気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

ゆるキャンから始めたNゲージ その14  きかんしゃトーマス列車を作る 下

2023年08月31日 | ゆるキャン△

 客車4輌のキットを完成させたので、上図のきかんしゃトーマスのキットの製作に進んだ。大井川鐡道ではC11形がトーマスに扮して列車を牽引しているが、それに合わせてキットのほうもC11形を原型としている。カトーの2002番つまりは旧版のC11形と同じ状態に仕上げる事が出来るため、ネット上で見られる先行作例にも実在のC11形として作っているケースが少なくないという。

 実態としてはC11形蒸気機関車のプラモデルであるから、高価なカトーの2002番の品を買う代わりにこのキットでC11形を再現して楽しむ、という利用法がかなり多かったらしい、と聞く。

 

 中身はこんな感じである。組み立てるだけでトーマスの姿に仕上げられるように、大部分のパーツはあらかじめ色が指定されて成形されている。

 

 組み立てガイドは、図の各所に省いたような痕跡の余白がみられ、元キット製品の存在を伺わせる。先に作った客車4輌のキットがグリーンマックス製品からのOEMであったから、こちらのC11形のキットも同様かもしれないと思ったのだが、元キット製品があるかどうかは未確認である。

 

 今回のキットには、トーマスの仲間のラスティーの機関車のパーツも含まれている。トーマスフェアなどで井川線の両国車両区にあるDB1形ディーゼル機関車を使ってラスティーに扮させていたが、このキットでもそれを再現しているようで、機関車そのものはDB1形ディーゼル機関車である。

 

 パーツは6個しかなく、今回は不要としたラスティーの顔面パーツを除けば、5個となる。1分で上図のように組み上がった。おそらくは、日本に存在する機関車のプラモデルとしては最も簡単に素早く組み立てられる品ではないだろうか。

 

 このキットが含まれていた事は、私にとっては非常に意味が大きかった。なぜならば、大井川鐡道をNゲージで再現して楽しむとなれば、大井川本線だけでなく井川線の車輌も対象となるからである。

 その井川線の車輌のNゲージサイズの製品は、現時点では入手可能な品が少なく、通販でもアルナインとワールド工芸の品しか見当たらない。その意味で、今回のきかんしゃトーマスのキットに含まれているこのDB1形ディーゼル機関車は、貴重な存在と言える。

 

 ただ、実際に両国車両区で本物のDB1形ディーゼル機関車を見ている眼には、このキットはスケールサイズ的にみてやや華奢になっているのではないか、という気がする。実物はもう少し横幅があって、1エンド部分ももっと大きかったように思うのだが、どうであろうか。

 

 さて、トーマスの組み立てにとりかかった。ステップ1はメインフレームの組み立てであった。上図の4個のパーツを組み合わせて形成される部分で、これに車輪や連結棒などが付く。

 

 ステップ2で車輪や連結棒を組み付けた。連結棒は、有り難いことにクロスヘッドから主連棒、連結棒に至るまでの複雑な駆動機構が一体成型でワンパーツとなっており、動輪のダボ穴にもカチッと綺麗にはまるのであった。

 

 かくして足回り部分が10分程度で出来上がった。もともと子供向けのプラモデルなので、大変に作りやすくて、これは良いなあ、と感じた。

 川本氏によれば、この部分がカトーのNゲージ製品2002番のC11形の動力ユニット部分と同じ形状になっているため、カトーのC11形の動力ユニット部分と交換すれば、そのままNゲージ化出来てレールの上を走らせる事が出来るという。トミックスの5万円の特別限定セットを買わなくても、プラモデルで安く作ってNゲージで走らせて楽しめる、というのがこのキットの一番のポイントであるだろう。

 

 ステップ3では、キャブおよびコールバンカー部の組み立てを進めた。キャブは運転室、コルバンカーは蒸気機関車の車体に設けられている石炭貯蔵場所のことである。これらのパーツのうち、屋根は黒く塗る必要があったので、組み立てる前にポスカの黒で塗っておいた。

 

 組み上がった状態である。きかんしゃトーマス、といっても実態はC11形蒸気機関車であるから、次第に出来上がってくる車体の輪郭も、やっぱりC11形蒸気機関車のそれであった。

 

 ステップ4ではボイラー部分を組み立てた。

 

 続いてステップ5で煙室、フロントデッキを組み付け、ステップ6でディテールパーツを取り付けた。

 

 ラストのステップ7で、前面のトーマスの顔を取り付けた。組み立ては以上であった。ここまでで30分もかかっていなかった。楽なキットだな、というのが正直な感想であった。

 

 ただ、各種のマーキング類は、ステッカー方式なのでステッカーシートより一枚一枚カットして貼る必要があった。ミリ単位の細いラインもあるため、なかなかに大変だった。なぜデカールにしなかったのだろう、と思ったが、表面に細かいモールドが多いので、デカールは子供には難しいと判断されたのかもしれない。

 

 かくして、一応は仕上がったが、各所のラインがステッカーなので、貼った所がやたらに目立つのであった。赤ラインなどは、塗料かマーカーペンで塗ったほうが良かったかもしれない。
 それで、細部のいくつかは、いずれ機会をみて、ステッカーを剥がしてマスキングして塗り直す方向で予定することにして、ここでは仮完成としておいた。

 

 客車4輌と繋いでみた。思ったよりもいい感じであった。

 

 客車4輌、というのは上図のように相当の長さがある。私のNゲージレイアウトは最長でも4輌ぐらいがギリギリに入る程度の規模で計画しており、走らせる車輌も近鉄16000系や南海21000系のような2輌編成が主になるので、トーマス列車のようなSL列車の7輌から10輌ぐらいまでの編成というのは、ちょっとやりにくい。今回のキットの客車4輌で精一杯である。

 今後購入する予定の、カトーの「かわね路号」セットはC11形蒸気機関車と客車3輌の4輌セットであり、私のレイアウト規模の最大値はそれをベースにして設定しているため、多くのNゲージファンが一般的に楽しんでおられる8輌から12輌ぐらいの列車編成というのは想定外である。

 

 なので、今後はこのトーマス列車をレイアウトの中でどのように置くかが、ひとつの課題となる。本来は動力ユニットが無いので走る事は出来ず、停止状態が基本となる。トーマスは機関車庫に収容し、客車4輌は、実際の新金谷駅での駐機のように、側線に置いて駐機状態にするかな、と思案している。

 ともあれ、大井川鐡道のマスコット的存在で人気も一番の「きかんしゃトーマス列車」がプラモデルにて再現出来た。カトーやマイクロエースのNゲージの蒸気機関車のほうも、大井川鐡道の保有車に合わせて少しずつ揃えているので、いずれは全ての蒸気機関車を一堂に並べて眺められる日がやってくる。その時が楽しみである。  (了)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く32 その24  大室山へ

2023年08月30日 | ゆるキャン△

 次に乗る、大室山方面行きのバスの時間が近づいてきたので、小室山公園からバス停に戻りました。既に十数人が並んで待機していたので、小室山から大室山へ行くバスは、よく利用されていることが伺えました。

 

 11時29分に発車したバスの車内は、ほぼ満席でした。その後も途中のバス停で乗ってくる人が居て、最終的には満員になりました。小室山と大室山とを回るコースが伊東観光の人気コースだと聞きましたが、その通りでした。

 

 バスは途中で一碧湖(いっぺきこ)と呼ばれる綺麗な湖の横を通りました。一碧湖も伊豆半島のジオスポットの一つで、伊東エリアでは人気の観光地の一つです。それで、一碧湖のバス停でも大勢が乗り降りしていました。

 

 一碧湖は、火山の火口に水が溜まった、いわゆる火口湖の一種とされています。伊豆東部火山群の一つで、その噴火活動期は約10万年前とされています。湖面には周辺の山や緑の木々、空に浮かぶ白い雲などが映しだされて訪れる人々を魅了します。
 現在は四季の花を楽しめる自然公園となっており、特に紅葉のシーズンは真っ赤に染まった樹木が美しい湖を彩ります。

