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per l/a psicoanalisi

ゲーテ語録

2013-04-02 00:01:00 | Note
★新潮文庫『ゲーテ格言集』から抜粋しました。


人間のあやまちこそ人間をほんとうに愛すべきものにする。

愛人の欠点を美徳と思わないほどの者は、愛しているとは言えない。

人間は、なんと知ることの早く、おこなうことの遅い生き物だろう!

人類ですって? そんなものは抽象名詞です。昔から存在していたのは人間だけです。将来も存在するのは人間だけでしょう。

憎しみは積極的不満で、嫉みは消極的不満である。それゆえ、嫉みがたちまち憎しみに変わっても怪しむにたりない。

君の胸から出たものでなければ、人の胸を胸にひきつけることは決してできない。

頭がすべてだと考えている人間の哀れさよ!

内面のものを熱望する者は
すでに偉大で富んでいる。

学術においても実際は人は何も知ることはできない。常に実践が必要である。

感覚は欺かない。判断が欺くのだ。



信仰は、見えざるものへの愛、不可能なもの、ありそうにもないものへの信仰である。

キリスト教は、政治的革命を企てたが、失敗したので、のちに道徳的なものになった。

われわれの処世術の本領は、生存するためにわれわれの存在を放棄するところにある。

人が君の議論を認めない場合も、忍耐を失うな。(コーランから)

慰めは、無意味なことばだ。
絶望しないものは生きてはならない。

すべて慰めは卑劣だ。絶望だけが義務だ。

不可能を欲する人間を私は愛する。

不可能であるがゆえにこそ、信じるに値する。

人間だけが不可能なことをなし得る。



古典的なものは健康であり、ロマン的なものは病的である。

フランス語は、書かれたラテン語からではなく、話されたラテン語から生じた。

われわれ自身を制御することをなさしめないで、われわれの精神を解放するものはすべて危険である。

個人は何ものかに達するためには、自己を諦めなければならないことを、だれも理解しない。

無制限な活動は、どんな種類のものであろうと、結局破産する。

自負し過ぎない者は、自分で思っている以上の人間である。

人が実際の値打以上に思い上がること、実際の値打以下に自分を評価すること、共に、大きな誤りである。

だれでも、人々が自分を救世主として待望しているなどとは思わないでくれ!

一般的な概念と大きな自負は、ともすれば恐ろしい不幸をひき起こす。

願望したものを持っていると思いこんでいる時ほど、願望から遠ざかっていることはない。

卑怯者は、安全な時だけ、威たけ高になる。

自由でないのに、自分は自由だと思っているものほど奴隷になっているものはない。

豊かさは節度の中にだけある。

有能な人は、常に学ぶ人である。

根本悪とは、めいめいができるだけ自分のなり得るものになりたがり、他の者は無であれ、否、いなければよいと思うこと。

多数というものよりしゃくにさわるものはない。なぜなら、多数を構成しているものは少数の有力な先進者のほかには、大勢順応のならず者と、同化される弱者と、自分の欲することさえ全然わからないでくっついて来る大衆とであるから。

実際の道徳の世界は大部分悪意と嫉妬から成り立っている。

不正のことが、不正な方法で除かれるよりは、不正がおこなわれている方がまだいい。

無秩序を忍ぶよりは、むしろ不正を犯したい。

われわれは平等ではないし、平等ではあり得ないことを、ぼくはよく知っている。しかしぼくは、尊敬を受けるためにいわゆる下層民から遠ざかる必要があると信じている人間は、負けることを恐れて敵に姿を隠す卑怯者と同様に非難に値すると思う。



