつのであり、また同様に生きものは、自分の固有な剥き出しの生 la nuda vita をポリス内で例外化されることによってポリスに住む》——『ホモ・サケル』
《構成する権力と構成される権力との関連は、アリストテレスが潜勢力と現勢力のあいだに設けている関連と同じほど複雑である。つまるところこの関連は〔……〕潜勢力の存在と自律とがどのように思考されるかにかかっている》
《限界においては、純粋な潜勢力と純粋な現勢力は見分けられないのであり、まさにこの不分明地帯こそが主権者なのである》
《主権権力は構成する権力と構成される権力へと分裂し、その二つが不分明となる点にみずからを位置づける》
〈潜勢力と現勢力とは、存在が主権的に自己を基礎づける過程の二つの局面にほかならない〉
《新たな政治の向かう道や様態は、こうした不確かで名のない土地、この厄介な不分明地帯から出発して思考されなければならない》
「例外状態が規則となったところでは、かつて主権権力の相対物だったホモ・サケルの生が、もはや権力の据えることのできないひとつの実存へと転倒する」
〈みずからの剥き出しの実存でしかない存在〉
〈みずからの形式であり形式から分離できないままの生〉
〈人類学機械が、一種の例外状態、つまり外部が内部の排除でしかなく内部が外部の包摂でしかないような未決定な領域〉——『開かれ——人間と動物』
〈人間の倦怠も動物の放心もともに、もっとも本質的な身振りにおいては、閉ざされに開かれている〉
“ハイデガーは、人間と動物、開かれと閉ざされとのあいだのアポリアを、人類学機械によって解決できると信じた最後の哲学者であった”
〈わたしの顔はわたしの外である。わたしのあらゆる固有性が差異を失い、固有なものと共通なもの、内部と外部とが差異を失う点である〉——『目的なき手段』
《きみたちは、ただきみたちの顔であれ。境界線に向かっていけ。自分の固有性、自分の能力の主体であることにとどまってはいけない。それらの下にとどまってはいけない。それらとともに、それらのうちに、それらを越えて、行くのだ》
《法律もサケル sacer であれば、法律を侵犯するものもサケル sacer である》——『言語活動と死』
〈いずれにしても肝要なのは、祝福と呪詛とが同じ起源をもつということであり、両者が共存するかたちで誓いを構成しているということである〉
〈祝福の言葉としての誓いと、呪詛の言葉としての呪いとは、同じ言語活動の出来事のうちに、同じ起源をもつものとして内包されているのである〉
《人間はつねにすでに審判の日に立ち会っている。審判の日は人間の通常の歴史的状況であり、この状況に直面することへの恐れだけが、彼をしてその日がなおも来るべきものだという錯覚を抱かしめるのだ》——『中味のない人間』
《文化とは総じて本質的に伝播と「生き残り」のプロセスなのである》——『スタンツェ』
《真理に到達するにあたって愛がいわば存在論的に優位に立つ》——『思考の潜勢力』
〈愛はむしろ、現存在の超越を特徴づける「世界にすでに存在していること」のなかにこそ居場所を見いだし、そこにこそ愛の自体的分節化を見いだすのでなければならない〉
“魔術とはまさに、幸福にあたいする者は誰もいないことを意味している。古代人たちが知っていたように、人間に釣り合う幸福はつねにヒュブリスであり、つねに傲慢と過剰であることを意味している。”——「魔術と幸福」
“すなわち、幸福は、その主体と逆説的な関係をもっているのだ。幸せな者は自分が幸せであることを知りえず、幸福の主体は主体ではなく、意識の形式をもっていない。たとえそれが最良の意識であっても。”
〈統治することは、かなえることを意味しない。それは、かなえられないものが残っているものであることを意味する。〉——「助手たち」
〈失われたものが要求するものは、記憶され、かなえられることではなく、わたしたちのなかに忘れられたものとして、失われたものとして残ることである。ただそのことによってのみ忘れえぬものになるのだから。〉
《神聖なものと神聖を汚すものを隔てる閾を、性から愛、低俗から崇高を区別する閾を混乱させ、永続的に識別できなくしているのである。》——「パロディ」
〈……個人的なものにかんしては、使用も享受もありえず、ありうるのは所有と嫉妬だけである。〉
《倫理的であるのは、単純に道徳律に従う生ではなく、その身振りにおいて取り消しがたく留保することなく自らを賭けることを受け入れる生である。たとえ、このようにして、その幸福と不幸が一度かぎり永遠に決定されてしまうという危険を冒してもである。》——「身振りとしての作者」
《ひとつの主体性が生み出されるのは、生きているものが言語活動と出会い、そのなかに留保なく自らを賭けながら、ある身振りのなかでそれへの自らの解消不可能性を提示するところにおいてである。それ以外のすべては心理学である。そして、心理学のなかでは、どこからもわたしたちは、倫理的主体のようなもの、生の形式のようなものに出会うことはないのである。》
“遊びと儀礼のこの関係を分析したエミール・バンヴェニストは、遊びが神聖なものから派生するだけでなく、なんらかの仕方で転倒を表象していることを証明した。”——「涜神礼賛」
“もはや見守られずに遊ばれるレリギオー〔配慮〕が使用の門を開くように、経済と法と政治の力は、遊びによって無力化され、新しい幸福の門となるのである。”
“遊びを純粋に涜神的なその使命に返すことは、ひとつの政治的な課題である。”