 

 11時54分、終点のシャボテン公園前バス停で降りました。小室山からの移動時間は25分でした。

 

 バス停から大室山を見上げました。今回の聖地巡礼のラストとしたのは、前回に登った時に劇中と同じように富士山を見ることが出来なくて心残りであったからです。ゆるキャンの劇中シーンと同じように、大室山から富士山を眺めたい、ただその思いだけで、再びここにやってきたのでした。

 

 よし、リフトに行くぞ、とその方向へ向かいました。

 

 しかし、この日の大室山リフトは大勢の観光客でごった返しており、リフトの待ち行列は御覧のように約1時間と見込まれていました。

 

 混んでますねえ・・・。前回も混んでいたけれど、今回はもっと人が多い・・・。3倍ぐらいは居ました・・・。

 

 リフトの運賃表を確認しました。往復券のみ、とありますが、大室山は登山道が全く無くてリフトでしか出入り出来ないからです。

 

 おお、ゆるキャンのイラストがありますね。ちゃんと伊豆キャンのメンバーが揃っています。このイラストを掲示された方、大変によく分かっていらっしゃいますね・・・。

 

 行列にて待つこと50分、ようやくリフト乗り場にたどりつきました。やっぱり小室山のリフトより長くて高くて、下から見上げていると迫力が全然違いますね・・・。  (続く)

 

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妙心寺伽藍より玉鳳院へ

2023年08月29日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 妙心寺境内にて明智風呂の建物をしばらく見た後、再び西側の中心伽藍の建築群を見ました。上図は仏殿で、江戸期の文政十年(1827年)に再建されたものです。入母屋造、一重裳階付きの姿は、創建時の仏殿のそれを踏襲しているといいます。国の重要文化財に指定されています。

 内陣に安置される本尊の釈迦如来像は天正年間(1573~1593)の作とされ、その左右に摩訶迦葉像と阿難尊者像が脇侍として安置されています。本尊の後方には達磨大師、百丈禅師や臨済禅師を祀る祖師堂、道教の神を祀る土師堂、明智光秀などの功労者の位牌を祀る祠堂があります。

 

 仏殿の東側にある上図のお堂は、江戸期の延宝二年(1674)に再建された経蔵です。正面の扉口の上に懸けられる「毘盧蔵」の扁額は伏見天皇の宸筆であるそうです。内陣には輪蔵と呼ばれる円筒型の回転式の書架があり、その下部には四天王と梵天、帝釈天、金剛力士、傅大士像が祀られています。国の重要文化財に指定されています。

 

 仏殿の後方に続く法堂です。 江戸期の明暦三年(1657)の再建で、入母屋造、一重裳階付きの建物です。内陣の天井には狩野探幽筆の雲龍図が描かれ、内陣の列柱は富士山麓より運ばれてきたケヤキを用いています。国の重要文化財に指定されています。

 なお、堂内には白鳳時代の銘文をもつ梵鐘「黄鐘調の鐘」があります。銘文には「戊戌(つちのえいぬ)」の年紀があり、文武天皇二年(698)にあたるとされます。九州筑紫で制作されたものであり、大宰府の観世音寺の鐘と兄弟鐘であることが知られています。日本最古の銘文をもつ梵鐘として、国宝に指定されています。

 

 法堂の東側に上図の特別公開寺院の案内図がありました。右へ行くと玉鳳院、北西へ行くと寿聖院ですが、距離のうえでは玉鳳院が近いので、U氏が「近いほうから先に行こう」と言い、そのまま右に折れました。

 

 中心伽藍から東への道を進みました。両側の土塀は塔頭寺院のそれです。

 

 まもなく左側に塔頭のひとつ東海庵の表門が見えました。妙心寺四派のうちの東海派の本庵で、室町期の文明十六年(1484)の創建になりますが、現在の建物は慶長四年(1599)の再建です。庭園が国の史跡・名勝に指定されているほか、国の重要文化財に指定される「瀟湘八景図」や「孝明天皇宸翰徽号勅書」などを伝えています。また本堂、庫裏、鐘楼、書院及び表門が京都府の有形文化財に指定されています。

 案内板とガイドブックを読んでいたU氏が「ここ文化財が多いんだねえ、特別公開はやってくれんのかな」と残念そうに言いました。東海庵の特別公開は稀にしか行われないそうで、前回は2018年、前々回は2013年だったそうです。

「5年おきに公開するんやったら、次は今年2023年になるのかね?」
「分からんね。情報も無いし・・・。来年かもしれん・・・」
「もし来年に公開となったら、絶対行こうぜ」
「ああ」

 

 東海庵の東側を北へと続く寺内道です。このような道が妙心寺境内の塔頭寺院群の中を迷路のように回っていますが、江戸期の景観をそのまま伝えているため、よく時代劇のロケなどに使用されているそうです。
 U氏が「初めて来たのに、見たことあるような景色だな」と何度も言っていたのは、彼が時代劇ドラマのファンだからでしょう。
 この道の右側の土塀が、今回の目的地のひとつ玉鳳院のそれでした。

 

 玉鳳院の門前に着きました。特別公開の案内板もありました。

 

 拝観受付は上図の通用口の奥にある庫裏でしたが、その隣の方丈は大きな覆屋におおわれていました。

「おい、修理中みたいだな、修理中の建物の中を特別公開するんかねえ」
「らしいね。特別公開の対象の襖絵とかは、あの本堂の方丈にあるわけやからな」 

 

 それで通用口をくぐろうとしたら、U氏が「待ってくれ、先にこっちの唐門を見たい」と上図の門を指しながらそちらへ近づいていきました。つられて後に続きました。

「おお、なかなか立派な唐門だな、本堂方丈の正門にあたるみたいだな・・・、古いものなのかな?」
「古い建物じゃないな・・・、江戸期やろうな・・・」
「ふーん、なんで分かるんだ」
「木鼻の切り込みとか、柱の根元の金具とか、な」

 

 唐門の土塀続きにもう1棟の平唐門が見えたのでそちらへも近づきました。U氏は「いい門だな」と感心して見上げていましたが、私は建物の細部にまず目が行って、南北朝から室町期にかけての様相であるのに驚きました。

「これは古い建物やな・・・」
「右京大夫殿は一瞥だけで分かるのか・・・凄いな」
「凄いのはこの平唐門のほうやで、破風板とか懸魚とかに宮廷建築の要素があるんで、御所とかの建物を移築してる可能性があるで・・・」
「ほう、建築年代も分かるのかね?」
「おそらく、室町前期・・・いや、南北朝期にいくかもしれん・・・」
「唐門ってさ、そんな古いの現存してたっけか・・・?」
「確か、日本最古級の唐門建築が妙心寺にあるって聞いたことあるんよ・・・。これのことかもしれん・・・」

 

 ずっと昔、日本最古級の唐門建築が妙心寺にある、と聞いたことがありましたが、後日資料をひも解いて調べてみたところ、正解でした。応永十六年(1409)に御小松天皇より御所の南門を拝領したものと伝え、かつては勅使門とされていましたが、江戸期に現在地に移されたそうです。

 したがって、建てられたのは応永十六年(1409)より前ということになります。南北朝期まで遡り得るのであれば、現存する平唐門としては最古級の遺構であることになります。京都の内外を焼き尽くしたとされる応仁の乱にも焼けなかったのですから、大変に貴重な建物です。国の重要文化財に指定されているのも当然でしょう。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く32 その23  小室山公園

2023年08月28日 | ゆるキャン△

 伊東市のジオスポットのひとつ小室山に登りました。これで今回の伊豆半島ゆるキャン聖地巡礼5ヶ所の全部を回った事になりますが、そのあともう1ヶ所、大室山にも再度行く予定でした。