真の弟子は、知られたものから知られざるもを発展させることを学び、かくして師に近づく。

わたしは人間だったのだ。
そしてそれは戦う人だということを意味している。

人は努めている間は迷うものだ。

よい人間は暗黒な衝動にかられても、
正しい道を忘れはしない。

絶えず努めて倦まざる者を
われらは、救うことができる。

種をまくことは、取り入れほど困難ではない。

一切の理論は灰いろで、
緑なのは生活の黄金の木だ。

生活はすべて次の二つから成立っている。
したいけど、できない。
できるけど、したくない。

神聖な真剣さだけが生活を永遠にする。

目標に近づくほど、困難は増大する。

欺かれるのではない、われみずからを欺くのである。

思慮を欠いた事をすると、始終、逃げ道はないかと探していなければならない。

賢い人々は常に最上の百科全書である。

どんな賢明なことでも既に考えられている。それをもう一度考えてみる必要があるだけだ。

経験したことは理解した、と思いこんでいる人がたくさんいる。



人は重い鎖を恐れて、
軽い“わな”の中にかけこむ。

すぐれた人々は他のものよりも損である。人々は自分を彼らと比較できないので、彼らを監視する。

灰色の馬が百頭寄っても、ただ一頭の白馬にもならぬ。

人はほんとうは、ほとんど知らない時にのみ知っている。知識と共に疑いが増す。

適切な答は愛らしいキスのようだ。

人はみな、わかることだけ聞いている。

見識の代わりに知識を持ち出す人々がある。

博学はまだ判断ではない。

忘恩は一種の弱点である。有能な人で忘恩だったというのを、私はまだ見たことがない。

私が愚かなことを言うと、彼らは私の言いぶんを認める。
私が言うことが正しいと、彼らは私を非難しようとする。

人々は人間を実際以上に危険だと思いがちである。

愚か者と賢い人は同様に害がない。半分愚かな者と半分賢い者とだけが、最も危険である。

光の多いところは、強い影がある。

すぐれたものを認めないことこそ、即ち野蛮だ。

予めおもんぱかれば、簡単であるが、後になっておもんぱかれば、複雑になる。

あせることは何の役にも立たない。
後悔はなおさら役に立たない。
前者はあやまちを増し、
後者は新しい後悔を作る。

敵の功績を認めることより
大きな利益を私は名づけ得ないだろう。

耳ある者は聞くべし。
金ある者は使うべし。

ジジェク語録3(未編集)

2013-04-02 00:00:51 | Note
「一言でいえば、ブルジョアジーは、宗教的および政治的な幻影で隠された搾取を、あからさまで恥知らずの、露骨であけすけな搾取と置き換えたのだ。」——『共産主義者宣言』


《いわゆる「ポストモダン」の主体性とは、こうして、本来的な象徴的禁止の欠如を原因とする、ある種の“想像的理想の直接的な「超自我化」”に関わっているのである。》35

〈すなわち政治とは“不可能なこと”についての技法なのだ。そして政治とは現存の配置図において「可能」と考えられることの要素それ自体を変更することなのだ。〉42


《それは、他者が私に成り代わる、あるいは他者が私のために何かをする、という状況を指示しているのではなく、その正反対の状況、すなわち、私は他者の受動性によって、“絶え間なく能動(行為)的であり”、そうすることで私の行動を維持するという状況を指示しているのである。》63

〈そうした強迫神経症患者は、本当に問題になっていることが問題として顕在化しないように、言い換えれば、本当の問題が起動されることなく放置されるという状況を確実に保証するために、つねに話し続けているか、さもなければ血迷ったかのように能動(行為)的になっているのだ。〉64


ジャック・ランシエール
エチエンヌ・バリバール

ジジェク語録2

2013-04-02 00:00:01 | Note
◇論文「精神分析に横断される哲学」(『批評空間』1992 No.6 所収)

“幻想とは究極的にはつねに成功した性的関係の幻想であるというラカンのテーゼ”

《幻想の空間はしたがって断固として二次的で、それはある限界に「実体を与え」、具現化する、いやもっと正確に言うなら、それは“不可能なものを禁じられたもの”に変えるのである。》

《〈主=師〉の言説の「裏」としての分析的言説は、〈主=師としてのシニフィアン〉によるばらばらな領域の「キルティング」に先立つ決定不能性の状態、つまりシニフィアンの「自由な浮遊」の状態に我々を移しいれる――そこで「反復」されるのは、究極的には、被分析者の象徴的空間を生みだした偶然性そのものである。》

“したがって「使徒」はシニフィアンの「“代表”Repraesentanz」の機能にぴったりと対応している。いっさいの〈病理学的=パトローギッシュ〉特徴(彼の心理的性癖など)を無効にすることによって彼は単なる代表に仕立てあげられる。”

