★新潮文庫『ゲーテ格言集』から抜粋しました。
人間のあやまちこそ人間をほんとうに愛すべきものにする。
愛人の欠点を美徳と思わないほどの者は、愛しているとは言えない。
人間は、なんと知ることの早く、おこなうことの遅い生き物だろう!
人類ですって? そんなものは抽象名詞です。昔から存在していたのは人間だけです。将来も存在するのは人間だけでしょう。
憎しみは積極的不満で、嫉みは消極的不満である。それゆえ、嫉みがたちまち憎しみに変わっても怪しむにたりない。
君の胸から出たものでなければ、人の胸を胸にひきつけることは決してできない。
頭がすべてだと考えている人間の哀れさよ!
内面のものを熱望する者は
すでに偉大で富んでいる。
学術においても実際は人は何も知ることはできない。常に実践が必要である。
感覚は欺かない。判断が欺くのだ。
*
信仰は、見えざるものへの愛、不可能なもの、ありそうにもないものへの信仰である。
キリスト教は、政治的革命を企てたが、失敗したので、のちに道徳的なものになった。
われわれの処世術の本領は、生存するためにわれわれの存在を放棄するところにある。
人が君の議論を認めない場合も、忍耐を失うな。(コーランから)
慰めは、無意味なことばだ。
絶望しないものは生きてはならない。
すべて慰めは卑劣だ。絶望だけが義務だ。
不可能を欲する人間を私は愛する。
不可能であるがゆえにこそ、信じるに値する。
人間だけが不可能なことをなし得る。
*
古典的なものは健康であり、ロマン的なものは病的である。
フランス語は、書かれたラテン語からではなく、話されたラテン語から生じた。
われわれ自身を制御することをなさしめないで、われわれの精神を解放するものはすべて危険である。
個人は何ものかに達するためには、自己を諦めなければならないことを、だれも理解しない。
無制限な活動は、どんな種類のものであろうと、結局破産する。
自負し過ぎない者は、自分で思っている以上の人間である。
人が実際の値打以上に思い上がること、実際の値打以下に自分を評価すること、共に、大きな誤りである。
だれでも、人々が自分を救世主として待望しているなどとは思わないでくれ!
一般的な概念と大きな自負は、ともすれば恐ろしい不幸をひき起こす。
願望したものを持っていると思いこんでいる時ほど、願望から遠ざかっていることはない。
卑怯者は、安全な時だけ、威たけ高になる。
自由でないのに、自分は自由だと思っているものほど奴隷になっているものはない。
豊かさは節度の中にだけある。
有能な人は、常に学ぶ人である。
根本悪とは、めいめいができるだけ自分のなり得るものになりたがり、他の者は無であれ、否、いなければよいと思うこと。
多数というものよりしゃくにさわるものはない。なぜなら、多数を構成しているものは少数の有力な先進者のほかには、大勢順応のならず者と、同化される弱者と、自分の欲することさえ全然わからないでくっついて来る大衆とであるから。
実際の道徳の世界は大部分悪意と嫉妬から成り立っている。
不正のことが、不正な方法で除かれるよりは、不正がおこなわれている方がまだいい。
無秩序を忍ぶよりは、むしろ不正を犯したい。
われわれは平等ではないし、平等ではあり得ないことを、ぼくはよく知っている。しかしぼくは、尊敬を受けるためにいわゆる下層民から遠ざかる必要があると信じている人間は、負けることを恐れて敵に姿を隠す卑怯者と同様に非難に値すると思う。
*
真の弟子は、知られたものから知られざるもを発展させることを学び、かくして師に近づく。
わたしは人間だったのだ。
そしてそれは戦う人だということを意味している。
人は努めている間は迷うものだ。
よい人間は暗黒な衝動にかられても、
正しい道を忘れはしない。
絶えず努めて倦まざる者を
われらは、救うことができる。
種をまくことは、取り入れほど困難ではない。
一切の理論は灰いろで、
緑なのは生活の黄金の木だ。
生活はすべて次の二つから成立っている。