 

 ですが、時間的には少し余裕があったため、小室山山頂では景色を眺めつつゆっくりと歩き回りながら過ごしました。

 

 観光リフトで登ってくる人の数が次第に増えてきましたが、降りる人は少なかったので、山頂にいる人数が増えてくるのかなと思いましたが、しばらく見ていても増えているように見えませんでした。リフトとは別の方向へ散策路を下って山を下りて行く人がかなり居ました。

 小室山は、大室山のように登山道が無くてリフトでしか行き来出来ないということはなく、麓の小室山公園からの登山路もあって歩いて上り下りすることが可能です。低い山ですから、軽く山歩きを楽しむ人も少なくないようで、リフトで登って歩いて降りる方を何人も見かけました。私もそうしようかと思いましたが、リフトの往復券を買っていましたので、帰りもリフトで降りることにしました。

 

 山頂の火口跡の窪地に鎮座する小室神社を見下ろし・・・。

 

 遠くの富士山をもう一度見て・・・。

 

 その白い頂きを望遠モードで撮りつつ、次はまた富士山の近くに行くのだな、と思いました。今回は伊豆半島にやってきましたが、次回の聖地巡礼コースは山梨県エリアで計画していたからです。

 

 山頂には約1時間ほど居て、11時5分にリフトで降りました。

 

 再び、約5分ほどユラユラと揺られて・・・。

 

 こういうリフトは登る時は山肌しか見えませんが、降りる時は下界が見渡せますから、降りる時のほうが景色が楽しめます。

 

 麓の小室山公園の範囲も見渡せました。地図では小室山の北西麓一帯が公園となっていますが、大半は自然のままの雑木林であるようで、観光駐車場の周囲にのみ、整備された園地が点在しているという感じでした。

 

 リフトを降りて近くの観光案内板で小室山公園のマップを見ました。現在地はバス停の横、観光駐車場の南側です。

 

 観光駐車場の北にある小室山公園の多目的ゾーンに行ってみました。

 

 御覧のように、桜が満開で見応えがあったからです。

 

 そして小室山の全容も初めて見渡せました。麓の観光施設は工事中で、リフトだけが稼働している状態でしたが、そのために観光客が割合に少なかったのかもしれません。

 

 公園の東側には、なんと飛行機のプロペラがありました。本物であるようにはみえなかったので、レプリカかな、と思いました。

 

 その近くには船の錨も岩座に据えられてありました。本物の錨のようですが、どういう船の錨かは説明板が見当たらなくて分かりませんでした。

 

 そして奥の小高い場所には上図の塔の形の建物がありました。近寄ってみたら慰霊塔でした。第二次大戦中の戦没者などをお祀りしています。この区画は護国公園の性格も兼ねているようでした。

 私も、祖父や大伯父ら身内に海軍関係者が多く、20代から30代にかけての時期には戦跡巡拝および遺骨収集事業に7回参加して、パラオ、サイパン、レイテ、ラバウル、ソロモンなどに行きましたので、こうした施設や慰霊塔にはきちんと一礼し、合掌して、さきの大戦で亡くなった大勢の方々に敬意を表してお祈りします。御苦労様でした、と。  (続く) 

 

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黒森峰女学園 ティーガーⅡ(ポルシェ砲塔)(フェイズエリカ仕様) 作ります!! その3

2023年08月27日 | ガルパン模型制作記

 ステップ6では排気管を組み立てて車体背面に取り付けます。装備品のジャッキ台やC型シャクルも取り付けますが、これらは塗装後に取り付けます。

 

 排気管を組み立てて車体背面に取り付けました。装備品のジャッキ台やC型シャクルは塗装するまで別に保管しておきました。

 

 このうちのジャッキ台C28は、ガルパン仕様に改造します。

 

 御覧のように、作中車のジャッキ台はアニメ版のティーガーⅡのそれと同じ形状になっています。今回の製作におけるガルパン仕様への改造は二ヶ所にありますが、その一つです。

 

 元の留め帯のモールドを削り、プラペーパーで上図のように付け直しました。この状態で塗装まで保管しました。

 

 ステップ7ではジャッキや車体背面部の各部品を組み付けます。ジャッキは組み立てておいて、塗装した後に組み付ける予定です。
 ステップ8では車体上部裏面での組み立てと穴あけを行ないます。

 

 ステップ7で組み付けるパーツ類です。

 

 このうち、上図の排気管カバーのパーツC29においてガルパン仕様への改造を行ないます。外側に二つの突起がありますが、これはアニメ版にも今回の作中車にもありませんので、削り取ります。

 

 二つの突起を削り取りました。

 

 ジャッキ以外のパーツを全て組み付けました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く32 その22  小室山山頂にて

2023年08月26日 | ゆるキャン△

 伊豆半島ゆるキャン聖地巡礼の5ヶ所目、小室山山頂に登りました。伊東市においては大室山と並ぶジオパーク観光スポットの一つとして知られ、標高321メートルの小山ながら海岸線に面しているために眺望が優れています。

 

 北には伊東市川奈地区の地形、そして奥に富士山が望まれます。

 

 南側には、半地下式の展望所およびカフェスペースが設けられています。その上部が山頂の最高所にあたりますが、三角点などの設置が見られなかったので、従来の山頂とは異なっているのかもしれません。

 

 山頂は、かつての火口が埋まってすり鉢状にくぼんでいて、その窪地の西寄りに神社がありました。

 

 神社の名前は小室神社、小室山の山頂にあるためか、山の名前をそのまま冠しています。

 

 小室神社の案内板です。要約すれば、1703年の元禄地震で壊滅的な被害を受けた小田原藩の藩主であった大久保忠増が1705年に創祀したのが、この神社の始まりであるそうです。祭神は、愛宕大権現、金刀比羅大神、火産霊大神の三つであるそうです。

 

 小室神社の本殿は、小さな祠でした。江戸期に小田原藩が創建して以来の規模を維持しているようです。

 

 南東方向を見ました。中央に大室山が見えました。

 

 やっぱり、目立っていますね・・・。ゆるキャンの聖地になったことによってさらに有名になったと聞きます。

 

 デジカメの望遠モードで撮影しました。

 

 デジカメの望遠モードの最大限のズームで撮影しました。小室山と同じく火山のスコリア丘ですが、あちらのほうが規模が大きいです。今回も次にあの大室山へ向かう予定です。

 

 付近の案内板を見て、小室山や大室山だけでなく、周囲の高い山の全てがかつて火山であったことを知りました。およそ1万6000年前から4000年前までの時期においてこれらの火山群が次々に噴火して大量の溶岩を流し、いまの伊東市エリアの地形を形成したそうです。

 

 でも、富士山の噴火による地形形成の規模のほうがはるかに大きかった、と聞きます。

 

 いつか再び噴火するかもしれない、といわれている富士山ですが、噴火したら上図の美しい山容も変わってしまうのでしょうか・・・。

 

 眺めが良いので、しばらく眺めていました。

 

 個人的には海のみえる範囲の景色が好きですね。  (続く)

 

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妙心寺へ

2023年08月25日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 大徳寺の塔頭2ヶ所を回った後は、U氏の予定表に従って妙心寺へ向かいました。妙心寺でも同時期に塔頭2ヶ所の特別公開が実施されており、U氏も私も未訪の場所でしたから、興味津々でした。

 バス停「大徳寺前」から市バス205系統に乗り、バス停「西ノ京円町」にて市バス91系統に乗り換えて、4つ目のバス停「妙心寺前」にて下車、そこから北へと登ると上図の妙心寺表参道に入りました。参道の突き当りに門が見えました。

 

 その門が、妙心寺の南の入口にあたる南総門でした。大寺院の総門に相応しい切妻造、本瓦葺きの薬医門で、江戸期の慶長十五年(1610)に建立されたものです。国の重要文化財に指定されています。