《権威が直接的‐感覚的強制によって支えられている場合、我々が扱っているものは権威そのもの(すなわち、象徴的権威)ではなくたんに暴力の力である。権威そのものはそのもっとも根本的な水準ではつねに無力であり、或る「呼びかけcall」であって、それは「実際に我々を強制して何かにすることはできない」ながらも、一種の内的な強制的衝動によって無条件的にこれに従わなければならないと我々は感じるのである。》

「彼〔キルケゴール〕によれば、“権威‐ある‐言表の究極にして唯一の支えはそれを発話する行為自体である”。」

《キルケゴールは「天才」を「使徒」から隔てる深淵に関してこの「質的差異」を展開した。すなわち、「天才」は人間の内在的能力(知恵、創造性……)がもっとも強められたものを代表しているが、他方「使徒」は天才にはない超越的権威によって支えられている、というわけである。》


◆『信じるということ』
——ON BELIEF by Slavoj Žižek (2001)

「〈愛〉はつねに〈他者〉に対する愛であり、相手に欠けているところがあればこそのものである――われわれが〈他者〉を愛するのは、相手の限界、無力、さらには平凡さ“ゆえ”のことだ。」


〈ユダヤ人は、自分が信じていることを“宣言”する必要はなく、実践において直接“示す”のだ。だからキリスト教は内面の動揺の宗教であり、自己検証の宗教だが、ユダヤ教にとっての問題は、結局のところ、「外部の」法的言説の問題である――ユダヤ人は従うべき規則に注目し、「内面で信じているか」という問題は、まったく立てられない。〉


《今日の個人性の主流になっている形態では、自己中心的な心理的主体の肯定は、逆説的に、状況の犠牲者としての自分という認識と重なるのである。》


〈これこそ、「形式的」自由と「現実の」自由との区別が、最終的に帰着するところである。「形式的」自由は、既存の権力関係の座標系“内部”での選択の自由である一方で、「現実の」自由は、この座標そのものを危うくする介入の場を指している。〉

〈これが意味することは、この集合を意識して変更する行為としての「実際の自由」は、強制された選択の状況の中で、人は“あたかも選択は強制されていないかのように行為”し、「不可能なことを選ぶ」ときにしか生じない。〉


〈権威の営みを正当化する三つの方法(「権威主義的」、「全体主義的」、「自由主義的」)は、何のことはない、この空虚な呼びかけの深淵が誘惑する力を覆い隠し、見えなくする三つの方法なのだ。ある意味で、自由主義は三つの中でも最悪でさえある。何せそれは、服従の理由を、主体の内面の心理的構造の中に“自然化”するのだから。つまり逆説は、「自由主義的な」主体が、ある意味でいちばん自由ではないというところである。自由主義者は、自分の見解/認識を変え、自分に“押しつけ”られたものを、自身の「本性」に由来するものとして受け入れるのだ――彼らはもはや、自分が服従していることも“自覚”していない。〉


《「ソクラテス」は、ある発話の“立場”を指すのであり、共同体からの「プラグ抜き」の立場を指すのであって、そのために、彼は命題の集合ではなく、自分の生命を支払ったのだ。》


《人が犠牲をささげるのは、〈他者〉から何かを得るためではなく、〈他者〉を騙すため、相手に、こちらにはまだ何かが、つまり享楽が欠けていると思い込ませるためである。だから強迫観念にとりつかれると、繰り返し、犠牲の強迫的儀礼を成し遂げなければという、強迫を感じるのだ――〈他者〉の目の前では自分の享楽を否認するために。レベルを変えると、いわゆる「女の犠牲」についても、女が裏方に残る側にまわり、夫や家族のために犠牲にすることにも成り立つではないか。この犠牲は、〈他者〉を騙すために使われ、犠牲を通じて、女は実は、自分に欠けているものを必死に求めていると、〈他者〉に思い込ませるという意味で、偽物ではないのか。まさにこの意味で、犠牲と去勢は、反対のものと見るべきだ。犠牲は、去勢を自発的に受け入れるどころか、それを否認する、つまり、自分は実は、自分を愛するに値する対象にする秘宝を所有しているかのようにふるまう手の込んだ方法である……。》


“フロイトのエロス化された身体は、リビドーに維持され、不均一の諸地帯をめぐって組織された、まさに非動物的、非生物学的身体ではないか。この(そして動物的でない)身体こそ、精神分析の本来の対象ではないのか。”

