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per l/a psicoanalisi

ラカンの理論における分析家のポジションと介入

2016-08-22 19:20:41 | 試訳
--LA POSIZIONE E L'INTERVENTO DELL'ANALISTA NELLA TEORIA DI LACAN


■解釈
INTERPRETAZIONE

解釈の再認 il riconoscere nell'interpretazione が精神分析家の仕事というのは、広く流布した一つの意見であり、この着想は分析家を、言い間違い、症状、つまり無意識の表出の解読〔判読〕者のポジションと機能の中に据える。

ラカンの教えにおいて、解釈の概念は決して精神分析の基本的諸概念の一つを構成しなかった。
ラカンは分析家の仕事の上に中心化された分析的解釈の理論を批判し、彼によれば解釈するのは無意識である。
もし、解釈する者が無意識なら、沈黙において聴取しながら、言葉を自由にさせる必要がそれにはある。この理由でラカン派分析家は、沈黙の聴取のポジションにある。
ラカン的解釈は従って、ポストフロイディアンのそれとは異なり、シニフィエには向かわず、シニフィアンに向かう。

■ラカンにおける解釈についての前提
PREMESSE SULL'INTERPRETAZIONE IN LACAN

- 単一の理論は存在しないが、一連の進展があり、エクリとセミネールに由来する知識を再調整する。
- 中心点は常に、シニフィアンの構造の象徴的登記への解釈の係留 l'ancoramento にある。想像的なものの象徴化の効果から、享楽の効果へ向かうことにより、彼の方向を変える係留。
- ラカン的解釈の一つのスタンダードは存在しないが、ラカニアンたちが避ける解釈の二つの形態がある。転移の解釈 l'interpretazione di transfert と意味論的解釈 l'interpretazione semantica である。転移の解釈は、ディスクールの意味が分析家との転移的関係へ引き戻されるための解釈である。意味論的解釈は、分析家が患者の言表の無意識的意味〔シニフィエ〕il significato inconscio degli enunciati del pz をさらすことを介するある様式である。
この解釈の二つの形態は、禁忌される。何故なら、1) 解釈するべきは分析主体に関する原則に違反する。2) 意味論的解釈の効果は、分析家の権威によって支えられているため、ある間違った主体性の点の上で、分析主体の練り上げ〔推敲〕のプロセス il processo di elaborazione dell'analizzante を妨害する。

■他者と享楽のあいだの精神分析的意味論
LA SEMANTICA PSICOANALITICA TRA L'ALTRO E IL GODIMENTO

精神分析的意味論は、分析主体により産出された一つの意味論であり、分析家の任務は彼の仕事の中で、それを支え、従ってそのディスクールに何も付け加えないことである。

■再認と句読法のあいだの解釈
INTERPRETAZIONE TRA RICONOSCIMENTO E INTERPUNZIONE

実際、この意味論の中心に存在するのは、欲望 desiderio と欲望の欠如 mancanza di desiderio の概念である。論文「機能と領野」における精神分析的意味論は、再認の欲望 desiderio di riconoscimento と欲望の再認 riconoscimento di desiderio の二重の公式における、再認のヘーゲル的概念の周りを回る。
再認の欲望の概念により、ラカンは真理から離れた神経症的主体(その分割された自己意識 il suo sentirsi diviso)のポジションを示そうとする。彼は何を望むか知らないで、自身の外で、他者との関係において、自分の欠如への返答を探す。主体は従って、彼の真理は何に由来するかを彼に告げるのは、他者 l'altro であることを期待するポジションにある。しかしながら、彼の真理を再認させることのできる他者は存在しないので、このポジションは主体に絶え間ないフラストレーションの刑を告げる。主体が他者において彼の真理を見出すことのできるという要求を放棄する時のみ、彼は主体化の行程(=精神分析)を始動させること、つまり由来する歴史と和解することができるだろう。
欲望の再認はまさに、その中で主体が彼の真理を見つける和解のこのプロセスに存する!!!

この再認が心に留めることを通過する方法は、句読法として解釈により与えられる。分析家は、主体を彼自身のパロールに含まれた真理を承認するように導きながら、無意識の解釈を浮彫りにする第二の契機に介入する。分析家は、ディスクールのどのような部分がより重要かを、どんな他者よりもよく知っている。

■換喩的-喚起的解釈
INTERPRETAZIONE METONIMICO-ALLUSIVA

ラカンはフロイトの圧縮と遷移〔移動〕の基礎知識を、隠喩と換喩の概念に翻訳し、これら諸概念を、あるランガージュとして構造化された無意識の機能の基本的諸法則にまで高める。症状は隠喩として特徴づけられ、一方、欲望は換喩としてである。
圧縮→隠喩、ある唯一のパロールにおける圧縮
遷移→換喩、他の諸連想によるある観念 un'idea の置換〔代入、代理〕

欲望はもはや主体の真理についての無意識の意味ではなく、存在欠如 la mancanza a essere の換喩である。もし欲望は換喩であり、欲望は解釈であるならその時、分析的解釈の構造自体は換喩的である!! ???