 

 南総門の脇にあった、今回の特別公開の案内です。U氏が「これだよこれ。ついにやって来たのだよ」と嬉しそうに指差しては何度も頷き、写真も撮っていました。私も妙心寺の塔頭はあまり行ったことが無いので、上図の二ヶ所の塔頭寺院の名前も「聞いたような名前やな」と返すにとどまりました。

 

 とりあえず、妙心寺の伽藍域に入ります、ということで二人で並んで上図の立派な白墨描の寺号板に一礼しました。

 大本山、とは臨済宗妙心寺派の大本山であることを意味します。日本に存在する臨済宗の寺院は約5650を数えますが、そのうちの約3350が妙心寺派に属します。日本禅宗のナンバーワンの流派であり、その総本山でありますから、他の寺の「大本山」よりも重みが感じられます。

 

 U氏が「あの門は格式高そうな構えだなあ」と上図の門を指差しました。南総門の西側に並んで建っていますが、扉は閉ざされていました。

 たぶん勅使門じゃないかねえ、と言いましたが、後で案内板を見たら正しく勅使門でした。伽藍の正面に位置しており、勅使や住持が普山する際にのみ開かれます。南総門と同じく江戸期の慶長十五年(1610)に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。

 

 伽藍域に入ると放生池があり、その中央の伽藍中軸線に沿って石橋をともなう参道が築かれています。その奥の木立の向こうに大きな赤い二重門が見えました。

 

 その赤い二重門に近づいてみました。妙心寺の中心伽藍の正門にあたる三門です。大徳寺の三門「金毛閣」とよく似た朱塗りの型式で、雰囲気もよく似ています。上層は円通大士(観音)と十六羅漢像を安置する仏堂空間になっています。
 江戸期の慶長四年(1599)の再建ですが、妙心寺の門としては最古の建物になります。国の重要文化財に指定されています。

 

 妙心寺中心伽藍のエリアの参拝路は東側に寄っているため、左に勅使門、放生池、三門、と見てゆきながら、右側の上図の建物も見ました。切妻造の建物に唐破風が付いていますが、その唐破風の下にある門口は不釣り合いなほどに小さく、左右の花頭窓が目立ちます。

 変わった造りの建物だなあ、何か曰くがありそうだな、と思っていると、U氏が「おい、明智風呂だってよ」と言いました。あ、妙心寺にあるという明智風呂はこれか、と感動しました。その建物の内部を何度かテレビで視たことがありますが、実物を見るのは初めてだったからです。

 

 つられて脇の案内説明板を見ました。U氏はいつものように二度読んで、「あ、再建なのか、明暦二年の・・・」とややガッカリした様子を垣間見せました。

 元々は天正十五年(1587)に明智光秀の母方の叔父にあたる塔頭大嶺院の密宗(みっそう)和尚が、光秀の菩提を弔うために建立したものですが、その規模はそのままに踏襲されているそうです。

 

 明智風呂、という名前なので実際に明智光秀が入浴したのかと思われそうですが、建物自体は光秀の没後に建てられていますから直接の関係はありません。

 ですが、明智光秀は妙心寺には時々参詣していたようです。妙心寺の基本的な歴史書とされる「増補妙心寺史」によれば、本能寺の変で織田信長を討った後、明智光秀軍は妙心寺に引き上げてきています。作戦全般における陣所が妙心寺であったようですが、とにかく長年の宿怨を晴らした光秀は心置くこともないので自害しようと仏殿に礼拝し、辞世をしたためたそうです。
 このとき、塔頭太嶺院の慈澤(じたく)上人が光秀の気持ちを悟り、自刃を戒めたといいます。さらに妙心寺の使僧が内裏に参じて光秀のために諸国討伐の勅許を要請したそうです。当時の妙心寺は明智光秀の側に立っていたもののようです。
 さらに、塔頭瑞松院の玄琳こと南国梵桂(なんごくぼんけい)は、光秀の子といわれる人物です。塔頭瑞松院そのものも、中興の開基は光秀の妻の実家である妻木氏であり、もともと妙心寺は明智家とは縁が深かったようです。

 なので、明智風呂と呼ばれる浴室が現存しているのも、そうした歴史的背景によるものだと分かります。妙心寺は、京都における明智光秀のバックボーンでもあったのでしょう。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く32 その21  小室山へ

2023年08月24日 | ゆるキャン△

 伊豆急行で下田駅より伊東駅に移動し、東海バスに乗り換えて小室山を目指しました。伊東駅を9時35分に出て、海岸線に沿って市街地を川奈方面へ向かい、国道135号線で山を越えて伊豆急行川奈駅の西側を通って小室山へ北西麓から登ってゆくルートでした。

 

 伊東市街のバス路線は今回が初めてでしたので、約20分の移動中は窓の景色を眺めて楽しみました。思ったよりも起伏の多い地形なのにまず驚き、それが大室山や小室山をはじめとする火山群の噴火時の溶岩流と地形変動によって形成されたものであると知って、さらに感動しました。伊東市街全体が火山帯の溶岩流の地形の上に広がっているわけです。

 

 9時58分、終点であり目的地の「小室山リフト」バス停に着きました。降りてからバスを撮ったら、その行先表示は伊東駅に変わっていました。伊東駅と小室山を結ぶ路線であるわけですが、今回はここからもうひとつの路線を利用する予定でした。

 

 バス停「小室山リフト」です。右奥に見える道が小室山リフトへの園路です。

 

 時刻表を確認しました。時計はちょうど10時ジャスト、これからリフトに乗って小室山へ登って山頂を見物して、またリフトで戻るまで、一時間ぐらいは必要かな、と考えました。
 その後、上図右端の「一碧湖・シャボテン公園」行きに乗るのですが、次便の10時29分発に乗るのは無理なので、その次の11時29分発に乗ろう、と決めました。

 

 そうなると、ここ小室山エリアには約1時間半ほど滞在出来るわけで、上図のバス停横の小室山公園も余裕で回れるな、と思いました。

 

 とりあえず、小室山へ登るべくリフト乗り場へ向かいました。バス停からも、上図のようにリフトが見えていて、大室山のように山腹を一直線に通っていますが、小室山のほうは低い小さな山なので、リフトも短くて所要時間も5分ぐらいだということでした。

 

 リフト乗り場でチケットを買い、待機行列も無かったので係員に案内されてリフトにすぐに乗りました。

 

 そして、ユラユラと小室山の山腹を見ながら山頂へ。

 

 山頂まで約5分、というけれど体感的には3分ぐらいだったような・・・。

 

 あっという間に、山頂のリフト乗降場に着きました。

 

 かくして10時5分、小室山の山頂に到着しました。今回の伊豆半島ゆるキャン聖地巡礼の五ヶ所目でした。ひととおり見回し始めて、すぐにあの山が見えるのに気付きました。

 

 富士山だ、富士山が見える・・・。よし望遠モードで・・・。

 

 小室山山頂は、大室山の雄大な火口縁の景色に比べると小ぢんまりしたミニチュアのような雰囲気でした。上図の、半地下式の施設は今年にオープンしたばかりの新しい展望所であるそうです。

 

 ここで、大事なことに気付きました。あfろ氏の描き下ろしイラストにも描かれている、リフト乗降所の円形展望所が見当たらないのでした。一瞬、場所を間違えたのかと思いましたが、地図を見なおしても小室山山頂であることには間違いがありませんでした。

 降りる際に係員に聞いたところ、山頂の再整備事業のため、去年に撤去されたということでした。その代わりに反対側に半地下式の施設が設けられた、という流れでした。
 つまり、ゆるキャン聖地の景色の変貌が、ここでも有ったということになります。

 

 しかし、周囲の広大な山と海とがつながる大自然の景色は、大垣千明と犬山あおいが駈け抜けながら眺めたそれと変わらないのでした。  (続く)

 