“われわれは新しい状況で、どうやって〈古いもの〉に忠実でいられるかということである。そうでないと、本当に〈新しい〉ものは生成できない。同じことは精神分析にも言える。”

“時には、両者間の境がほとんど識別できないことがある。対象が症候(抑圧された欲望の)として機能し、ほとんど同時に呪物(公式には縁を切っている信条を託す)として機能することがある。”

《つまりモダンは、それが勝利したときに敗北するのだ。》



◆『「テロル」と戦争――〈現実界〉の砂漠へようこそ』
——WELCOME TO THE DESERT OF THE REAL! by Slavoj Žižek (2002)

“アメリカの多文化主義的なグローバル帝国にとってプレモダンな伝統を統合することなど容易いことだ。アメリカが事実上同化し得ない実体としての外国は、ヨーロッパ的なモダニティー〔近代〕である。”

“フロイトに事寄せてアドルノは、現代の「行政化された世界」とその「抑圧的な脱昇華」から私たちが得つつあることは、もはやイドとその欲動といった旧来の論理ではなく、自我を犠牲にした超自我(社会的権威)とイド(禁制の攻撃的欲動)との倒錯的な直接的協定であると主張している。そうしたことと構造的に似ている何かが、今日の政治レヴェルにおいても進行しているのではないだろうか――ポストモダンなグローバル資本主義[超自我]とプレモダンな諸社会[イド]とのモダニティー〔近代〕それ自体[自我]を生贄にした異様な協定が?”

〈何かをしなければ――だが何を? 抗争はそれ自身の構成要素においては解決され得ない。この悪循環を突破する唯一の途は、抗争の座標軸それ自体を変化させる行為をとおしてもたらされる。〉

《まさに全国民を〈聖なる人間〉へと還元し、彼らから共同体の構成員としての自立性を剥奪する文律・不文律のネットワークへと彼らを従属せしめるという側面こそ、問題なのだ。》

《遠く隔たって安全な場所から蔑みの普遍的判断を宣告するようなそうした一般化は、倫理的裏切りの形式、“まさに形式それ自体”である。》

《他者を〈聖なる人間〉として扱うようになるとき、それと似た無視、ある種の倫理的エポケーが動員される、と私は主張したい。またとすれば、いかにこの窮状を突破すべきなのだろうか?》


《ここでシュミットは、カント的範疇〈構想力 Einbildungskraft〉、構想することの超越論的力に言及している。敵を認知するには、既存の諸範疇の許へ[そのイメージを]概念的に包摂するだけでは不充分である。対象を憎悪と闘争の適切なターゲットへと作りあげることができる具体的な形ある形象を供給することで、〈敵〉の論理的形象が「図式化」されねばならないのだ。》


《真の問題が、排除されている人びとの脆弱な地位にではなく、むしろ私たち“すべて”が、もっとも基本的なレヴェルで、「排除されて」いるという事実、私たちの「ゼロ」ポジションが生政治の対象というポジションであり、ありうべき市民としての政治的権利が生政治的な戦略的配置にそくして与えられている二次的な素振りにすぎないという意味で「排除されて」いる事実に存在するとしたら、どうだろう? そして、これが「ポスト・ポリティクス」という考え方の究極的帰結だとしたら、どうだろう?》


「〈末人〉が選び採る「ポスト‐形而上学的」な延命策は、自分の影をだらだらと引き擦って進む生彩のない生のスペクタクルに終始することだ。」

「こうした、あらゆる超越的〈大義〉に反対し、あくまで〈生〉の肯定にしがみつくという態度における最大の敗北がアクチュアルな生それ自体の敗北に他ならないというパラドクスは、まさにニーチェ的なパラドクスである。生を「生きるに値する」ように作りあげること、それが生の過剰である。」


「大きな〈他者〉というイデオロギーの存在に疑問を呈するポストモダンな疑惑への適切な応答は、存在していないのは主体それ自体なのだ……と。」


「民主主義は現代政治の主要なフェティッシュであり、社会的敵対の基本的な否認である。選挙制度によって社会的位階は一時的に宙吊りにされ、社会体は頭数を数えることができる純粋な意味でのマルチチュードへ切り縮められ、またその結果、敵対もまた宙吊りにされたのだ。」

“「正直な民主主義」という理念は、こうして、一つの幻想である”

“民主的政治秩序は、腐敗し易いというまさにそうした性質によってこそ成り立っている”。


“私たちは、自分の象徴的任務を引き受けることなく、また「マジに考える」こともなく、演じている。この父は、父であるなどといった愚かしさについてアイロニック/反省的なコメントを垂れ流しながら、父として機能しているのだ。”


“マルチチュード、全体化し得ない差異の脱中心化された叢生という現代における生のあり方についてのドゥルーズ的な詩的感興ほど、単調なものはないではないか?”