■幻想の意味論から寄せ集め〔混合〕の意味論へ
DALLA SEMANTICA DEL FANTASMA ALLA SEMANTICA MISTA

60年代の講義の中で、ラカン的教義における、ある混合物の意味論 una semantica mista が発展する。
一方で、幻想とリビードの意味論が、他者 l'altro から(特に、欲望の他者 l'altro del desiderio から)構造化し、そして無意識の意味作用 la significazione inconscia の中心としての幻想の概念の周りを回る意味論として、検討される。
他方、幻想とリビードの意味論は、そのことをある曲がり角に導くだろういくつかの理論的矛盾を開く。現実界の登記のその練り上げの中心の置き直しと、ラカンがその中で享楽の現実界を組み込む寄せ集めの諸公式 le formule miste と、主体がその中で構成されるシニフィアンの構造における対象の始動である。??

〔訳注:?? が末尾に記されている一文は、文章の構造上、次のようにも解釈はできる。筆者自身、判断し兼ねているようにも思えるが、以下にもう一つの訳文を掲載しておく。

→現実界の登記のその練り上げの中心の置き直しと、ラカンがその中で享楽の現実界と、そして主体がその中で構成されるシニフィアンの構造における対象の現実界を組み込む寄せ集めの諸公式 le formule miste の始動である。〕

■解釈 VS 行為
INTERPRETAZIONE VS ATTO

70年代から晩年まで、享楽から一つの意味論は構築するだろう。この骨子においては分析における主体のパロールは、大他者 l'Altro に向けられず、享楽の支え supporto do godimento である ??

■分析的行為
L'ATTO ANALITICO

ラカンは分析家の存在の問題に、その欲望の側面からのみならず、その行為の側面から取り組む。
最初はラカンは、(後にするように)行為 atto と活動 azione のあいだを区別しない。続いて、それらを区別し、事実、行為だけではなく、また活動だけではないのも同じく、しかし、行為が活動の芯 il cuore を設立し、行為なくしてある初まり un inizio は存在しないだろうと主張する。ラカンはルビコン河を渡るシーザーの決心により、行為の一つの例を引く。
行為の諸次元:
1) それを成し遂げる主体についての行為の変化的-変形的次元:行為が不可逆的な変化を導き入れたために、主体はもはや以前のそれではない、一度完結した行為。象徴的な限界を越えて行くこと。
2) 行為の瞬間的-断続的次元:それは、最初と後のあいだにある切れ目を導入する。
3) 違反〔侵犯〕的次元:それぞれの真の行為は、コード、法を越えることをもたらす一つの行為である。
4) 行為の保証のない次元:それは他者 l'altro により権限を与えられてはいないが、選択、そして外部のどんな保証もない一つの行為は、決断することを求められた主体に代わりうる。

分析的行為はそれぞれの分析の開始に介入し、そして行為は言うことによって生じ、しかしとりわけ、行為は享楽の水準に現れる。

精神分析的臨床は転移の下での一つの臨床なので、行為は転移的な座標の外では見つけえなく、転移の一つの支えである。

分析的行為を介して、どのようなことが分析の終わりに分析家に帰せられるだろうか知らないふりをしながら、分析家は分析の開始と知の想定された主体の創設を認可する。最初の分析的行為は、歪曲された知の想定された主体でもって機能する。

分析家と彼の行為の運命は、廃棄された-対象 oggetto-rifiuto の純粋な機能へと凋落するそれである。この意味で、その結末にある分析的行為は悲劇的行為に例えられる。運命は捨てられた存在のそれである。

■分析家の欲望
IL DESIDERIO DELL'ANALISTA

分析家の人格の主体性、つまり分析家の諸感情とは関係はないが、分析的関係の内部の彼の象徴的ポジションにおける分析家の存在に収まる一つの機能である。
分析家の欲望は、分析主体をその内容物で満たすように仕向ける彼の内容物を欠いたある操作的機能として形成される限りにおいて、分析的治療のボルト〔支え〕である。

■フロイトの欲望
IL DESIDERIO DI FREUD

何年かのあいだ、ラカンは分析家の欲望とフロイトの欲望のあいだのある等価を支持した。フロイトの欲望については、表現の客観的意味を含意し、つまり、フロイトにより着想された概念に注目する。

■分析家の欲望
IL DESIDERIO DELL'ANALISTA

治療において作用することであるに加えて、分析家の養成において決定的なファクターでもある。自然な欲望ではなく、それに従い、分析主体のポジションから分析家のそれへの移行を成し遂げるに至るそれらの主体において、分析が産出する未だ知られていない欲望である。


DOMENICO COSENZA

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