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ゆるキャンから始めたNゲージ その13  きかんしゃトーマス列車を作る 上

2023年08月23日 | ゆるキャン△

 Nゲージで大井川鐡道を再現して楽しもうとする場合、大井川鐡道のマスコット的存在である「きかんしゃトーマス列車」を避けて通るわけにはいかない。大井川鐡道の黒字にも大いに貢献しているであろう、この「きかんしゃトーマス列車」は、Nゲージでもトミックスから特別企画品として「大井川鐵道きかんしゃトーマス号セット」として販売されている。しかし、価格が5万円もするらしいのでなかなか手が出ない。

 その事を電話で川本氏に話すと、向こうは笑いながらこう返してきた。
「トーマスの列車なら、プラモでも出てた筈や。ホッさんはプラモやっとるから、トーマスと客車のセットのプラモを作りゃええやん」
「プラモが出てるのか。それって、Nゲージのサイズかね?」
「そうや。2015年やったかな、その頃に鉄道ホビダスの特別企画で出したんや。トーマスと客車4輌の2つのプラモデルをね。トーマスのほうはカトーの旧版のC11と同型なんで、その動力ユニットを組み付ければ、Nゲージで走れるの」
「ふーん、そりゃええなあ、C11はこないだ中古ショップで買ってきたカトーのがあるから・・・」
「待て、待て待て、ホッさん」
「何?」
「そのカトーのC11やけどな、品番は?」
「品番?何やそれ・・・」
「品番と言うたら品番やろうが。ケースの横とかに書いてあるやろ」
「ちょっと見るわ・・・、あ、これか、2002ってのか」
「なら旧版やな。それでええんや・・・。現行の新版は2021番なんやけどな、これは忠実に寸法を再現したリニューアル品で、旧版の2002より小さいのよ。プラモのトーマスは旧版の2002のサイズになってるんで、組み付ける動力ユニットは2002のほうでないと合わないのよ」
「なるほど、現行版の2021番のC11を買ったら合わないわけか・・・」
「そういうこと。それでプラモもNゲージ化出来るんやから、トミックスの5万円のセットを買うよりは安上がりやな」
「プラモのほうは、幾らぐらいなん?」
「確か2015年ぐらいの発売やが、4000円ぐらいやった筈。今は中古品しかないやろうから、プレミアになってるか、それとも安くなってるかやな・・・」

 

 それでまずネットで駿河屋やヤフオクなどを検索したところ、見つからなかった。翌日の退勤後にブックオフ等の中古ショップへ行って探したところ、運よく2種類とも見つかり、いずれも2000円で買うことが出来た。上図の品である。

 鉄道のプラモデルはガルパンの戦車工場関連で1/35スケールのドイツの機関車と貨車を作って以来であり、Nゲージの1/150スケールは初めてであった。かなり小さいので、パーツも細かいのがあって、組み立て作業も慣れないと難しいかな、と思った。

 

 そこで、組み立てが楽そうな、上図の客車のキットから始めてみることにした。4輌のセットで、スハ43形が2輌、スハフ42形が2輌入っている。

 このキットは、職場へ持って行って昼の休憩時間に少しずつ作った。夏になると学生は試験と休暇に入ってゆくので、担当教務も割合に暇になって、待ち時間も増えるので、その時間も有効に使って制作を進めた。だから、同室の先生方は全員がこのプラモデルの存在を見て知っていた筈である。
 流石に見れば分かるのか、「何のプラモデルですか」というような愚問を投げかける方はいなかった。それどころか「大井川鐡道ですな、昔に乗りましたよ」という方が三人ほど居られた。やっぱり大井川鐡道は旅行先としても人気があるらしい。

 

 中身はこんな感じである。車輌の四方壁面パーツ、車輌の車台と屋根のパーツ、床下機器のパーツ、台車、ウェイトおよび透明プラ板とくもりガラス板、の5つのパックが入っている。

 

 塗装、マーキングの説明書である。マーキングはシールを使うのであるが、そのシールはきかんしゃトーマスのキットのほうに入っている。

 

 こちらは組み立てガイドである。このガイド図は、このキットがグリーンマックスの組み立てキットをそのまま利用していることを示しており、ガイド図自体もグリーンマックスのそれをそのまま入れているようである。つまりはグリーンマックスからのOEM品であり、それを鉄道ホビダスのネコ・パブリッシングが販売しているわけである。

 

 組み立ては、車台の床下機器から始めた。2種類4輌とも同じパーツ、同じ配置であるので、この作業を4回繰り返すことになる。

 

 屋根のベンチレーターは、位置がモールドされていないので、ガイド図に従って位置を測っておく必要があった。鉛筆で薄く位置をマーキングするか、取り付け位置の目安として穴をあけるか、どちらにするか迷ったが、上図のように裏から穴をあける方法を選んだ。

 

 そして表面には両サイドにマスキングテープを貼って、ベンチレーターの並びが一直線になるようにした。

 

 そしてベンチレーターのパーツを穴とマスキングテープに沿って所定の位置に貼り付けた。

 

 作っていて、あんまり難しくはないな、と感じた。少なくとも1/700スケールの軍艦艦艇や1/35スケールの戦車よりははるかにパーツ数が少なくて楽である。ただ、指でつまんでも持っているかどうかが分からないほどの小さなパーツが幾つかあるのには閉口した。無くさないように注意して、慎重に取り扱った。

 

 車体は、箱組みとなるので、事前に仮組みを行なって、パーツの合わせ位置を確かめておいた。

 

 車体の窓ガラスを、透明プラ板を寸法合わせでカットして上図のように内側の溝にはめ込んで作った。

 

 屋根のパーツをベースにして、車体の四方の壁面パーツを順に組み付けて行った。今回のキットはスハフ42形とスハ43形の2種類があるが、組み立ての段取りは同じであった。上図はスハ43形である。

 

 こちらはスハフ42形である。中の仕切りパーツが1枚多く、車掌室とおぼしき空間があった。

 

 最後に車台に台車をはめこんだ。これはスナップ式で押せば楽にはまるのであった。鉄道コレクションの台車と同じ取り付け方式である。

 

 車台と車体をあわせて完成となる。この手順を4回繰り返して、4輌を仕上げた。

 

 かくして客車4輌が完成した。上図左の2輌がスハ43形、右の2輌がスハフ42形である。前週に大井川鐡道へ取材見学に行って実車を見てきているので、その模型が手元に揃うと、やっぱり感動してしまうのであった。

 とりあえず、大井川鐡道に在籍または預けられている計18輌の客車のうちの4輌が、きかんしゃトーマス列車のオレンジ色の仕様にて完成した。次回は、きかんしゃトーマスの製作に進みたい。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く32 その20  伊東へ

2023年08月22日 | ゆるキャン△

 下田港の観光桟橋から全速で宿に戻る途中、道の駅「開国下田みなと」のゾーン端にある上図のカフェ「ラーマル」の前を通りました。作中および劇中で各務原なでしこ一行が金目鯛バーガーを食べたお店で、私自身も2019年9月の1回目の伊豆半島ゆるキャン聖地巡礼にてここに入って同じ金目鯛バーガーをいただきました。

 

 宿に戻ったのが、予定時間の7時30分ジャストでした。フロントにレンタサイクルのキーを返却し、そのまま朝食会場へ入ってバイキング方式の朝食をいただきました。柿崎弁天島までの往復サイクリングでけっこう疲れてお腹が空いていたので、ゆっくりと30分余りかけて色々なおかずを普段よりも多めに食べ、これからの巡礼行動に備えました。

 というのは、この日の昼過ぎの14時ぐらいに巡礼ルートの全てを終える見込みであったため、昼食をどうするか迷った挙句、弁当を買って帰りの新幹線の中で食べよう、と考えていたからです。それで昼食タイムが二時間ほど遅くなるので、そのぶん朝食を少し多めにとっておくことにしたのでした。

