ACEPHALE archive 3.X

per l/a psicoanalisi

精神分析家の行為とそれに住まう欲望

2016-08-26 22:30:46 | 試訳
--L'atto dello psicoanalista e il desiderio che lo abita, Rosa Elena Manzetti


精神分析は、(他の全ての人間的な諸生産としての)一つの症状であるが、その対象は各々の話す存在 parlessere が組み立てることに固有で、そのことのために更に知らずに、快楽 il piacere と死の欲動 la pulsione di morte を満足させるための機会の最も大きなものを得ようとしながら存在において立脚するため、同時にまた他の全ての人間的な諸生産とは違う。そのように話す諸存在に、それらの取り違え〔勘違い〕同様に対象さえも忘れることを強いるある占有のことである。それらの直接の要求の彼岸で、何が話す諸存在を動かすのか?

精神分析家はひょっとして、この要求への返答を持つだろう人だろうか? 彼は症状の原因であるシニフィアンを知り、去勢が実行にある時、ファリックな意味作用 la significazione fallica と人がしがみつく〔かじりつく〕ところの剰余享楽 il più-godere が同一であることについて知ると、私たちは言いましょう。

分析家の知は、不能の知 il sapere dell'impotenza(すなわち、分析的治療の行程が照準を合わせる SsS =知の想定された主体の盲目な路地)と不可能の知 il sapere dell'impossibile(パスの装置において目的とされる分析的行為についてのある知)のあいだで揺れ動く、ある逆説的な知である。

実際、分析的知 il sapere analitico を無意識的な知 il sapere inconscio から区別することが必要である。無意識の知は、解読可能である主体なきある知であり、ところが一方、分析的知は行為についてのある知、シニフィアンを通して接近できないある知、知のゼロ地点である。

分析におけるある主体を、他の分析家たちを生み出すための場が占めるべき対象a のこの見せかけ sembiante の場についての知であるところの、知の恐怖の方へ導く、行為の恐怖に直面することが問題である。

しかしながら、ラカンは精神分析家に行為のポジションに留まらないように促す。彼は、無意識との関係を更新し、分析家の欲望を再生するために、精神分析家に分析主体に再びなること、分析主体の道と分析的行為を交互にさせることを促す。分析家の欲望はしたがって、分析的知に与えるべきある貢献を内包する。

分析家の側の解釈の水準で想定されるのは、分析的行為(ほとんど議論されない概念)である。

まず最初に、分析家のポジションはその非-行動 non-agire から特徴づけられているので、精神分析における行為について語ることは一見矛盾しているように思えるであろうことに、私たちは気づく。制度〔施設〕における臨床についてのセミネールの一つのために仕事をした人たちが私たちに解説するように、事実は、行為 l'atto は行動 l'agire ではない。行為は常に、ある言うこと un dire に根拠がある。

ラカンは、彼のセミネール『精神分析的行為』、そして 『他のエクリ』で公表された「パリ・フロイト学派での講演」の彼の発言の中で、パスは、分析主体から分析家への推移はまさに分析的行為の問題であるので、その中で現れる瞬間において確証されうる行為による契機であることを、浮彫りにする。

ラカンは、彼の教えの全編成に沿って分析的行為について従事するが、特に1967年以降、分析的行為についてのセミネールの中で、『他のエクリ』で公表されたこのセミネールの報告で、セミネール『一つの大文字の他者から小文字の他者へ D'un Autre à l'autre』の1969年6月4日の講義において、専念する。

分析家が、分析家に関する彼の規定をそこから引き出す分析的行為はどのように特徴づけられるのか? セミネール『精神分析的行為』の中で、ラカンは私たちに、その行為における精神分析家は、(欲望の原因の対象の役割の)知のあるプロセスの中で、支えとして提供されると述べる。このことは、幻想によるある種の親密さを持つ、したがって幻想の基本的諸要素を明らかにする、シニフィアン的現実化以外は問題でない知の原因となる。私たちは70年代の終わりにあり、そしてラカンは分析の終わりは幻想の横断 l'attraversamento del fantasma により構成されることを考察する。

分析的行為が存在するように、分析家がその主体のための欲望の原因対象の見せかけの場を引き受けるだけでよいのではないことに私たちは気づき、欲望の原因対象の支えのそのポジションにおいて身をささげることが、続いて分析において獲得された知に結び付いた知のある種のプロセスの中で為される必要がある。

この知はラカンによって、治療から導かれる分析家の利益として使われていない。彼の位置は、知の受益者であることには属さず、啓示の手段である。このことは、分析家のポジションを特徴づけ、そして分析家の資格を制定する知ではないことも意味する。このことは、それどころか確かに、精神療法家が諸症状とそれらの治癒に関する決定された諸問題の上のある知の保有者と見なされる、精神療法の領域の共同体より、留意がいる。

もし、欲望の原因対象は行為のボルト〔支え〕であるなら、これは主体のため以外に、分析家が仕事をするためにあることを意味する。このため、ラカンは分析的行為にある精神分析家は考えないと述べる。対象の見せかけとして、そして知の主体としてではなく機能する限り、分析主体は、最終的に彼を支えていた知の分析家を主体的に解任するに至るために、(転移の源泉である)知の想定された主体における信でもって始められた全行程をなすべきだった。ここに、分析的行為の一つの特殊性がある。

精神分析家は、行為が主体を変える一つの言葉 un dire において到来するので、SsS のこの機能を原因におくことのできる唯一の者である。

ラカンは、(行為の観点から)本質的なことは、分析の終わりにおいて分析家が分析主体にとって、欲望の原因対象になることではなく、分析家は最初の頃から全過程に沿って、欲望の原因対象の見せかけとして巻き込まれいているということであるという事実について、とても強く主張する。

もし、対象が突然に現前していて、それについての分析家がその支えなら、やはり彼は対象であるのみならず、それを扱う変化は治療の経過の中である種の攻撃性を持っている。そのため、たとえ欲望の原因対象が治療の始まりから現前しているとしても、作業の終わりで対象は現実的なもの、言い換えれば分析主体により棄却されたものにおいて再び現れるので、分析主体の当然の仕事は全て必要である。そして、分析家はこの排斥された対象を代理するのみである。

最新の画像もっと見る