したいけど、できない。
できるけど、したくない。
神聖な真剣さだけが生活を永遠にする。
目標に近づくほど、困難は増大する。
欺かれるのではない、われみずからを欺くのである。
思慮を欠いた事をすると、始終、逃げ道はないかと探していなければならない。
賢い人々は常に最上の百科全書である。
どんな賢明なことでも既に考えられている。それをもう一度考えてみる必要があるだけだ。
経験したことは理解した、と思いこんでいる人がたくさんいる。
*
人は重い鎖を恐れて、
軽い“わな”の中にかけこむ。
すぐれた人々は他のものよりも損である。人々は自分を彼らと比較できないので、彼らを監視する。
灰色の馬が百頭寄っても、ただ一頭の白馬にもならぬ。
人はほんとうは、ほとんど知らない時にのみ知っている。知識と共に疑いが増す。
適切な答は愛らしいキスのようだ。
人はみな、わかることだけ聞いている。
見識の代わりに知識を持ち出す人々がある。
博学はまだ判断ではない。
忘恩は一種の弱点である。有能な人で忘恩だったというのを、私はまだ見たことがない。
私が愚かなことを言うと、彼らは私の言いぶんを認める。
私が言うことが正しいと、彼らは私を非難しようとする。
人々は人間を実際以上に危険だと思いがちである。
愚か者と賢い人は同様に害がない。半分愚かな者と半分賢い者とだけが、最も危険である。
光の多いところは、強い影がある。
すぐれたものを認めないことこそ、即ち野蛮だ。
予めおもんぱかれば、簡単であるが、後になっておもんぱかれば、複雑になる。
あせることは何の役にも立たない。
後悔はなおさら役に立たない。
前者はあやまちを増し、
後者は新しい後悔を作る。
敵の功績を認めることより
大きな利益を私は名づけ得ないだろう。
耳ある者は聞くべし。
金ある者は使うべし。
人間のあやまちこそ人間をほんとうに愛すべきものにする。
愛人の欠点を美徳と思わないほどの者は、愛しているとは言えない。
人間は、なんと知ることの早く、おこなうことの遅い生き物だろう!
人類ですって? そんなものは抽象名詞です。昔から存在していたのは人間だけです。将来も存在するのは人間だけでしょう。
憎しみは積極的不満で、嫉みは消極的不満である。それゆえ、嫉みがたちまち憎しみに変わっても怪しむにたりない。
君の胸から出たものでなければ、人の胸を胸にひきつけることは決してできない。
頭がすべてだと考えている人間の哀れさよ!
内面のものを熱望する者は
すでに偉大で富んでいる。
学術においても実際は人は何も知ることはできない。常に実践が必要である。
感覚は欺かない。判断が欺くのだ。
*
信仰は、見えざるものへの愛、不可能なもの、ありそうにもないものへの信仰である。
キリスト教は、政治的革命を企てたが、失敗したので、のちに道徳的なものになった。
われわれの処世術の本領は、生存するためにわれわれの存在を放棄するところにある。
人が君の議論を認めない場合も、忍耐を失うな。(コーランから)
慰めは、無意味なことばだ。
絶望しないものは生きてはならない。
すべて慰めは卑劣だ。絶望だけが義務だ。
不可能を欲する人間を私は愛する。
不可能であるがゆえにこそ、信じるに値する。
人間だけが不可能なことをなし得る。
*
古典的なものは健康であり、ロマン的なものは病的である。
フランス語は、書かれたラテン語からではなく、話されたラテン語から生じた。
われわれ自身を制御することをなさしめないで、われわれの精神を解放するものはすべて危険である。
個人は何ものかに達するためには、自己を諦めなければならないことを、だれも理解しない。
無制限な活動は、どんな種類のものであろうと、結局破産する。
自負し過ぎない者は、自分で思っている以上の人間である。
人が実際の値打以上に思い上がること、実際の値打以下に自分を評価すること、共に、大きな誤りである。
だれでも、人々が自分を救世主として待望しているなどとは思わないでくれ!