 

 部屋に戻って荷物をまとめ、8時5分にチェックアウトしました。今回の宿「下田伊東園ホテルはな岬」は、個人的に大変気に入りました。部屋も良し、食事も良し、温泉も良し、料金はリーズナブル(一泊二食付きで9500円)でレンタサイクルが無料で使えますので、下田港エリアのゆるキャン聖地巡礼の宿泊地候補として大変におすすめです。

 「下田伊東園ホテルはな岬」の公式サイトはこちら

 

 宿から下田駅まで、約7分をかけて歩きました。この日は日曜日であったためか、朝の下田市街はまだ行き交う人も車もなく、静かでした。朝の街歩きを楽しむには最適な雰囲気でした。

 

 伊豆急下田駅には、8時13分に着きました。予定時刻ピッタリでした。

 

 上図の発光表示板の、一番上の8時23分発の伊豆高原行き普通列車に乗ることになっていたからです。伊豆高原駅で乗り換えて、伊東まで移動する予定でした。券売機にて切符を買いました。伊東まで1690円なり。

 

 8時16分、改札口を通って、ホームに行きました。伊豆急行線に乗るのは今回で四度目ですが、ここ下田から乗るのは初めてでしたので、駅構内の写真を幾つか記念に撮りました。

 

 すでに8時23分発の伊豆高原行き普通列車がホームにて待機していました。

 

 これが今回乗る電車ですか・・・。8151の車番があるので8000系なのかな、どこかで見たような面構えだな、と首を傾げ、すぐに思い当りました。大井川鐡道の旧東急電鉄7200系の改造運転台側の外観にほぼそっくりなのでした。

 そのときは、よく似た電車かあるものだなあ、と感心しただけでしたが、後にゆるキャン車輌が契機となって鉄道模型のNゲージを始めて熱中してから、資料を調べていてこの伊豆急行の電車がもとは東急電鉄の8000系であって、譲渡によって伊豆急行にて運行されていることを知りました。

 その際に、大井川鐡道の旧東急電鉄7200系の改造運転台側の設置が8000系をベースにして実施されたことも知りました。東急電鉄および伊豆急行の8000系が鉄道コレクションで発売されていることも分かったので、Nゲージにおいても、大井川鐡道の旧東急電鉄7200系の改造運転台を同じように8000系の前面部を移植することで再現出来ることも分かりました。

 私は各地の旅行で鉄道をよく利用するので、Nゲージを楽しむ際にそれらの記憶が役立ったりしています。なにが有意義な情報になるか、分からないものですね・・・。

 

 乗り込んで、座席が片側ロングシートと片側クロスシートの組み合わせなのに驚きました。いわゆるセミクロスシートの一種でしょうが、このような片側ずつ、というのは初めて見た気がします。関西ではJR、私鉄ともにこういう座席配置は見たことが無いのですが、関東近郊では多いのでしょうか・・・?

 

 下田を発車してしばらくの間、右側の車窓からは上図のような海の景色が楽しめました。奥に薄っすらと見える島影は、東京都に属する大島でしょうか。

 

 個人的に海が好きなので、こういう大海原の景色は全然見飽きませんでした。初めは左側のクロスシートに座りましたが、右側の海景色を見たくて、右側のロングシートに移動しました。

 

 伊豆稲取駅を出て後は、左側のクロスシートに戻って陸地側の景色を眺めました。上図は、ゆるキャン聖地の一つ、稲取高原の風車群です。

 そういえば、原作コミック第8巻のカバー裏表紙のイラストにもなっている、稲取高原の東伊豆町風力発電所の風車は故障続きにより停止していて、2021年頃に解体撤去されるとか聞きましたが、現在はどうなっているのでしょうか。その方角をずっと観察していましたが、それらしき3基の風車が見当たりませんでした。

 聞いた話では、2024年をメドに大きな風車に置き換える、とのことでしたが、前の風車のローター径が45メートルだったのに対して、新しい風車は倍近い82メートルになるそうです。2024年は来年なので、もとの風車は既に撤去されていると思われますが、それに関する情報が現時点でもあまり出ていないようです。

 

 9時3分、伊豆高原駅にて熱海行きの別の列車に乗り換えました。伊豆急行が2022年4月より新たに導入した3000系「アロハ電車」だそうです。もとはJR京浜東北線の209系としてデビューし、その後房総エリアで運行していた車両を譲渡したものだそうです。

 

 伊東駅には9時33分に着きましたが、バスの時刻が2分後だったので、ホームも改札口もダッシュで駆け抜けて、駅舎の横のバスターミナルまで一気に移動し、待機していた小室山行きの9時35分発のバスに乗り込みました。

 なので、上図の伊東駅の写真をなんとか撮ったのは、バスに乗って座席に落ち着いてからでした。  (続く)

 

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紫野大徳寺22 芳春院 下

2023年08月21日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 芳春院の表門をくぐり、庫裏の受付に向かう途中の前庭にて、上図のような幾つかの石造物が置かれているのを見ました。U氏が「曰くありげな石だな、右のゴツゴツ石はよく分からんが、左の丸いのは灯籠の台石か何かにみえるな」と指さしましたが、説明板も何もないので、詳細は分かりませんでした。

 

 こちらは石塔の基礎と塔身の一層目部分とを重ねたもののように見えました。U氏が「上下で明らかに色が違うし、石の彫り方や風化磨滅の度合いも違う。別々の石造品の部品を合わせたんだろうな」と推測していましたが、私も同じ考えでした。
 特に上の塔身石には四方仏が彫られていて、造りも古いので、室町時代までの中世期になるかな、と思いました。この種の四方仏石は、中世期の十三重や九重などの石層塔の一層目にあたるケースが多いので、江戸期の慶長十三年(1608)に建立された芳春院よりも古い時期のものである可能性があります。

 というより、大徳寺そのものは鎌倉後期の創建ですから、その境内地および塔頭の寺地も鎌倉後期以来の歴史を持ちます。そのなかに数多くの塔頭と子院が建立や移転や退転や廃絶を重ねていますので、鎌倉期や室町期の石造品があちこちに点在していてもおかしくありません。そうしてバラバラになってしまった石造品の残欠が、このような形で芳春院の敷地内に残存しているわけです。

 

 庫裏の建物は明治期の廃仏毀釈による荒廃後に復興されたものといいます。近年に修理されたようで、白壁も屋根の棟木もまだ真新しさを残していました。
 受付はどこかな、と探しましたが、庫裏には無いようなので、本堂方丈につながる玄関廊の唐門のほうへ行ってみることにしました。

 

 玄関廊および唐門です。明治期以降の再建になるらしく、門の破風の型式が近代的になっています。玄関廊の外壁が総白壁になっているのも新しい要素です。が、全体としては江戸期までの和様建築の基準線にのっとっていますので、落ち着いた雰囲気になっています。

 

 唐門から玄関廊に入ったところが受付というか、係員が居て拝観手続きを行なう場所になっていました。芳春院はふだんは非公開で、特別公開も数年ぶりだと聞きました。だから通常の受付があるわけはなく、今回の特別公開に際して臨時に係員が玄関廊にて拝観受付業務を行なっている形でした。

 上図は本堂にあたる方丈とその南の石庭です。慶長十三年の創建時の建物は寛政八年(1796)の火災により失われ、その後に再建された建物も明治期の廃仏毀釈で壊滅していますから、現在の方丈は明治八年(1875)以降の復興によって建てられたものと分かります。
 それにしては、江戸期前半期の様相を随所に垣間見せていますので、おそらく創建時の建物の指図(仕様図面書)などにしたがって規模や形式も踏襲する形で建てられたものと思われます。

 

 方丈の縁側を南から西へと回りました。先を歩いていたU氏が、「そういえばあの小さな門が墓参門なのかね」と振り返って上図の小さな門を指さしました。
 その内側には墓地が見えましたので、墓参門で間違いないようです。これは江戸期の建物で、廃仏毀釈の嵐に耐えてなんとか残りました。京都府の指定文化財に登録されています。