“ドゥルーズについての明敏なブックレットでバディウは、哲学から文学そして映画に到るいかなる論題に関わってであろうと、同一な概念的基盤を繰り返し反復し再発見した哲学者がいたとすれば、それはドゥルーズに他ならないことに注意を喚起している。”


“現実の普遍性とは、ある固有の文化から他の文化への翻訳といった、獲得されたことなど決してなかった中間的空間ではなく、むしろ、いかに私たちが文化的な乖離を貫いて同一の敵対を共有するのかといった、暴力的な経験なのである。”


“欲望は人びとをもっと先まで進ませる力だった――結局それは、大方を占める多数派が明らかに“より”幸せでは“ない”システムを導きだすことになる。”

“幸福の代償は主体がその欲望の一貫性のなさにしがみついたままでいることなのだ。”

“こうして幸福は、本質的には、欺瞞である。それは私たちが本当は望んでいないものに憧れるという幸福である。”


「だが彼らが分かっていないこと、それはこのどん底世界と自分自身のイカサマの純粋性との間にはヘーゲルの思弁が見抜いた同一性が存在するということである」

“〈悪〉は〈悪〉をそこいらじゅうに感じ取る無辜の眼差しそれ自体に(もまた)棲まっているという、ヘーゲルのよく知られた格言”


“選択の表見上の明瞭さを梯子として、蒙昧化が全面化する”


“ムスリム原理主義に対立するグローバルな資本主義的リベラリズムはそれ自体として原理主義の一様式であり、したがって現在進行中の「テロリズムとの戦争」で私たちは、事実上、原理主義の衝突という問題に直面している。”

《グローバルな資本主義が一つの総体性であるという事実は、それがそれ自身と、その他者すなわち「原理主義的」なイデオロギー的基盤にもとづいてそうした資本主義に対抗する諸力との、弁証法的統一態であることを意味している。》


“その安定的な存在が社会的媒介関係を神秘化する堅固な対象としてのフェティッシュという考え方に依拠したマルクス[の時代]とは対照的に、現代ではフェティッシュそれ自体が「脱物質化」され、流動的で「非物質的」な仮想的実体へ転じることで、フェティシズムがその絶頂に到達していることが強調されなければならない。”


“過去において私が行わなかったこと、それは現在に存在しなくても、その亡霊としてみずからを主張し続けるのである。”

“後期資本主義的な消費社会では「リアルな社会生活」それ自体が設けられたイカサマといった特徴を獲得している。”

「というのも、すでにジェレミー・ベンタムが分かっていたように、現実とは現実それ自体の最高の仮象だからである。」

ジジェク語録1

2013-04-02 00:00:00 | Note
◆『ポストモダンの共産主義――はじめは悲劇として、二度目は笑劇として』
——FIRST AS TRAGEDY, THEN AS FARCE by Slavoj Žižek (2009)

《シニカルな人はラカンのいうところの〈さまよえる騙されない者〉なのだ。彼らは幻想の象徴的効用を、幻想が社会の現実を生みだす活動を左右することを、理解していない。…》

《したがって、現代の支配的イデオロギーの世界は、これらふたつのフェティシズム様式、シニカルと原理主義に分けられるが、両者とも「合理的」批判を受けつけない。原理主義者は議論を無視して(または信用せず)ひたすらフェティッシュに執着するが、シニックは議論を受け入れるふりをしながら、議論が表象する効力を無視する。言い換えれば、原理主義者は自らのフェティッシュが体現する真実を(信じるというより)直覚している一方で、シニックは否認の論法を用いる(「とてもよくわかる、しかし……」)。》



◇『ジジェク自身によるジジェク』
——CONVESATION WITH ŽIŽEK by Slavoj Žižek and Glyn Daly (2004)

