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per l/a psicoanalisi

アーレント試訳3

2022-04-07 21:50:00 | 試訳
«Between Past and Future»所収、“WHAT IS FREEDOM?”の最後の節から。


全ての行為 act は、行為者 agent の観点からではなく、それが生じるフレームワークと中断するオートマティズムの過程の観点から見れば、何らかの予期されえない“奇跡”である。もし、行為 action と始まり beginning が本質的に同じであることが真実なら、奇跡を為すことの能力は、同様に人間能力の一つに加わるべきだろう。そのことは実際上よりも奇妙に聞こえる。“無限に〔おおよそ〕起こりそうにないこと infinite improbability”として世界へ割って入ることは、あらゆる新しい始まりの本性であり、しかも、私たちが現実と呼ぶあらゆることの真のテクスチャーを実際に構成しているのは、まさにこの無限に起こりえないことなのである。つまり、私たちの全存在は一連の奇跡に基づいてあり、それらは、地球の存在者への生誕、そこでの有機的生命の発達、動物種からの人類の進化である。宇宙と自然における過程の観点、そしてそれらの圧倒的な蓋然性の観点から、宇宙的過程からの地球の生起、非有機的過程からの有機的生命の形成、最終的には、有機的生命からの人間の進化は“無限の起こりそうにないこと”であり、それらは日常語における“奇跡”である。どんなに恐怖あるいは希望の中で予期されていたとしても、ひとたび出来事が起きるなら、私たちに驚異の衝撃が走るのは、全てのリアリティーにおいて現前する“奇跡的なもの”のこの要素のためである。ある出来事の衝撃は決して完全に説明できない。その事実性は原理的に全ての予期を超えている。出来事が奇跡であることを私たちに告げる経験は恣意的なものでもなければ、殊更に複雑なことでもない。それは、反対に、最も自然的であり、実に、殆どありふれた日常の生活の中にある。このありふれた経験がなければ、宗教がこの超自然的な奇跡に割り当てた部分は、殆ど理解不能であっただろう。

私が何らかの“無限に起こりそうもないこと”の到来によって妨げられる自然的過程の実例を選んだのは、私たちが日常的な経験の中で現実と呼ぶことの殆どが、フィクションよりも奇なる(偶然の)一致を通じて存在するに至ったことを例示するためである。もちろんこの例には限界があり、単純に人間事象の領域に適応されえない。歴史的または政治的過程が自動的となっているコンテクストで、奇跡、つまり“無限に起こりそうもない”ことを望むのは、完全には排斥されえないにせよ、まったくの迷信であるだろう。自然と対をなすように、歴史は出来事に満ちている。この領域では偶然の出来事と無限の起こりそうにないことの奇跡は頻繁に起きるため、奇跡を口にすることがそもそも奇妙なことに思える。しかし、このような奇跡が頻繁に起きる理由はただ、歴史の過程が人間のイニシアティヴ——彼が行為する存在者である限り、人間が持つ始まり initium——によって創造され、絶えず中断されるからである。したがって、政治的な領域において、予見不可能で予言不可能なものを考慮し、“奇跡”に備え、そしてそれを見込むことは、迷信であるどころか、リアリズムの勧告でさえある。そして天秤が凶事の方に重く傾けば傾くほど、自由に為された行いはそれだけ奇跡的なものとして現れる。なぜなら常に自動的に生じ、それゆえに常に抵抗しがたいものとして必ず現れるのは、救済ではなく、凶事だからである。

客観的に、すなわち外側から、そして人間は始まりであり始める者であることを度外視して眺めるなら、明日が昨日と同じだろう〔偶然の〕確率は圧倒的である。確かに、地球が宇宙的発生から決して出現し“なかった”確率、非有機的過程から生命が発展し“なかった”確率、動物的生命の進化から人間が現れ“なかった”確率としては、それほど圧倒的ではないが、殆ど圧倒的に等しい。私たちの地球上の生命のリアリティーが基づく“無限に起こりそうにないこと”と、歴史的リアリティーを樹立するそれら出来事に固有の奇跡的な特徴のあいだにある決定的な相違は、人間事象の領域において、私たちが“奇跡”の作者を知っているということである。それは、奇跡を実演する人々 men——自由 freedom と行為 action の二重の天分を受け取っているが故に、彼らに固有なリアリティーを樹立することのできる人々——である。


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