 墓地には芳春院の開基である前田松子(まつ、前田利家の正室・法号は芳春院)や前田利長、利常の前田家霊屋がありますが、今回は非公開でした。京都府の指定文化財に登録されています。

 

 本堂の裏に回ると、今回の特別公開の目玉であり、U氏が楽しみにしていた上図の昭堂がありました。呑湖閣とも呼ばれる楼閣建築で、もとは元和三年(1617)に創建されましたが、現在の建物は文化十二年(1815)の再建です。金閣・銀閣・飛雲閣と並んで京の四閣と称されているそうです。方丈と繋ぐ上図左端の「打月橋」と呼ばれる廊下橋とともに京都府の指定文化財に登録されています。

 

 この昭堂は、境内地の高台に位置して、東には園池と石を積み重ねて配置した石組とがあり、さながら金閣や銀閣のミニチュアを見るような感じです。ですが、芳春院においては開基や前田家の供養堂と位置付けており、内部には開祖の玉室宗珀像およびや前田家歴代の位牌などが安置されています。周囲に広がる墓地の中央に位置する点からも、総供養堂としての性格を持つことが明らかです。

 

 なかなか見ごたえのある建物と庭園の組み合わせでした。U氏も私も三度ぐらいは振り返って見ました。

 

 その先の裏庭に、上図の手水石がありますが、U氏が「台石が別の石造品のものを転用してるようだな」と指さしました。確かに逆三角形の自然石の手水石の下には、綺麗に蓮華紋を四方に彫りあらわした台石がありました。墓塔か石層塔の台座石のように見えましたが、転用品であるのは間違いない、と私も思いました。

 他にも礎石のような、妙な石が幾つか見えましたので、芳春院の位置にはかつて別の子院か塔頭があったのだろう、と思いましたが、大徳寺本山の古文献にも欠失が多く見られるためか、芳春院以前の歴史については不明であるそうです。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く32 その19  下田港の巡視船

2023年08月20日 | ゆるキャン△

 柿崎弁天島、なかなか見ごたえがあって面白いところでした。下田観光では必見のスポットだと思います。

 

 名残惜しいので、各所の特徴ある部分を記念に撮りました。上図は島のてっぺん。

 

 北側の深く抉れて白っぽくなっている斜交層理。

 

 大きな岩の下の裂け目のような縦のえぐれ部分。

 

 島の西側の斜交層理の崖面。西側に民家があるために、そちらへは近寄れません。

 

 島の西側の弁天島公園にある、吉田松陰らの踏海企ての跡の説明板。ここには観光駐車場もありますので、車でも入れます。

 

 残り15分をきったので、急いで下田港沿いの公園を走り抜けて戻りました。上図は志摩リンが浸かっていた「海辺の足湯」のベンチ。

 

 さ、坂本先生ぇええっ!!  (アホかお前は)

 

 志摩リンが「錨でけー」と思った例の錨。

 

 志摩リンが「黒船じゃー 黒船来航じゃー」と言っていた下田湾の観光遊覧船サスケハナ号。

 

 おおっ、サスケハナ号とともに桟橋に停泊しているのは海上保安庁の巡視船じゃないか、と気付いて、急いでいるのに桟橋へと寄り道をしてしまいました。

 

 うわー、かっちょええええ!!もっと近くで見たい、見るぞ・・・。

 

 で、桟橋へ寄って近づきました。船尾甲板上に箱型の搭載艇揚降装置が見えたので、すぐに「とから型」巡視船だと分かりました。有名な1999年の能登半島沖不審船事件の教訓によって新たに性能強化型として建造され2003年から就役したタイプです。北朝鮮工作船対策のため、主に北九州市に本部がある第七管区に多くの同型船が配属されていますが、ここ下田の第三管区にも一隻が配備されています。

 

 船名は「かの」、船番号はPM30、20隻の同型船の10番船でした。船首甲板には御覧のとおり、JM61-RFS 20mm6銃身機銃の単装マウントが設置されています。アメリカのM61バルカン砲を日本でライセンス生産したもので、自衛隊の戦闘機や艦艇にも装備されています。

 この機関銃が、2001年の九州南西海域工作船事件において北朝鮮の工作船相手に威力を発揮し、その船体に致命傷を与えたことは周知の通りです。

 

 昨日から見ている「しきね」と同じく、第三管区の所属です。確か三隻が配属されていたと思うのですが、あと一隻は巡視艇「いずなみ」だったかな・・・?それは、下田湾内を見回しても見当たりませんでした。出動してパトロール中だったのかな・・・?

 

 巡視船「かの」の反対側に停泊していた観光遊覧船「サスケハナ号」です。観光客を乗せるための客席と屋根が設けられているため、史実の「サスケハナ号」とはちょっと姿が違います。

 って、そんなことはどうでもいい、あと4分しかないじゃないか、と時計を見つつ宿へと全速でペダルを漕いで駆け戻りました。  (続く)

 

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黒森峰女学園 ティーガーⅡ(ポルシェ砲塔)(フェイズエリカ仕様) 作ります!! その2

2023年08月19日 | ガルパン模型制作記

 ステップ2では砲身や砲塔各部の組み立てを行ないます。組み立てガイドの指示通りに進めます。

 

 ステップ2で組み立てるパーツ類です。タミヤですとパーツ数もこの通りですが、ドラゴンやホビーボスになるとさらに細かく分割されていますから、組み立て作業の手間も増えます。
 なんで海外のメーカーのキットはパーツ割が細かいのか、とよく言われるようですが、実はそちらが国際的な基準に近いそうです。むしろタミヤの方が特殊なのだ、と何かの雑誌で読んだ記憶があります。

 

 組み上がりました。いかにもティーガーⅡの砲塔、砲身だという存在感、強者感があります。

 

 ステップ3ではサスペンションや背面部を組み付けます。

 

 ステップ3で取り付けるパーツ類です。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ4では車輪類を組み立てます。ステップ5ではサスペンションに車輪を組み付けます。今回のティーガーⅡは車輪も鋼製でタイヤゴムが無く、車体と同一のカラーですので、組み付けて一緒に塗装しても問題ありません。

 

 ステップ4で組み立てる車輪類のパーツです。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ5に進みました。

 

 全て組み付けました。この車輪の配列は、実際に整備する側にとっては大変な難物だったことでしょう。内側の転輪を交換かするのに、外側の左右の転輪を外さないといけませんから・・・。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く32 その18  柿崎弁天島

2023年08月18日 | ゆるキャン△

 伊豆半島ゆるキャン聖地のひとつ柿崎弁天島は、御覧のように南側は海に面しています。もとは独立した島であったのが、下田港の防波堤を設けた際に接続されて道路が通じ、今では地続きになっています。だから普通に行けるわけです。

 

 島の東側の一段高い平場には、下田市の史跡に指定されている「吉田松陰 踏海の企跡」の石碑と標柱があります。    

 幕末の嘉永七年(1854)に日米和親条約締結のためペリー提督が2度目の来日を果たして下田港に入った際、吉田松陰は、ペリーの黒船に密航して渡米しようと企て、金子重之輔を伴ってここ弁天島からひそかに船を出しました。いちおう黒船には到達したものの、江戸幕府との外交交渉に支障が出るのを恐れたペリーは、面会もせず追い返し、部下に命じて艦隊のボートで送り返させたのでした。
 この密航失敗により、吉田松陰らは投獄されました。当時は鎖国中で海外への出航は禁じられていたからです。

 

 伝承によれば、島の東側の海岸から夜陰にまぎれて出航したといいます。確かに東側は御覧のとおり断崖ではなくて階段状の岩棚になっており、海に出やすい地形状態であったことが分かります。

 