一般的な概念と大きな自負は、ともすれば恐ろしい不幸をひき起こす。
願望したものを持っていると思いこんでいる時ほど、願望から遠ざかっていることはない。
卑怯者は、安全な時だけ、威たけ高になる。
自由でないのに、自分は自由だと思っているものほど奴隷になっているものはない。
豊かさは節度の中にだけある。
有能な人は、常に学ぶ人である。
根本悪とは、めいめいができるだけ自分のなり得るものになりたがり、他の者は無であれ、否、いなければよいと思うこと。
多数というものよりしゃくにさわるものはない。なぜなら、多数を構成しているものは少数の有力な先進者のほかには、大勢順応のならず者と、同化される弱者と、自分の欲することさえ全然わからないでくっついて来る大衆とであるから。
実際の道徳の世界は大部分悪意と嫉妬から成り立っている。
不正のことが、不正な方法で除かれるよりは、不正がおこなわれている方がまだいい。
無秩序を忍ぶよりは、むしろ不正を犯したい。
われわれは平等ではないし、平等ではあり得ないことを、ぼくはよく知っている。しかしぼくは、尊敬を受けるためにいわゆる下層民から遠ざかる必要があると信じている人間は、負けることを恐れて敵に姿を隠す卑怯者と同様に非難に値すると思う。
*
真の弟子は、知られたものから知られざるもを発展させることを学び、かくして師に近づく。
わたしは人間だったのだ。
そしてそれは戦う人だということを意味している。
人は努めている間は迷うものだ。
よい人間は暗黒な衝動にかられても、
正しい道を忘れはしない。
絶えず努めて倦まざる者を
われらは、救うことができる。
種をまくことは、取り入れほど困難ではない。
一切の理論は灰いろで、
緑なのは生活の黄金の木だ。
生活はすべて次の二つから成立っている。
したいけど、できない。
できるけど、したくない。
神聖な真剣さだけが生活を永遠にする。
目標に近づくほど、困難は増大する。
欺かれるのではない、われみずからを欺くのである。
思慮を欠いた事をすると、始終、逃げ道はないかと探していなければならない。
賢い人々は常に最上の百科全書である。
どんな賢明なことでも既に考えられている。それをもう一度考えてみる必要があるだけだ。
経験したことは理解した、と思いこんでいる人がたくさんいる。
*
人は重い鎖を恐れて、
軽い“わな”の中にかけこむ。
すぐれた人々は他のものよりも損である。人々は自分を彼らと比較できないので、彼らを監視する。
灰色の馬が百頭寄っても、ただ一頭の白馬にもならぬ。
人はほんとうは、ほとんど知らない時にのみ知っている。知識と共に疑いが増す。
適切な答は愛らしいキスのようだ。
人はみな、わかることだけ聞いている。
見識の代わりに知識を持ち出す人々がある。
博学はまだ判断ではない。
忘恩は一種の弱点である。有能な人で忘恩だったというのを、私はまだ見たことがない。
私が愚かなことを言うと、彼らは私の言いぶんを認める。
私が言うことが正しいと、彼らは私を非難しようとする。
人々は人間を実際以上に危険だと思いがちである。
愚か者と賢い人は同様に害がない。半分愚かな者と半分賢い者とだけが、最も危険である。
光の多いところは、強い影がある。
すぐれたものを認めないことこそ、即ち野蛮だ。
予めおもんぱかれば、簡単であるが、後になっておもんぱかれば、複雑になる。
あせることは何の役にも立たない。
後悔はなおさら役に立たない。
前者はあやまちを増し、
後者は新しい後悔を作る。
敵の功績を認めることより
大きな利益を私は名づけ得ないだろう。
耳ある者は聞くべし。
金ある者は使うべし。