“今日、私たちにはもはや中心的な闘争はなく、多数の闘争があるという考えは偽りだと思っています。というのも、私たちはこの数多くの闘争の土台が現代のグローバル資本主義によって生み出されたのだということを忘れるべきではないからです。”

《遡及的にそれ自身の前提を引き起こし、措定する原因について話すとき、私たちは遠回しにある特定の楕円的な自己囲い込みについて語っているのです。そしてこれこそまさにフロイト的欲動の基本的構造なのです。》

《…この問題に関してはバディウですら、単に使える状態にある存在の秩序と、真理という出来事の魔術的契機との間にある、ある種のカント的対立から逃れられずにいるのではないでしょうか。》

《倫理的行為は世界の構造のなかに有機的に組み込まれているわけではありません。むしろそれは因果的ネットワークや世界の構造における亀裂、断絶を示唆しているのです。自由とはこの断絶であり、それ自体から始まる何かなのです。》

“つまり、私たちの知覚は現実を歪めます。なぜなら観察者が観察されるものの一部であるからです。これこそがラディカルな唯物論者の立場を包含する普遍化された視角主義〔パースペクティヴィズム〕であると思います。”

“つまり、偶発的な人間性は同時に絶対的なものそれ自体が露呈する唯一の場なのです。”

“重要なのは、〈現実界〉は不可能であるということではなく、むしろ不可能なものが〈現実〉として存在するということなのです。”

「つまり、死の欲動というフロイトの概念を、ドイツ観念論において自己関係的な否定性として主題化されているものと一緒に読んでいくことです。」

“真の交わりは孤独を共有できるときだけだ”


◇『イラク』
——IRAQ: The Borrowed Kettle by Slavoj Žižek (2004)

《薔薇の崇高さを日常生活の低俗さという試練のなかで認識する……すなわち、崇高な(ユートピア的)ヴィジョンを日常の実践へと――ひと言で言えば、“実践的”ユートピアへと――翻訳する力を奮い起こすことである。》

《真に禁じられた知とは、したがって愛おしい現実についての十全な知ではなく、欲望の対象のリアリティについては知るべきことが“何もない”というまさしくそのことを知ることでなのであり、対象を私の欲望の原因にしているものは、それが占めている禁じられた場所であるということなのだ。》

「だからヘーゲルは、S1とS2のあいだのギャップの維持の必要性に気づいていた。もしこのギャップが消されたなら、その結果はS2としての「全体主義的」官僚主義である。」

《…分析家は脱主体化した主体のパラドックスを表している。分析家という主体は、ラカンが「主体の欠乏」と呼んだところのものを引き受けており、欲望の間主観的弁証法の悪循環を打ち破り、純粋欲動という無頭 (acephale) の存在になるのである。》

〈多様なものの「超越論的」生成は、二項的シニフィアンの欠如のなかに棲みついている。すなわち多様なものは、二項的シニフィアンの欠けた部分のギャップをなんとか埋めようとする一連の試みとして生じるのである。〉

〈「ユートピアの終わり」が、どのようにして自己反省的な身振りで自己自身を反復したのかを認識するのは決定的に重要なことだ。究極のユートピアとは、ユートピアの終わりの後、われわれは「歴史の終わり」にいるのだ、という観念そのものだったのである。〉

〈すなわち、「原理主義者」の享楽への固着は、“民主主義それ自体の、裏側の幻想的な付属物なのだ”、ということである。〉

〈この大胆な行為において日和見主義的動機がはたらいていたことは十分明白である。だがそれでも、たんなる計算以上のものが、すなわち戦術的な合理化によっては説明されえない向こう見ずな過剰さが、ここには明らかにあったのだ。〉

〈「信による跳躍」を成し遂げ、この場所で作動しているグローバルな回路の“外側へ踏み出そう”とする意志というものがある。〉

「行為は現存の秩序“内部”での戦術的介入ではないし、現存秩序に対する「狂った」破壊的“否定”でもない。行為とは一種の「過剰」であり、現存の秩序の規則と外形とを新たに定めなおす、超戦術的な介入なのだ。これがキーポイントである。」

《このような純粋な犠牲という「不可能な」身振りだけが、歴史の状況布置 (constellation) の内部において戦術的に何が可能であるのかということの座標それ自体を変化させることができる》