 柿崎弁天島には、二つの神社が並んで建っています。観光歩道入り口からあがると、上図のように見えますが、右手前が鷺島神社、奥が下田龍神宮です。

 

 いずれも江戸時代の建立で、鷺島神社の建物のほうは、吉田松陰らが密航計画を練って身をひそめた場所と伝わっています。その当時の建物が現存していますから、幕末維新の歴史ファンの聖地スポットとして知られているそうです。

 

 下田龍神宮の本殿に拝礼しました。昔、九州の廿日市や別府に住んでいた頃に、阿蘇山の火山性溶岩流や堆積物層、火山性隆起地層の痕跡を見に行きましたが、その多くで近くに龍神の祠が祀られていて、地元の郷土史家が「龍神とは、一説では火山活動の神格化である」と教えてくれたことがあります。

 そういえば、郷里の奈良県でも火山帯の隆起断崖や洞窟に龍神が祀られていて、代表格が室生村の龍穴神社でありました。龍神というと川や滝の近くにも祀られるケースがあれますので、水神と思われがちですが、その川や滝が多くは火山性の地形に派生したケースが殆どであります。

 

 なので、ここ柿崎弁天島の見上げるような高さの斜交層理も、火山活動による地層形成とその浸食および隆起によって成立したことから、火山性の天然造形物の一種であることが分かります。昔の人々もそのことを知っていて、火山の神格である龍神をお祀りしてきたのでしょう。

 

 龍神宮の社前から南を見ました。静かに凪ぐ下田灘の海面が広がっていました。

 

 龍神宮の奥には波浪による浸食で形成された洞窟がありますが、そこへの観光歩道が上図のように崩落していて立ち入り禁止となっていました。

 

 それで、残念ながら、洞窟の入り口の一部だけを遠望するにとどまりました。

 

 付近の海岸の岩棚を見下ろすと、かつて存在したという桟橋の支柱の穴が四つ見えました。昭和の始めまではここは下田湾内の島でしたから、龍神宮にお参りするためには船で渡っていたわけです。その頃の桟橋の痕跡です。

 

 観光歩道が崩落した場所の直上の斜交層理の崖面も下が大きく抉れていました。その剥落した岩が下の観光歩道を破壊してしまったのだと分かりました。地震とか強風とかが無くても、この種の地層は風化が進み、時には崩れたりしますから、どこでも見学の際には注意が必要です。

 

 しかし、柿崎弁天島からの景色はどこでも絵になりますな・・・。

 

 龍神宮の社殿の背後には、御覧の通り粗っぽい削られ方をとどめる斜交層理の崖面が高くそびえていました。龍神のようにも見えてなかなか見ごたえがあり、しばらく見とれてしまいました。

 

 引き返して、車道に戻りました。

 

 再び、あfろ氏の描き下ろしイラストのアングルで見ましたが、この島全体の塊を奥まで見渡せるポイントは、ここしかない事に気付きました。

 あfろ氏もおそらく現地に取材に来たのでしょうし、島全体を一通り回って見たでしょうから、柿崎弁天島の全容を捉え得るビューポイントがここだけしかないことを分かっていたのかもしれません。  (続く)

 

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紫野大徳寺21 芳春院 上

2023年08月17日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2023年2月11日、水戸の友人U氏の京都散策に付き合って、紫野の大徳寺および花園の妙心寺を回りました。春の京都の特別公開で見たいものがあるから行こうぜ、と誘われたからでした。U氏は奥さんも連れてきていて、そちらは私の嫁さんと四条河原町へショッピングに行くとかで、夕方に合流して4人で食事しよう、ということになりました。

 今回U氏がリクエストした特別公開スポットは、大徳寺の塔頭2ヶ所と妙心寺の塔頭2ヶ所でした。いずれも行った事が無かったので、興味津々でお供しました。祇園四条の宿に前泊してきたU氏と8時に合流して、市バス206系統に乗り、大徳寺前で降りて上図の中門から境内地に進みました。

 

 U氏のリクエストの1ヶ所目は、上図の三玄院でした。石田三成や古田織部の墓があることで知られますが、寺そのものは明治11年にかつての龍翔寺の場所であった現在地に移転しているそうで、建物や庭園もその頃から整備されてきたもののようです。
 なので、管見の限りでは、国や府の指定文化財になっているものは無い、と聞いています。

 

 さらに、三玄院の門内は写真撮影が不可となっていました。にもかかわらず大勢の観光客や見学希望者が集まり、行列を作っていました。誘導係が整理番号札をあらかじめ配り、人数を限ってグループごとにまとめて待機させ、間を置いて順に入れる形でした。見学範囲は寺域の半分にも満たず、本堂、方丈、庭園の一部しか公開しなかったため、大勢の人数が一度に入れなかったからでした。

 それでもU氏が「絶対に行く、行かなかったら一生後悔するかもしれん」と言い、長い待機行列にじっと佇んでいたのは、今回の三玄院の特別公開が、なんと50年ぶりであったからでした。今年2023年3月に文化庁が京都に移転するのを記念して、NHK大河ドラマ「どうする家康」にちなんで家康とゆかりある人物の史跡を公開する、との趣旨にのっとっての特別公開でした。

 

 三玄院の見学は、時間を限ってグループごとに係員に案内されて回る形でした。次のグループが控えているので、立ち止まったり座ったりはNGで、回るというより、人の波に押し流されているのが実態でした。

 それでほとんど見るべき対象も定まらず、寺内の何ものも印象に残らないまま、5分足らずで退出しましたが、U氏も同じ思いだったようで「何も無かったな、せめて三成公の墓ぐらいは拝みたかったな」とボヤいていました。

 ですが、次はU氏のリクエストのメインであった芳春院でしたので、「よし次だ」と元気になってそちらへ足早に向かってゆくのでした。

 

 芳春院の山門です。寺が明治の廃仏毀釈で壊滅して荒廃したため、参道入口に位置するこの門も、明治八年(1875)以降の復興において設けられています。境内地は北に離れていて別に表門が建っているので、こちらの門は山門というより通用口というのに近いです。

 

 表門から参道を北へしばらく進みました。その西側は塔頭の如意庵の境内地となっています。その土塀に沿って梅、桜、紅葉の木が並ぶので、春秋を通じて花の見どころにもなっています。私たちが訪れたのは2月でしたから、花の咲く時期には早すぎました。

 

 参道を北の突き当りで右折して進むと、上図の表門がありました。ここからが芳春院の寺域にあたります。表門は江戸期の建物で、廃仏毀釈後の荒廃期にはボロボロになっていたそうですが、明治八年からの復興事業において修理され、旧観を取り戻しています。京都府の指定文化財に登録されています。

 

 表門の東側の塀は、御覧のとおりの瓦土塀でした。奈良や京都の古社寺では古代からの遺構をよく見かけますが、関東では古いものは少ないらしく、U氏がしきりに珍しがって立ち止まって観察し、写真を撮っていました。

 このように土塀の壁面に瓦を埋め込むことで、土塀に染み込んだ雨水を排水し、かつ土塀自体の強度を増す効果があります。同時に見た目にも変化がありますので、土塀の意匠の一つとして、中世期から好んで採用されるようになったと聞きます。

 古代においては、古い土塀を修理または造りなおす際に、古い瓦や割れた瓦を材料の一部に組み込んで有効に再利用したケースが多いのですが、中世期には瓦そのものが頑丈になって建築用素材としても活用出来るようになったため、このような瓦土塀がよく作られています。土だけの土塀よりも頑丈で耐久性があるため、戦国期には城郭の塀にもよく採用されています。

 

 瓦土塀を観察し終えたU氏が、なにか満足げに「では、参りましょうかの」と水戸光圀ばりの口調で話しかけてきたので、こちらもおどけて佐々木助三郎の口調で「ははっ」と短く応じて、先導して上図の庫裏へと向かいました。  (続く)

 

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