《この意味においては世俗化と涜神を区別する必要がある。世俗化はひとつの排除の形式であり、もろもろの力に手を触れることはせず、ある場所から別の場所へと移し換えるにとどまる。こうして、神学的概念(主権のパラダイムとしての神の超越)の世俗化は、天上の君主制を地上の君主制に転位することしかせず、その権力は手つかずのまま残す。
逆に、涜神は、神聖を汚すものの中和を含意している。使用できずに分離されていたものは、ひとたび神聖を汚されれば、そのアウラを失い、使用へと返還される。どちらも政治的な操作である。しかし、世俗化は、それを神聖なモデルに関係させることによって保証する権力の行使とかかわっている。涜神は、権力の諸装置を無力化し、権力が剥奪していた空間を共通の使用へと返還するのである。》
「もし神聖を汚すことが神聖なものの領域のうちに分離されていたものを共通の使用へと返還することを意味するなら、資本主義という宗教は、その究極の段階においては、絶対的に《神聖を汚すことのできないもの Improfanabile》の創造をめざすのである。」
《もし今日、大衆社会の消費者たちが不幸であるとするならば、その理由は、自らの使用不可能性を自らのうちに組み込んだ対象を彼らが消費していることだけに求められるのではない。それはまた、とりわけ、それらの対象にたいする彼らの所有権を彼らが行使していると信じているからなのである。というのも、彼らにはそれらの神聖さを汚すことができなくなってしまっているからである。》
“すなわち、新しい使用の創造は、人間にとっては、古い使用を無力化し、それを不活性化することによってのみ、可能となるのだ。”
《というのは、神聖を汚すということは、たんに分離を廃棄し、消去することではなく、それらから新しい使用を作り、それらと遊ぶすべを学ぶことを意味するからだ。階級なき社会というのは、階級的格差の記憶すべてを廃棄してそれを失った社会ではなく、階級的格差の諸装置を無力化して、新しい使用を可能にし、階級的格差を純粋な手段に変えることのできた社会である。》
「《神聖を汚すことのできないもの》の神聖を汚すことは、来たるべき世代の政治的課題である。」
□雑多なアガンベン語録
《善悪の彼岸にあるのは、生成の無垢ではない。罪をともなわないだけでなく、いわばもはや時間もともなわない恥ずかしさである》——『アウシュヴィッツの残りもの』
《生きものは、自分の内に自分固有の声を除去しつつ保存することによってロゴスをもつのであり、また同様に生きものは、自分の固有な剥き出しの生 la nuda vita をポリス内で例外化されることによってポリスに住む》——『ホモ・サケル』
《構成する権力と構成される権力との関連は、アリストテレスが潜勢力と現勢力のあいだに設けている関連と同じほど複雑である。つまるところこの関連は〔……〕潜勢力の存在と自律とがどのように思考されるかにかかっている》
《限界においては、純粋な潜勢力と純粋な現勢力は見分けられないのであり、まさにこの不分明地帯こそが主権者なのである》
《主権権力は構成する権力と構成される権力へと分裂し、その二つが不分明となる点にみずからを位置づける》
〈潜勢力と現勢力とは、存在が主権的に自己を基礎づける過程の二つの局面にほかならない〉
《新たな政治の向かう道や様態は、こうした不確かで名のない土地、この厄介な不分明地帯から出発して思考されなければならない》
「例外状態が規則となったところでは、かつて主権権力の相対物だったホモ・サケルの生が、もはや権力の据えることのできないひとつの実存へと転倒する」
〈みずからの剥き出しの実存でしかない存在〉
〈みずからの形式であり形式から分離できないままの生〉
〈人類学機械が、一種の例外状態、つまり外部が内部の排除でしかなく内部が外部の包摂でしかないような未決定な領域〉——『開かれ——人間と動物』
〈人間の倦怠も動物の放心もともに、もっとも本質的な身振りにおいては、閉ざされに開かれている〉
“ハイデガーは、人間と動物、開かれと閉ざされとのあいだのアポリアを、人類学機械によって解決できると信じた最後の哲学者であった”
〈わたしの顔はわたしの外である。わたしのあらゆる固有性が差異を失い、固有なものと共通なもの、内部と外部とが差異を失う点である〉——『目的なき手段』
《きみたちは、ただきみたちの顔であれ。境界線に向かっていけ。自分の固有性、自分の能力の主体であることにとどまってはいけない。それらの下にとどまってはいけない。それらとともに、それらのうちに、それらを越えて、行くのだ》
《法律もサケル sacer であれば、法律を侵犯するものもサケル sacer である》——『言語活動と死』
〈いずれにしても肝要なのは、祝福と呪詛とが同じ起源をもつということであり、両者が共存するかたちで誓いを構成しているということである〉
〈祝福の言葉としての誓いと、呪詛の言葉としての呪いとは、同じ言語活動の出来事のうちに、同じ起源をもつものとして内包されているのである〉
《人間はつねにすでに審判の日に立ち会っている。審判の日は人間の通常の歴史的状況であり、この状況に直面することへの恐れだけが、彼をしてその日がなおも来るべきものだという錯覚を抱かしめるのだ》——『中味のない人間』
《文化とは総じて本質的に伝播と「生き残り」のプロセスなのである》——『スタンツェ』
《真理に到達するにあたって愛がいわば存在論的に優位に立つ》——『思考の潜勢力』
〈愛はむしろ、現存在の超越を特徴づける「世界にすでに存在していること」のなかにこそ居場所を見いだし、そこにこそ愛の自体的分節化を見いだすのでなければならない〉