〈すなわち、「民主主義」とは「全体主義的」な極端さの回避を意味するのだ。ギャップを縮め、〈物自体〉のために行為する(ふりをする)という「全体主義的」誘惑に対する絶えざる闘争として、それは定義される。〉


◇『快楽の転移』
——The Metastases of Enjoyment: Six Essays on Woman and Causality by Slavoj Žižek (1994)

〈例えば、無意識の経済において、「不合理な」アクティング・アウトは、象徴的負債を返済する行為として機能することができます〉

「または、公的な象徴的〈法〉と、その下に潜む暗闇の猥褻な超自我との区別について言えばこうなります。超自我は、常に公的な〈法〉につきまとう、不快な「幽霊」、影のような行き霊なのです。」

〈ソクラテスは、対話の相手――自分は知っている、もしくはそう信じていると言い張る者――に、真の知識を授けたりはせず、その者に自身の筋の通らない立場を直視させて、知識があるという装いはただの仮像にすぎないと思い知らせます。より正確に言えば、相手に、(真実への)欲望の保証は真実そのものの中にはないと悟らせ、自分の発言の責任はすべて自分にあることを認めさせるのです。〉

「〈主人〉は明らかに、実際には象徴的機械の自動操作の結果でしかないものを、自分の決断の成果だと勘違いしている、愚かなペテン師なのです。」

《ファルスの享楽を通して充足感を得たいならば、そのことは明らかな目的ではないのだと拒否しなければならない。》

〈女は、男の「公的な」行為という魅力に弱い。つまり、男は実は女のためにそれをしていると感じられることに弱いのだ。〉

「何層もの仮面から作られる筋の通らない表面が、〈なぞ〉たる〈女〉という幽霊を作り上げる。他ならぬ〈秘密〉の秘密とは、この筋の通らない表面なのだ。」

「こうした舞台に放りこまれた主体(男)はパニックに陥り、数知れぬ仮面が玉ねぎの層のように一枚一枚とはがれていっても、その奥には何もない、つまりは女性の究極の〈秘密〉なるものはない、という恐怖に対面する。」

〈ただ単に他者の中のアガルマに魅了されているだけでは、真に愛してるとは言えない。愛の対象である他者が、実はもろくて失われたものであること、つまり「それ」をもっていない者であること体験しても、愛がその喪失を乗り越えた時にこそ、真に愛していると言える。〉

“対象に至る道を妨げるような外的な障害物は、まさに、それさえなければまっすぐにたどりつけるという幻想を生み出すためにそこにある。”

「伝統的な権力では、超自我かひそかに作用しているのに対し、「全体主義的」秩序では、それが公の空間を引き継ぎ、いわゆる「暖かな人間味」というのは、歴史の必然性が猥褻な恐怖をなさなければならない人々の私的な姿として表れる……。」

「…われわれは、猥褻な裏面をもつ公の法秩序の顔ではなく、やさしい、正直な「人間的な」裏面を封じ込めている恐ろしい顔をもっているのだ。」

「aが現実にあまりに近づきすぎて、象徴による虚構の活動を窒息させることの必然の帰結は、したがって、現実そのものの「脱‐現実化」である。現実はもは、象徴による空虚によっては構造化しない。想像の過度成長を調整する幻想が、現実を直接掌握する。…」

「共同体の享楽は、この異常に集合的な否認によってもたらされる――たとえば、ヒッチコックの「進歩的な」性格を唱えることによって。それはこの枠組みに明らかに入らないものの象徴的な実効性を中断する。」

「この、卑猥な法は、共同体を立てる原初の嘘〔プロトン・プセウドス〕、からなるとも言えるだろう。つまり、共同体との一体化は、結局は常にある共有される罪、あるいはもっと正確に言うと、“この罪のフェティシズム的な否認”の上に成り立っているということだ。」

「ヘーゲル語を使って言えば、歪曲の必要性は、コミュニケーションの概念そのものに書き込まれているのではなく、労働のそのときの現実の事情や、理想的なものの実現を妨げる支配のせいなのである。権力と暴力の関係は、言語にもともと備わっているのではない。」

〈この修正主義の理論的「後退」は、理論と治療の間に立てられる関係を通じてはっきり現れる。理論を治療に役立てることで、修正主義はその弁証法的緊張を消し去る。……だから、理論が治療に従属することは、精神分析の批判的次元の喪失を必要とするのだ。〉